第1 障害者権利条約の発効,批准
1 沿革
筋委縮症の障害を持つデビッド・ワーナー(米国生まれ,生物学者)は,1965年からメキシコで CBR(地域に根差したリハビリテーション)活動を開始した。1980年頃から障がい者のためのヘルス プログラムを作成するプロジェクトを始め,その活動の中で障がい者のことを決めるためには障が い者が中心とならなければならないという思いが,“Nothing About Us Without Us”(私たちのこと を,私たち抜きに決めないで)という言葉となって行った。この言葉が障がい者の主体性と自立を 主張する運動のスローガンとして展開されることになる。後にデビッド・ワーナーがプロジェクト を執筆した本のタイトルともなった6
障がい者の自立を求める運動は高まっていき,2001年にメキシコのビセンテ・フォックス大統領 が国連で障がい者の権利のための条約の制定を提案した。
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“Nothing About Us Without Us”(私たちのことを,私たち抜きに決めないで)は2004年国連障害 者デーの標語にも採用された。
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条約の発効と日本の批准
2001年から2006年まで1回の作業部会と8回にわたる特別委員会が開催され,2006年12月13 日,国連総会で「障害者の権利に関する条約」(障害者権利条約)が採択され,2008(平成20)年 5月3日に発効した。
日本は2007年9月28日,本条約の採択に署名したが,批准のためには,なお国内法の整備が必 要であった。そのため,障がい者制度改革推進本部が設置され,我が国の障がい者施策が権利条約 に沿うための制度改革が行われた。その結果,2011年8月,障害者基本法が改正され,2013年7月,
障害者差別解消法が成立した。これらの法律では,「意思決定の支援に配慮し」という文言が使わ れている。
これにより一応整備が整ったものとして,2014年1月20日,国連に批准書を寄託することにより,
日本は141番目の批准国となった。条約は批准書を寄託後30日目の日に効力を生ずると規定されて おり,同年2月19日に日本国内でも発効し,既に国内法的効力が発生している。
第2 障害者権利条約の趣旨
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同条約は,「すべての障害者によるすべての人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有」の促進・保護・確保と,「障害者の固有の尊厳に対する尊重」の促進とを目的とする(第1条)。
すなわち,平等と無差別の原則を通じて「既存の人権」を障がい者に適用することを主眼とする。
6 (公財)日本障害者リハビリテーション協会 情報センター「障害保険福祉研究情報システム」(2009年10月 26日)http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/conf/091026_seminar/david_werner.html
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同条約は,障害が,機能障害(インペアメント)のある人と態度及び環境に関する障壁との相互 作用であって,機能障害のある人が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加する ことを妨げるものから生ずると捉える(前文(e))。この社会モデルの観点からは,単に機能障害があることをもって人権の享有が妨げられることを 可とせず,国家が障がい者の自律を適切に支援してこそその自律は実質化され得ると考えている。
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また,同条約が“Nothing About Us Without Us”(私たちのことを,私たち抜きに決めないで)と いうスローガンのもとに制定されたことからも明らかなように,同条約は,これまでの障がい者施 策において,「保護の対象」とされてきた障がい者を,「権利の主体」と明確に位置付けている。第3条では,「(a)固有の尊厳,個人の自律(自ら選択する自由を含む。)及び個人の自立の尊重」
を重要な一般原則として掲げており,自分のことを自分で選択して決定するという「自律」が最大 限に尊重されなければならないとする。
このような趣旨にたって,同条約は,生命身体の自由や自立生活,健康,教育,雇用・労働,司 法アクセスその他にわたる規定をおいている。
第3 条約第 12 条(法律の前にひとしく認められる権利)の制定経過
条約の中でも第12条は極めて重要な規定である。同条は次のとおり定める。
第12条 法律の前にひとしく認められる権利
1 締約国は,障害者がすべての場所において法律の前に人として認められる権利を有することを 再確認する。
