第5章 〈慣用音〉について
第3節 慣用音と認めるべき理由と範囲 3.1 慣用音とは見なしがたいもの( 36 字)
① 声符の類推にもとづくもの(37 字)
均イン(ヰン)(p.170) 街ガイ(p.160) 該ガイ(p.161) 危キ(p.169) 犠ギ(p.159) 喫キツ(p.168) 暁ギョウ(ゲウ)(p.127) 紅ク(p.135) 偶グウ(p.175) 遇グウ(p.173) 隅グウ(p.174) 茎ケイ(p.162) 験ケン(p.172) 誇コ(p.161) 祉シ(p.156) 璽ジ(p.166) 煮シャ(p.158) 縦ジュウ(p.166) 汁ジュウ(ジフ)(p.176) 蒸ジョウ(p.131) 髄ズイ(p.173) 責セキ(p.155) 憎ゾウ(p.175) 蛇ダ(p.165) 滞タイ(p.163) 堪タン(p.154) 注チュウ(p.171) 緒チョ(p.164) 濃ノウ(p.167) 爆バク(p.168) 批ヒ(p.158) 沸フツ(p.170) 噴フン(p.163) 紡ボウ(バウ)(p.127) 朴ボク(p.156) 輸ユ(p.157) 虜リョ(p.171)
「堪タン」
堪 字母:渓(次清) 韻目:覃(1) 反切:口含切(龕)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― カン コン(コム)
漢音 カン カン カン(カム)
慣用音 タン タン タン
「堪」の中古音は、渓母覃韻 1 等なので、呉音・漢音共に「カン(カム)」になること が期待される。
辞書では、呉音は『新選漢和辞典』が「カン」、『学研新漢和大字典』は「コン(コム)」
を認め、漢音は三種すべてが「カン」としている。
『学研新漢和大字典』が呉音に「コン(コム)」を認めた理由については、「堪」と同じ 覃韻の字は「曇ドン(ドム)」「含ゴン(ゴム)」(「阿含経アゴンキョウ」)などがあり、それ らの例から「堪」の呉音にも「コン(コム)」を認めた可能性があるが、「堪」が「コン(コ ム)」で読まれた例は見出せない。
辞書に収録されている漢語では、「堪忍カンニン」「堪輿カンヨ」のように、漢音「カ ン」で読まれるが、「堪能タンノウ・カンノウ」に限っては、一般に「タン」で読まれる。
この「タン」は、中古音から説明できないので、慣用音と認めざるを得ない。
「堪」の声符および同じ声符をもつ字には「甚」「勘」「湛」などがある。
「甚」は沁韻に属し、中古音から呉音は「ジン(ジム)」漢音は「シン(シム)」になるこ とが期待され、現代漢語は「甚雨ジンウ」「甚句ジンク」「甚大ジンダイ」…のように、
すべて「ジン(ジム)」で読まれる。
「勘」は勘韻に属し、中古音から呉音・漢音共に「カン(カム)」になることが期待さ れ、現代漢語は「勘合カンゴウ」「勘査カンサ」「勘弁カンベン」…のように、すべて「カ ン」で読まれる。
一方、「湛」は覃韻と侵韻に属し、現代漢語では「湛然タンゼン」「湛露タンロ」「湛恩 チンオン」「湛冥チンメイ」「湛湛タンタン・チンチン」…のように、覃韻の場合は「タ ン」、侵韻の場合は「チン」で読まれる。
以上から、「堪」と同じ声符をもつ字のうちには、「タン(タム)」で読まれるのもの(「湛」)
があり、声符からの類推である可能性は否定できない。
「責セキ」
責 字母:照(清) 韻目:麦(2) 反切:側革切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 シャク シャク シャク・セ 漢音 サク・サイ サク・サイ サク・サイ
慣用音 セキ セキ セキ
「責」の中古音は、照母麦韻 2 等なので、呉音は「シャク」、漢音は「サク」になる ことが期待される。
辞書では、呉音は三種すべて「シャク」とし、加えて『学研新漢和大字典』は「セ」
も認めている。漢音は三種すべて「サク」「サイ」としている。麦韻のほかに、卦韻も認 められているが、『広韻』に収録されているのは麦韻のみなので、本検討から除く。
辞書に収録されている漢語では、「呵責カシャク」の一語を除いて「責任セキニン」「責 善セキゼン」「自責ジセキ」「職責ショクセキ」…のように、すべて「セキ」で読まれる。
梗摂の3・4等韻は、「石シャク・セキ」のように呉音は-( j)ak、漢音は-ekになるが、
2等韻は、「策シャク・サク」のように呉音は-( j)ak、漢音は-akになることが期待され る。「責」は 2 等韻であるにもかかわらず「セキ」になるのは中古音との関係に矛盾す るので、この「セキ」は慣用音と認めざるを得ない。
「責」と同じ声符をもつ字には「積」「績」「蹟」などがある。
