第5章 〈慣用音〉について
第3節 慣用音と認めるべき理由と範囲 3.1 慣用音とは見なしがたいもの( 36 字)
④ 連濁の影響と考えられるもの(3 字)
『角川新字源』:麌韻 呉音「フ」漢音「フ」 意)ちち。他
麌韻 呉音「―」漢音「フ」慣用音「ホ」意)男子に対する総称。他
『新選漢和辞典』:麌韻 呉音「ブ」漢音「フ」慣用音「ホ」意)ちち。他
麌韻 呉音「ブ」漢音「フ」慣用音「ホ」 意)男性の老人の総称。他
『学研新漢和大字典』:麌韻 呉音「ブ」漢音「フ」 意)ちち。男親。他 麌韻 呉音「フ」漢音「フ」慣用音「ホ」意)年老いた男。他
のように、呉音は『角川新字源』が「フ」のみ、『新選漢和辞典』が「ブ」のみ、『学研 新漢和大字典』が「ブ」と「フ」とし、漢音は三種すべてが「フ」としている。
調査した漢和辞典の見出し漢語では、「父母フボ」「父兄フケイ」「父子フシ」「伯父ハ クフ」「叔父シュクフ」…のように、ほとんどが「フ」で読まれるが、「漁父ギョホ・ギ ョフ」「田父デンホ」「亜父アホ」「仲父チュウホ」…のように、「父」が漢語の末尾にあ ると「ホ」で読まれる場合がある。
遇摂第12転を見ると、3等韻では「膚フ・フ」「付フ・フ」「無ム・ブ」などのように、
呉音・漢音共に-uになるのに対し、1等韻では「補フ・ホ」「奴ヌ・ド」などのように、
呉音は-u、漢音は-oになる。
「父」は「甫」(非母)と同じ小韻であり、呉音・漢音共に「フ」になるのが原則であ るが、辞書を見ると、「甫」は「甫田ホデン」「甫甫ホホ」「尼甫ジホ」「章甫ショウホ」
のように、すべて「ホ」で読まれる。
この「甫」と同じ声符をもつ字には、「捕」「補」「舗」「輔」「浦」「圃」などがある。
このうち、日常よく使用される「捕」「補」「舗」はすべて遇摂の1等韻なので、漢音 は「ホ」になるのが原則である。現に、「捕獲ホカク」「補欠ホケツ」「店舗テンポ」…の ように、現代の漢語では「ホ」で読まれる。
「輔」は遇摂の3等乙類なので、呉音は「ブ」漢音は「フ」になるのが原則であるが、
「輔行ホコウ」「輔車ホシャ」「輔弼ホヒツ」のように、漢語はすべて「ホ」で読まれる。
以上から、「父ホ」は、同じ小韻である「甫」または声符「甫」をもつ字と同様、漢音
(特に唇音)において-uのほかに-oの形を生じた結果であると思われる。
「宮グウ」
宮 字母:見(清)(開) 韻目:東(3乙) 反切:居戎切(弓)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ク ク ク・クウ
漢音 キュウ キュウ(キウ) キュウ 慣用音 グウ・クウ グウ グウ
「宮」の中古音は、見母東韻3等乙類である。東韻・鐘韻(上声・去声も含む)の呉 音は「公ク」「供ク」などのように-u になるものと、「空クウ」「風フウ」などのように -uu になるものとがあるので、これに従うと、「宮」の呉音は「ク」または「クウ」、漢 音は「キュウ(キウ)」になることが期待される。
辞書では、三種すべてが呉音は「ク」、漢音は「キュウ(キウ)」としている。
この字が用いられる漢語の多くは、「宮殿キュウデン」「宮中キュウチュウ」「離宮リキ ュウ」などのように漢音が用いられるが、「宮内庁クナイチョウ」「内宮ナイクウ」「宮司 グウジ」などのように呉音で読む語もある。
呉音における母音の長短、すなわち「ク」と「クウ」のような関係は明らかでない。
同様の例に「集シュ/シュウ」などがある。長音形は漢語としての語形を補強し、整え るために発生したことも考えられる。
清・濁について見ると、三種すべての辞書が慣用音に「グウ」を認めている。漢和辞 典を見ると、「神宮ジングウ」「行宮アングウ」「東宮トウグウ」…などがある。「神」「行」
