第5章 〈慣用音〉について
第3節 慣用音と認めるべき理由と範囲 3.1 慣用音とは見なしがたいもの( 36 字)
③ 最初から、韻書の音と異なる音を生じたと考えられるもの(12 字)
院イン(ヰン)(p.186) 員イン(ヰン)(p.185) 韻イン(ヰン)(p.186) 撃ゲキ(p.129) 惨ザン(p.130) 充ジュウ(p.117) 銃ジュウ(p.118) 遵ジュン(p.126) 迅ジン(p.125) 説ゼイ(p.122) 鋳チュウ(チウ)(p.184) 父ホ(p.187)
「鋳チュウ ( チウ ) 」
鋳 字母:照(清) 韻目:遇(3甲) 反切:之戍切(注)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― ― ス
漢音 シュ・シュウ(シウ) シュ シュ
慣用音 チュウ(チウ) チュウ(チウ) チュウ(チウ)
「鋳」の中古音は、照母遇韻 3 等甲類なので、呉音は「ス」または「シュ」、漢音は
「シュ」となることが期待される。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』のみ「ス」を認め、漢音は三種すべてが「シ ュ」としている。このほか、『角川新字源』は「シュウ(シウ)」も漢音に認めている。
漢和辞典が見出し語として立てている漢語を見ると、「鋳銭チュウセン」「鋳造チュウ ゾウ」「鋳像チュウゾウ」「鋳貨チュウカ」「鋳鉄チュウテツ」…のように、すべて「チュ ウ」で読まれる。
「鋳」の声符「寿(壽)」は、有韻(禅母 3 等甲類)と宥韻(禅母 3 等甲類)に属す るので、呉音「ジュ」、漢音「シュウ(シウ)」になる。現代の漢語では、「寿福ジュフク」
「寿命ジュミョウ」「長寿チョウジュ」などのように、すべて「ジュ」で読まれるので、
声符からの類推とは考え難い。
「鋳」と同じ小韻には「注」があるが、「注意チュウイ」「注射チュウシャ」「注文チュ ウモン」「注釈チュウシャク」「注進チュウシン」…のように、「注」もすべて「チュウ」
で読まれる。
この「注」の声符または同じ声符をもつ字には「主」「柱」「住」「駐」「註」…がある。
このうち、「主」は「注」と四声相配するが、「主役シュヤク」「坊主ボウズ」などのよ うに、「シュ」または「ズ」で読まれ、「チュウ」で読まれた漢語は見出せない。
一方、共通の声符を有する形成字「柱」(澄母麌韻 3 等、知母遇韻 3 等)「住」(澄母 遇韻3等)「駐」(知母遇韻3等)「註」(知母遇韻3等)はすべて舌音3等に属し、呉音 は、澄母では「ジュウ(ヂウ)」、知母では「チュウ(チウ)」、漢音は「チュウ(チウ)」にな る。現に、「住居ジュウキョ」「電柱デンチュウ」「駐車チュウシャ」「註釈チュウシャク」
などのように、現代の漢語ではすべて「ジュウ(ヂウ)」「チュウ」で読まれる。
「注チュウ」は、同じ声符をもつ「柱」「駐」「註」などからの類推であると考えられ る。
歯音の「鋳」が舌音の形「チュウ」で読まれるのは、同じ小韻である「注」と同様の 環境(歯音が舌音と混同しやすい環境)において生じた歯音と舌音の混同であると思わ れる。
「員イン ( ヰン ) 」
員
字母:喩(清濁) 喩(清濁) 喩(清濁)
韻目:問(3乙) 文(3乙) 仙(3乙)
反切:王問切(運) 王分切(雲) 王權切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 エン(ヱン) ― エン(ヱン)・ウン 漢音 エン(ヱン)・ウン エン(ヱン)・ウン エン(ヱン)・イン(ヰン) 慣用音 イン(ヰン) イン(ヰン) イン(ヰン)
「員」は喩母3等乙類であるが、3つの韻(問・文・仙)に属する。
仙韻については、呉音・漢音共に「エン(ヱン)」となるのが原則である。
辞書では、呉音は『角川新字源』と『学研新漢和大字典』が「エン(ヱン)」とし、漢 音は三種すべてが「エン(ヱン)」としている。