このうち「積」と「蹟」は同韻(昔韻)、「績」(錫韻)も同じ梗摂の 4 等韻で、呉音 は「シャク」、漢音は「セキ」になる。現に、「積載セキサイ」「面積メンセキ」「成績セ
イセキ」「業績ギョウセキ」などのように「セキ」で読まれる。
ほかにも「史蹟シセキ」など、声符「責」をもつ字はすべて「セキ」で読まれるから、
「責セキ」は声符からの類推であると考えられる。
「祉シ」
祉 字母:徹(次清) 韻目:止(3) 反切:敕里切(恥)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 チ ― チ
漢音 チ チ チ
慣用音 シ シ シ
「祉」の中古音は、徹母止韻3等なので、呉音・漢音共に「チ」になることが期待さ れる。
辞書では、呉音は『角川新字源』と『学研新漢和大字典』が「チ」、漢音は三種すべて が「チ」としている。
辞書に収録されている漢語では、「福祉フクシ」「休祉キュウシ」「介祉カイシ」…のよ うに、「シ」になるものがほとんどであるが、「祉福チフク・シフク」のような読み方を 挙げる辞書も存在する。
この「シ」は中古音から説明できないので、慣用音と認めざるを得ない。
「祉」の声符および同じ声符をもつ字には、「止」「此」「雌」などがある。
このうち、「止」は照母止韻3等甲類なので、呉音・漢音共に「シ」になる。現に「停 止テイシ」「中止チュウシ」などのように「シ」で読まれる。
また「此中シチュウ」「雌雄シユウ」…のように声符「止」をもつ字はすべて「シ」で読 まれるので、「祉シ」は声符からの類推であると考えられる。
「朴ボク」
朴 字母:滂(次清) 韻目:覚(2) 反切:匹角切(璞)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ハク ― ホク
漢音 ハク・ホク ハク・ホク ハク
慣用音 ボク ボク ボク
「朴」の中古音は、滂母覚韻2等なので、呉音・漢音共に「ハク」になることが期待 される。
辞書では、呉音は『角川新字源』が「ハク」、『学研新漢和大字典』が「ホク」とし、
漢音は三種すべてが「ハク」としている。加えて『角川新字源』と『新選漢和辞典』は
漢音に「ホク」も認めている。この「ホク」については、通摂では「木モク・ボク」(屋 韻)「僕ボク・ホク」(沃韻)などのように-okになるので、江摂の覚韻にも-ok形を認め た可能性があるが、覚韻の字は「剥ハク」「璞ハク」のように-akになる。
辞書に収録されている漢語では、「朴訥ボクトツ」「朴直ボクチョク」「素朴ソボク」…
のように、すべて「ボク」で読まれる。
この「ボク」は、清・濁に関しても主母音に関しても中古音から説明できないので、
慣用音と認めざるを得ない。
「朴」の声符「卜」は幇母屋韻1等であり、呉音・漢音共に「ホク」になることが期 待されるが、漢語は「卜祝ボクシュク」「卜占ボクセン」などのようにすべて濁音の「ボ ク」で読まれるので、「朴」は声符「卜」からの類推であると考えられる。全清音の「ト」
が濁音になる理由は明らかでない。
「輸ユ」
輸 字母:審(清) 審(清)
韻目:麌(3甲) 遇(3甲)
反切:式注切 傷遇切(戍)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 シュ シュ ス
漢音 シュ シュ シュ
慣用音 ユ ユ ユ
「輸」は2つの韻に属する。麌韻と遇韻は四声相配するので、まとめて検討する。
「輸」の中古音は、審母虞韻3等甲類と、審母遇韻3等甲類なので、呉音は「ス」も しくは「シュ」、漢音は「シュ」になることが期待される。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』のみ「ス」を認め、『角川新字源』と『新選漢 和辞典』は「シュ」としている。漢音はすべてが「シュ」としている。
辞書に収録されている漢語を見ると、「輸心シュシン」「輸贏シュエイ・ユエイ」…の ように、「シュ」で読まれる漢語も僅かに存在するが、これらの漢語は現代あまり使用さ れない。一般には「輸出ユシュツ」「輸入ユニュウ」「運輸ウンユ」「密輸ミツユ」「輸送 ユソウ・シュソウ」…のように、「ユ」で読まれる。
「輸」と同じ声符をもつ字には「喩」「癒」「諭」「楡」…などがある。
このうち「喩」は、喩母虞韻3等甲類なので、呉音・漢音共に「ユ」になることが期 待され、「比喩ヒユ」「喩意ユイ」などのように「ユ」で読まれる。
ほかにも「治癒チユ」「教諭キョウユ」など、声符「兪」をもつ字はすべて「ユ」で読 まれるから、「輸ユ」は声符からの類推であると考えられる。