2 締約国は,障害者が生活のあらゆる側面において他の者との平等を基礎として法的能力を享有 することを認める。
3 締約国は,障害者がその法的能力の行使に当たって必要とする支援を利用する機会を提供する ための適当な措置をとる。
4 締約国は,法的能力の行使に関連する全ての措置において,濫用を防止するための適当かつ効 果的な保障を国際人権法に従って定めることを確保する。当該保障は,法的能力の行使に関連す る措置が,障害者の権利,意思及び選好を尊重すること,利益相反を生じさせず,及び不当な影 響を及ぼさないこと,障害者の状況に応じ,かつ,適合すること,可能な限り短い期間に適用さ れること並びに権限のある,独立の,かつ,公平な当局又は司法機関による定期的な審査の対象 となることを確保するものとする。当該保障は,当該措置が障害者の権利及び利益に及ぼす影響 の程度に応じたものとする。
5 締約国は,この条の規定に従うことを条件として,障害者が財産を所有し,又は相続し,自己 の会計を管理し,及び銀行貸付け,抵当その他の形態の金融上の信用を利用する均等な機会を有 することについての平等の権利を確保するための全ての適当かつ効果的な措置をとるものとし,
障害者がその財産を恣意的に奪われないことを確保する。
この規定の意味については,既に,後述する国連障害者権利委員会の「一般的意見第1 号」が出さ
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れているところであるが,その理解に当たっては制定経過を振り返っておく必要がある7。
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この規定の原型となったのは次の作業部会草案第9条である。「締約国は,
(a) 障害のある人を法律の前に他のすべての者と平等な権利を有する個人として認める。
(b) 障害のある人が他の者との平等を基礎として,財産に関する事項を含めて,完全な法的能力
(full legal capacity)を有することを是認する。
(c) 障害のある人が法的能力を行使するための支援が必要な場合には,次のことを確保する。
ⅰ この支援は,その者が必要とする支援の程度に比例し,その者の状況に適合したものであ り,かつ,その者の法的能力,権利及び自由に干渉しないこと。
ⅱ この支援に関連する決定は,法律で確立された手続,及び,これに関連する法的なセーフ ガードの適用に従ってのみ行われること。
(d) 自己の権利を主張し,情報を理解し,かつ,コミュニケーションをとることに困難を経験す る障害のある人が,自己に提供される情報を理解するための支援と自己の決定,選択及び選好 を表明するための支援についても,拘束力のある合意又は契約を結ぶための支援や文書に署名 するための支援並びに証人として立ち会うための支援と同様に,これらを利用できることを確 保する。
(e) 障害のある人が,財産を所有し又は相続し,自己の財産に関する事項を管理し,かつ,銀行 貸付け,抵当その他の形態の金融上の信用を利用する均等な機会を有することについての平等 の権利を確保するためのすべての適当かつ効果的な措置をとる。
(f) 障害のある人がその財産を恣意的に奪われないことを確保する。」
この部会草案第9条に対しては,カナダ第3回会期において,判断能力が減退しているため法的 能力を行使できない者に対して国家が保護しなければならない(法定後見人,法定代行決定者の選 任など)という観点からの修正案が提案された。
ここでは,判断能力が低下した者について後見人等の法定代理人が代行する必要があることを認 め,それに対し適正なセーフガードを設けることを確保しようとする議論であった。
しかし,日本政府代表は,ここにいう「personal representative」を「人格代理人」と訳し,「日本 法の体系にはこうした仕組みに関する規定はない」と発言していた。
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第5回会期では,部会草案第9条における「法的能力(legal capacity)」が権利能力を意味するの か行為能力までを含むのかという点が重要な争点となった。ロシア,中国,イスラム系諸国等は,ここでの「法的能力」は権利能力を意味するにすぎない,
と強く主張し,会期終了時にまとめられた暫定草案第9条第2項柱書きには「アラビア語,中国語,
ロシア語では,法的能力という用語は,行為能力(capacity to act)ではなく,権利能力(capacity for right)
7上山泰「現行成年後見制度と障がいのある人の権利に関する条約12条の整合性」(法政大学出版局,法政大学大 原社会問題研究所/菅富美枝編著「成年後見制度の新たなグランド・デザイン」,2013年)39頁以下,上山泰「障 害のある人の権利に関する条約からみた成年後見制度の課題」(日本弁護士連合会「自由と正義」vol.63,2012 年)34頁以下,松井亮輔・川島聡編「概説障害者権利条約」(法律文化社,2010年)を参考にした。