問韻と文韻は四声相配するので一緒に検討すると、呉音・漢音共に「ウン」になるの が原則である。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』が「ウン」とし、漢音は『角川新字源』と『新 選漢和辞典』が「ウン」、『学研新漢和大字典』が「イン(ヰン)」としている。
漢和辞典が見出し語として立てている漢語を見ると、「員外インガイ」「員石インセキ」
「団員ダンイン」「会員カイイン」「役員ヤクイン」…のように、すべて「イン(ヰン)」
で読まれる。
「員」と同じ声符をもつ字には、「韻」「隕」「殞」などがある。
このうち、「韻」(喩母問韻3 等乙類)は、問韻(3等乙類)の「員」と同じ小韻であ り、呉音・漢音共に「ウン」になるのが原則であるが、「韻書インショ」「音韻オンイン」
「押韻オウイン」などのように、すべて「イン(ヰン)」で読まれる。これは、「員」と全 く同じである。
また「隕」(喩母軫韻3等乙類)は、呉音・漢音共に「イン(ヰン)」になるのが原則で あり、「隕石インセキ」「隕墜インツイ」などのように、すべて「イン(ヰン)」で読まれ る。
「員イン(ヰン)」「韻イン(ヰン)」は、「隕イン(ヰン)」からの類推である可能性は否定 できないが、使用頻度から考えて、よりそれが高いと思われる「員」「韻」の音が「隕」
から類推されるとは考え難い。韻書・韻図の体系には矛盾するが、「員イン(ヰン)」「韻 イン(ヰン)」は最初から「イン(ヰン)」として取り入れられた可能性が大きい。
「韻イン ( ヰン ) 」
韻 字母:喩(清濁) 韻目:問(3乙) 反切:王問切(運)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― ― ウン
漢音 ウン ウン ウン
慣用音 イン(ヰン) イン(ヰン) イン(ヰン)
「韻」の中古音は、喩母問韻3等乙類なので、呉音・漢音共に「ウン」になることが 期待される。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』のみ「ウン」を認め、漢音は三種すべてが「ウ ン」としている。
調査に使用した漢和辞典の見出し漢語では、「韻書インショ」「韻学インガク」「韻文イ ンブン」「韻律インリツ」「余韻ヨイン」「押韻オウイン」「音韻オンイン」…のように、
すべて「イン(ヰン)」で読まれる。
「韻」が「イン(ヰン)」になる理由については、「員」の場合と同様に考えられる。
「院イン(ヰン)」
院 字母:匣(濁) 喩(清濁)
韻目:桓(1) 線(3乙)
反切:胡官切(桓) 于願切(瑗)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 エン(ヱン) ― エン(ヱン) 漢音 カン(クヮン) エン(ヱン)・カン(クヮン) エン(ヱン) 慣用音 イン(ヰン) イン(ヰン) イン(ヰン)
「院」は2つの韻に属する。
桓韻に関しては、匣母1 等なので、呉音は「ガン(グヮン)」、漢音は「カン(クヮン)」
になるのが原則である。
辞書では、呉音は三種すべてが認めておらず、漢音は『角川新字源』と『新選漢和辞 典』が「カン(クヮン)」を認めている。
線韻に関しては、喩母 3 等乙類なので、呉音・漢音共に「エン(ヱン)」になるのが原 則である。
辞書では、呉音は『角川新字源』と『学研新漢和大字典』が「エン(ヱン)」を認め、
漢音は三種すべてが「エン(ヱン)」を認めている
調査した辞書が見出し語に立てている漢語を見ると、「院政インセイ」「院中インチュ ウ」「院落インラク」「院展インテン」「寺院ジイン」「医院イイン」…のように、すべて
「イン(ヰン)」で読まれる。
「院」の声符「完」は、匣母桓韻1等なので、呉音は「ガン(グヮン)」、漢音は「カン
(クヮン)」になる。現に、「完全カンゼン」「完了カンリョウ」「完封カンプウ」などのよ