「煮シャ」
煮 字母:照(清) 韻目:語(3甲) 反切:普庚切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― ショ ショ
漢音 ショ ショ ショ
慣用音 シャ シャ シャ
「煮」の中古音は、照母語韻3等甲類なので、呉音・漢音共に「ショ」となるのが原 則である。
辞書では、呉音は『新選漢和辞典』と『学研新漢和大字典』が「ショ」を認め、漢音 は三種すべてが「ショ」としている。
辞書に収録されている漢語では、「煮沸シャフツ」「煮炊シャスイ」のように、漢語の 例は僅かであるがどちらも「シャ」となり、「ショ」で読まれる例は見出せない。
この「シャ」は、中古音から説明できないので、慣用音と認めざるを得ない。
「煮」の声符および同じ声符をもつ字には「者」「緒」「諸」「署」「暑」「曙」…などが ある。しかし、「者」は照母馬韻 3 等甲類なので、呉音・漢音共に「シャ」になる。現 に「医者イシャ」「記者キシャ」「作者サクシャ」などのように「シャ」で読まれる。
このうち、「緒」は禅母語韻 3 等甲類なので、呉音は「ジョ」漢音は「ショ」になる ことが期待され、中古音から「シャ」は導き出せない。漢語は「由緒ユイショ」「情緒ジ ョウチョ・ジョウショ」などのように「ショ」または「チョ」で読まれる。
そのほか、「諸兄ショケイ」「署名ショメイ」「残暑ザンショ」などのように、声符「者」
をもつ字の多くは「ショ」となる。
「者」は一般に広く用いられる字であるから、「煮シャ」は声符「者」からの類推であ ると考えられる。
「批ヒ」
批 字母:滂(次清) 韻目:齊韻(4) 反切:匹迷切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ヘイ・ビ ― ハイ
漢音 ヘイ・ヒ ヘイ ヘイ
慣用音 ヒ ヒ ヒ
「批」の中古音は、滂母齊韻4等なので、呉音・漢音共に「ヘイ」になるのが期待さ れる。但し、齊韻(13 転の場合)においては、「迷マイ」「齊サイ」「妻サイ」「西サイ」
…のように、呉音は-aiになる場合があるから、「批」の呉音は「ハイ」となる可能性も
ある。
辞書では、『角川新字源』は紙韻も認めており、呉音「ビ」漢音「ヒ」としているが、
『広韻』には収録されていないので本検討から除くと、呉音は『角川新字源』が「ヘイ」、
『学研新漢和大字典』は「ハイ」を認め、漢音は三種すべてが「ヘイ」としている。
漢和辞典が見出し語として立てている漢語には、「批准ヒジュン」「批点ヒテン」「批答 ヒトウ」「批判ヒハン」「批評ヒヒョウ」「批鱗ヒリン」…のようにすべて「ヒ」で読まれ る。
この「ヒ」は、中古音から説明できないので、慣用音と認めざるを得ない。
「批」の声符および同じ声符をもつ字には、「比」「屁」「庇」「琵」…などがある。
このうち「比」は、幇母旨韻3等甲類であり、呉音・漢音共に「ヒ」になる。漢語は
「比較ヒカク」「比肩ヒケン」「比喩ヒユ」「比例ヒレイ」「対比タイヒ」…のように、す べて「ヒ」で読まれる。
ほかにも「放屁ホウヒ」「庇護ヒゴ」「琵琶ビワ」…のように、声符「比」をもつ字は すべて「ヒ」(「ビ」)で読まれるから、「批ヒ」は声符からの類推であると考えられる。
「犠ギ」
犠 字母:暁(清) 韻目:支(3乙) 反切:許羈切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― ― キ
漢音 キ キ キ
慣用音 ギ ギ ギ
「犠」の中古音は、暁母支韻 3 等乙類である。支韻(紙韻・寘韻)乙類は、「皮ビ・
ヒ」「奇ギ・キ」「偽ギ(グヰ)・ギ(グヰ)」「委イ(ヰ)」…のように呉音・漢音共に-(u)i に なるのが原則なので、「犠」は呉音・漢音共に「キ」になることが期待される。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』のみ「キ」とし、漢音は三種すべてが「キ」
を認めている。
辞書に収録されている漢語では、「犠牲ギセイ」「犠尊ギソン」「芻犠スウギ」…のよう に、すべて「ギ」で読まれる。
「犠」の声符および同じ声符をもつ字には、「義」「議」「儀」「蟻」「礒」「艤」…など がある。
このうち、「義」「議」は疑母寘韻3等乙類なので、呉音・漢音共にに「ギ」になるこ とが期待される。現に、「義兵ギヘイ」「正義セイギ」「議会ギカイ」「会議カイギ」など のように、漢語はすべて「ギ」で読まれる。
そのほか「儀」「蟻」「礒」「艤」もすべて疑母で「ギ」となる。