第5章 復興期(1949-1952)及び第1次5カ年計画期(1953-1957)の中国東 北地域の都市再建について
第四節 長春市の都市計画について
1 生産機能の強化と私営企業の公有化について
長春は戦前満洲国の首都であった為、社会主義的な都市改造を徹底的に行う必要があっ た。それは、都市建設は途中で頓挫したとはいえ、仮にも一国家の首都として、また植民地 都市として、それらを象徴する都市構造や機能、多くの建築を有していた消費都市であった からである。故に戦前の反社会主義的な行政機構を徹底的に払拭するとともに、新たに生産 機能を付加させて生産都市として改造する必要があったということである。例えば、市街地 の南西部(現:朝陽区)にあった政府関係の建造物は大学や研究機関、病院等に転用され「教 育・文化地区」へと改造された。鉄道以西の土地は皇宮関係用地に予定されていたが、長春 第一汽車製造厰309 等の国営企業が新設された。長春駅北側と伊通河より東は工業地区にさ れる予定であったが、それぞれの立地条件に合わせて、長春駅北側には長春客車厰310 他、
鉄道・道路運輸関連の大小企業を集積し、伊通河より東の地には、穀倉地帯である吉林省の 重要企業ともいえる長春トラクター製造厰他、多数の農業機械製造工場を新設することに した。これら大規模な国営企業の立地に促されるように、市内の各所に建築材料・繊維衣料・
医薬品等、生活必需品の中小規模の軽工業も多数新設されていった。
その一方で、既存の私営企業の社会主義改造311も積極的に進められた。1954 年 2 月に長
309自動車製造工場。
310鉄道車両・機関車製造工場。
311これは長春だけではなく、全国的にみられる。1950 年代当時の状況は亀田[1956]に
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春市人民委員会は「长春市 1954-57 年将资本主义大型工业有阶段基本上改变为公私合营企 业工作计划312」という大型工商業企業に対する段階的な改造計画を決定した。そして同年、
建興鉄工厰・益発合・興徳興業鉄工厰の 3 社が「公私合営」企業313へと改められた。そして 翌年の 1955 年には 15 社の大型工業企業が 10 社の「公私合営」企業へ、1956 年には 24 社の大型工業企業が 10 社の「公私合営」企業へ、更に 1957 年には 83 社の大型工業企業 が 25 社の「公私合営」企業へと統合・合併されていった。長春にあった 128 の大型私営工 業企業は「公私合営」企業へと「改造」され、1957 年末までに廃止された 3 社を除いて私 営企業の社会主義改造は完了した。
中小私営工業企業と商業企業については、長春市人民委員会は「1956 年第一季度工作计 划要点314」を公表、これに基づいて社会主義改造を実施した。1956 年 1 月に私営工業の 778 社と私営商業の 2691 社、個人販売業の 647 社、運輸業の 2804 社、総計 6142 の企業315が
「公私合営」への自己申請を行い、長春市人民委員会がこれを一括承認することによって、
これら中小私営工業企業と商業企業に対する社会主義改造の完了とした。更に、長春市人民 委員会は 1957 年 1 月に個人住宅と個人不動産に対して社会主義改造を開始し、同月の 15 日には 499 名の個人住宅及び個人不動産の持主が「公私合営」への自己申請を市の房産管理 局に提出した。
長春市ではこのようにして第 1 次 5 カ年計画期に工業・商業・運輸業・不動産業等、殆 ど全ての業種の私営企業及び住宅・不動産を所有していた個人が「公私合営」へ「自己申請」
という形で「改造」され、社会主義経済へと進んでいった。この順調にもみえる社会主義改 造への道程は、1 つ目には戦前満洲国の首都であったということ、2 つ目には新しい都市で あったがために有力な地元資本が少なかったこと等、長春市の特殊な事情が作用していた ことが理由として考えられる。
第四節 小括
本章では復興期(1949-1952)及び第1次5カ年計画期(1953-1957)の東北地域につい て考察を行った。その際、やはり復興期における史料の少なさに悩まされた。復興期の史料 の少なさは上記に述べた理由の他に、高崗316と東北との関係が挙げられるだろう。この高崗
詳しく、全国での公私合営について、特に北京における公私合営について述べられてい る。
312筆者訳:「長春市1954-57年資本主義の大型工業を段階的に公私公営企業にする作業計
画」
313「公私合営」とは、企業に国家の資本を入れるのではなく、私営企業の生産手段を適正 価格で評価して、政府がそれに対して年5 %の固定利子を資本家に払うことによって、そ の企業の管理権を手にし、同時に政府はこれまでの資本家たちをも経営の管理者または責 任者として、その従来の収入と仕事とを保証するやりかたのことである。
314筆者訳:「1956年第一四半期作業計画」
315 楊義申[2004]142 頁。
316高崗(1902-1954)陝西省横山出身。1928年頃より陝西省で武装闘争を行い、のちの
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という人物は、中華人民共和国成立直後の東北地域の最高実力者であったが、1952 年に中 央へと移動し、国家計画委員会主席となった際に、党の方針を巡って、劉少奇や周恩来と対 立した。党の公式見解によれば、饒漱石らと「反党同盟」を結び、自らが支配する東北大行 政区を利用して「独立王国」を築き、党を分裂させようと「陰謀」を企み、発覚した。高崗 は 1954 年の第七期四中全会で批判を受け、8 月に自殺した。これは「高崗・饒漱石事件」
と呼ばれるもので、中華人民共和国成立以後の最高指導者内部での政治闘争であり、その後 の中央と地方との関係性等に大きな影響を与えることになった事件として知られている317。 本章では、以上のような史料の制約があったものの、長春における具体例を挙げることに よって当該時期の様子に少しでも迫ったものである。高崗と東北地域の復興の関係及び、
「高崗・饒漱石事件」の東北地域への影響については本論で論じることが出来なかった為、
これは今後の課題としたい。
陝甘寧辺区の基礎を築いた。日中戦争期には、1938年に陝甘寧辺区の党委書記を務め、
1945年には第七回全国代表大会において中央委員に選出されるなど華々しい業績を持つ。
また、国共内戦期には中共中央東北局副書記、北満軍区司令官などを務めた。その後は東 北における内戦が共産党の勝利で終わったことを受け、林彪などの幹部が関内に戻った結 果、49年5月に中共中央東北局書記、12月に東北政府委員会の首席となり、東北の最高 指導者となった。
317天児[2001]37頁-39頁。
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