うに、現代の漢語ではすべて「カン(クヮン)」で読まれるので、声符からの類推とは考 え難い。
「院」と同じ小韻には「援」「媛」などがあるが、「援護エンゴ」「応援オウエン」「才 媛サイエン」などのようにすべて「エン(ヱン)」で読まれるので、同じ小韻からの影響 とは考え難い。
「院」が属する線韻と四声相配する仙韻には「員」がある。「員」も「員数インスウ」
「員石インセキ」「定員テイイン」「教員キョウイン」「店員テンイン」などのように、現 代の漢語ではすべて「イン(ヰン)」で読まれる。
「員」と同じ声符をもつ字には、「隕」「韻」などがある。
「隕」は喩母軫韻3等乙類なので、呉音・漢音共に「イン(ヰン)」になる。現に、「隕 石インセキ」「隕失インシツ」「隕墜インツイ」などのように、現代の漢語ではすべて「イ ン(ヰン)」で読まれる。
一方、「韻」は喩母問韻 3 等乙類なので、呉音・漢音共に「ウン」になる。しかし、
現代の漢語では「韻書インショ」「韻文インブン」「押韻オウイン」などのように、すべ て「イン(ヰン)」で読まれる。
以上から、「員」「韻」などと同様、「院」も韻書の反切から導かれる音とは異なる「イ ン(ヰン)」の音を生じたと考えられる。
「父ホ」
父 字母:非(清) 奉(濁)
韻目:麌(3乙) 麌(3乙)
反切:方矩切(甫) 扶雨切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 フ ブ ブ・フ
漢音 フ フ フ
慣用音 ホ ホ ホ
「父」は、2つの韻に属する。
非母麌韻3等乙類に関しては、呉音・漢音共に「フ」になるのが原則である。
奉母麌韻 3 等乙類に関しては、濁紐字なので呉音は「ブ」、無声化した漢音は「フ」
になるのが原則である。
「父」の字音は、辞書によって認め方が異なるので各々見ると、
『角川新字源』:麌韻 呉音「フ」漢音「フ」 意)ちち。他
麌韻 呉音「―」漢音「フ」慣用音「ホ」意)男子に対する総称。他
『新選漢和辞典』:麌韻 呉音「ブ」漢音「フ」慣用音「ホ」意)ちち。他
麌韻 呉音「ブ」漢音「フ」慣用音「ホ」 意)男性の老人の総称。他
『学研新漢和大字典』:麌韻 呉音「ブ」漢音「フ」 意)ちち。男親。他 麌韻 呉音「フ」漢音「フ」慣用音「ホ」意)年老いた男。他
のように、呉音は『角川新字源』が「フ」のみ、『新選漢和辞典』が「ブ」のみ、『学研 新漢和大字典』が「ブ」と「フ」とし、漢音は三種すべてが「フ」としている。
調査した漢和辞典の見出し漢語では、「父母フボ」「父兄フケイ」「父子フシ」「伯父ハ クフ」「叔父シュクフ」…のように、ほとんどが「フ」で読まれるが、「漁父ギョホ・ギ ョフ」「田父デンホ」「亜父アホ」「仲父チュウホ」…のように、「父」が漢語の末尾にあ ると「ホ」で読まれる場合がある。
遇摂第12転を見ると、3等韻では「膚フ・フ」「付フ・フ」「無ム・ブ」などのように、
呉音・漢音共に-uになるのに対し、1等韻では「補フ・ホ」「奴ヌ・ド」などのように、
呉音は-u、漢音は-oになる。
「父」は「甫」(非母)と同じ小韻であり、呉音・漢音共に「フ」になるのが原則であ るが、辞書を見ると、「甫」は「甫田ホデン」「甫甫ホホ」「尼甫ジホ」「章甫ショウホ」
のように、すべて「ホ」で読まれる。
この「甫」と同じ声符をもつ字には、「捕」「補」「舗」「輔」「浦」「圃」などがある。
このうち、日常よく使用される「捕」「補」「舗」はすべて遇摂の1等韻なので、漢音 は「ホ」になるのが原則である。現に、「捕獲ホカク」「補欠ホケツ」「店舗テンポ」…の ように、現代の漢語では「ホ」で読まれる。
「輔」は遇摂の3等乙類なので、呉音は「ブ」漢音は「フ」になるのが原則であるが、
「輔行ホコウ」「輔車ホシャ」「輔弼ホヒツ」のように、漢語はすべて「ホ」で読まれる。
以上から、「父ホ」は、同じ小韻である「甫」または声符「甫」をもつ字と同様、漢音
(特に唇音)において-uのほかに-oの形を生じた結果であると思われる。