「東」はすべて鼻音韻尾をもつ字なので、「宮グウ」は連濁の影響によるものと考えられ る。
「板バン」
板 字母:幇(清) 韻目:潸(2) 反切:布綰切(版)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ハン ハン ヘン
漢音 ハン ハン ハン
慣用音 バン バン バン
「板」の中古音は、幇母潸韻2等なので、呉音・漢音共に「ハン」になることが期待 される。
辞書では、呉音は『角川新字源』と『新選漢和辞典』が「ハン」、『学研新漢和大字典』
が「ヘン」を認めているが、『学研新漢和大字典』が呉音に「ヘン」を認める理由は不明 である。漢音は三種すべてが「ハン」としている。
漢和辞典に収録されている漢語を見ると、「板橋ハンキョウ」「板屋ハンオク」「板刻ハ ンコク」…のように、「ハン」で読まれるものが多いが、「板書バンショ」「板木ハンギ・
バンギ」のように、濁音形の「バン」で読まれるものも存在する。
慣用音は、三種すべてが「バン」を認めている。「板」は清音の字であるから、中古音 から濁音形「バン」を導き出すことはできない。
「板」が「バン」で読まれる理由として、まず考えられるのは声符「反」からの類推 であるが、「反」元韻敷母3等で呉音「ホン」、漢音「ハン」のように呉音・漢音共に清 音であり、濁音の「バン」で読まれた例はない。ちなみに「反」と同じ声符をもつ漢字 は「坂」「版」「飯」「販」などがあるが、これらもすべて「ハン」で読まれ、「バン」で 読まれる例はない。従って、「バン」は声符「反」からの類推とは考え難い。
「板バン」で読まれる漢語には、「看板カンバン」「鉛板エンバン」…のように、鼻音 の後に続くものが見られる。従って、「板バン」は連濁によって「○○板(○○バン)」の ように読まれた可能性がある。
「判バン」
判 字母:滂(次清) 韻目:換(1) 反切:普半切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ハン ハン ハン
漢音 ハン ハン ハン
慣用音 バン バン・ホウ(ハウ) バン
「判」の中古音は、滂母換韻1等なので、呉音・漢音共に「ハン」になるのが原則で ある。
辞書を見ると、三種すべての辞書が呉音・漢音共に「ハン」を認めている。
漢和辞典に収録されている漢語では、「判然ハンゼン」「判断ハンダン」「判定ハンテイ」
…のように、一般に「ハン」で読まれるが、「裁判サイバン」「評判ヒョウバン」…のよ うに、濁音の「バン」で読まれるものや、「審判シンパン」「談判ダンパン」…のように、
半濁音の「パン」で読まれるものも存在する。
「判」が「バン」や「パン」で読まれるのは、漢語の二字目に現れる場合に限られる。
このことから、「バン」は連濁の影響によるものであり、「パン」は鼻音または入声音に 続くハ行子音が半濁音化したものであると考えられる。ただし、「公判コウハン」のよう に、鼻音の後でも濁音にならない漢語が存在する。
三種すべての辞書が慣用音として認めている「判バン」は、連濁が字音化したものと 考えられるが、中古音から導き出すことができないから、慣用音と認めざるを得ない。
半濁音化は、特定の条件下で起こる漢語の音であり、従って「パン」は字音とは認め
難い。
『新選漢和辞典』のみ、「バン」のほかに「ホウ(ハウ)」も慣用音に認めている。漢語 は「判官ホウガン/ハンガン」の一語のみであるが、「ホウガン」は慣用的な語形である から、「ホウ(ハウ)」を字音と認める限り、やはり慣用音としなければならない。