第2章 満洲国期の長春―国都建設計画について
2 満洲国の最高学府―建国大学 建国大学について
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第四節 国都建設計画第二期事業 1938-1941
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臣が兼任198していた。建国大学は、その他の大学199とは異なり、国務院直轄であった。建国 大学の発案者は当時の陸軍参謀本部第一部長であった石原莞爾であったというのが定説に なっている。建学の目的は「満洲建国ノ世界史的意義ヲ拡充顕現スベキ人材200」の養成であ った。大学の構想及び準備工作は1936 年頃から始められており201、「満洲国指導者養成方 策要綱案」が1937年4月5日に作成された。そして1937年7月に東条英機を委員長とす る建国大学創設合同委員会202が開かれ、8 月に建国大学令203が公布され、翌年 5 月に開学 式が挙行された。建国大学の学生資格は、国民高等学校卒業以上、日本国学制中等学校卒業 以上の学力を持つとされたもの、及び協和会が推薦した人物であった。
建国大学沿革表
1937年4月5日 満洲国指導者養成方策要綱案 5月2日 地鎮祭施行(長春南郊の歓喜嶺)
6月7日 建国大学創立要綱案
6月9日 建国大学予科第一期生徒選抜要綱(案)公示 6月17日 建国大学創立要綱説明書
6月18日 建国大学令(案)
6月20日 研究員創設主意書 7月15日~17日
・建国大学創設合同委員会開催(長春の軍人会館大講堂)
・建国大学令 ・建国大学創設要綱
・建国大学生徒募集広告 原案検討、決定
8月5日 建国大学令(勅令234号)公布 修業年限は前期・後期各3年204
198 形式上は国務院総理大臣の張景恵が大学総長であったが、実質的には副総長の作田壮 一が立案した「教育要綱」によって教育が行われていた。
199その他20余の大学は民生部の所轄であった。
200「建国大学創設要綱」1937年6月の要旨。「要 綱(創設ノ要旨)」本大学ハ満州国ノ世 界史的意義ヲ拡充顕現スベキ人材ノ為ノ独創的大学ナルヲ以テ、一切ノ既成概念ヲ超越 シ、広ク且深ク亜細亜ノ現情並ニ将来ヲ達観シ、建国精神ニ立脚シ、其ノ高遠ナル理念ニ 基キ、其ノ雄渾ナル構想ノ下確固タル基礎ヲ樹立スルヲ第一義トス。之ガ為、其ノ完成ヲ 五年後ト予定シ、爾後更ニ是ガ内容ノ充実ヲ図リ悠久ナル理想ニ向ヒ、絶エズ生成発展シ テ止マザル大方針ノ下ニ創設ヲ進行ス。
201大学設立の背景として満洲国内の治安が悪く各地で反満抗日の武力抵抗運動が続いてい た事が考えられる。
202 1937年7月15日-17日の間開かれ、「建国大学令」「建国大学創設要綱」「建国大学
生徒募集公告」の原案が検討された。
203 勅令第二三四号。
204 前期三年は、建国精神の理念・作業訓練・軍事訓練・自然科学・語学(日本語または 中国語)、後期三年は政治・経済・倫理等の教科とともに、軍事訓練・武道訓練等が行わ
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8月10日 建国大学第一期「生徒募集広告」公示
1938年5月2日 開学式・入学式 皇帝の開学勅書下賜 5月5日 作田「精神訓話」開始
(1938年5月5日~1939年2月9日まで計13回)
7月頃 李樹森・崔□賢両学生事件 8月20日 第四塾塾生、木下博達病死
9月1日 建国大学研究員令・研究院開設ノ趣旨 9月2日 馬小屋籠城事件
1939年1月20日 作田副総長赴任 1月23日 三村文夫、除籍 4月11日 第二期生入学式 10月12日 建国大学参議会制公布 10月23日 第二期生、伊藤良治病死
1940年5月10日 建国大学学則制定
1941年6月28日 養生堂開場式
6月頃 第二期生、宇田博退学
1942年3月2日 中国人学生大量検挙事件 6月13日 作田前副総長退任の訓示
1943年6月12日 第一期生卒業式 皇帝、国務総理(総長)出席 10月2日 学生徴兵猶予取消
12月14日 中国人学生七名逮捕
1944年12月 第2期生繰り上げ卒業
1945年8月19日 建国大学武装解除 8月23日 建国大学解散式
1946年10月頃 中華民国に接収され、国立長春大学に併合
れ、自動車やグライダーなどの操作訓練もあった。
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1949年 中華人民共和国成立を受け廃校となる
建国大学の位置及び建築について
建国大学設立の場所は大同大街205、長春南郊の歓喜嶺の地であり、その面積は約65万坪 あった。1937年5月2日に地鎮祭が施行されている。建国大学の主な建物は2階建てで、
また更にいくつかの付属の建物があり、総建築面積は 21608㎡であった。この建物は満洲 国政府の営繕需品局の設計で三田組が施工した。その工事費用は147万元であった。
建国大学の敷地選定については、湯治万蔵の『建国大学年表補遺』に根本竜太郎と楓元夫 の対話を引いて紹介している。以下、『建国大学年表補遺』より引用する。
根本竜太郎:「敷地については、南嶺がいいだろうということになったが、どれくらい必要 かが問題になりました。建国大学、研究院、それから塾、農場も併置する。勤労しながら学 ぶのだから十万坪はいるという構想でした。それに対し、鶴見さんが主計処長で「えらそう なことばかり言わないでカネのことも考えよ」というので、「五万坪で我慢しよう」という ことで現地を見に行った。あのときは草ボウボウの丘陵地で、大体これくらい―と本当に大 ざっぱに決めた記憶です。」
楓元夫:「ところが、実際は65万坪でしょう。辻さんの話として、われわれが先輩から聞 いた話では、なんでもあの南湖附近は、景色もよく、いわば郊外の一等地。はじめは色街に する予定だった。辻さんが憤慨して、ここは聖地にせねばならぬ。建国廟と国学の中心。人 物養成の中心にすべきだというので、地図の上でゲンコで「ここだ」と押えた。その形をそ のままとったら六十七万坪だが、六十五万坪になったという話ですが―」
また、『建大史資料』では木田清が「敷地をどこにするかということ、これで私と根本君、
辻さんとが話し合った。最低百万坪は必要だろうとなった。滑空訓練もやらねばならぬし、
作業的な訓練も必要だからというわけだが、満洲のことだし百万坪といっても驚くには当 たらなかった。そこで地図を広げてあちこち物色したところ南嶺付近がよかろうとなった。
(中略)こうして敷地は決まったんだが百万坪といって鉛筆で地図に書いた土地は実測の 結果は六十五万坪しかなかったのです。」「塾の建物を建てるとなったとき、ここには建築の 専門家も来ているのだが、辻さんが『八紘一宇でなけりゃいかん』といい出した。『八紘一 宇とは何だ』ときくと、管理棟を中心にして八方に塾を配置して八本の足でそれぞれつなぐ のだ、という。これに対しては『それは観念的すぎる。第一暖房が非能率的だし、金がかか ってしょうがない。満洲の冬はとくに日光を大事にしなきゃならないのに八紘一宇では日 の当たらないところができてしまう』という反対評がでた。辻さんはガンとしてきかないの で、結局、あのとおり二本くらい作ってみたが、やはりあとは普通の建物になってしまった。」
205現在の人民大街121号にあたる。現在は長春大学がある。
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という回想を寄せている。以下に、1939年当時の航空写真及び塾舎の配置と構造図を示す。
1939 年当時の航空写真 縄田氏からの提供
建国忠霊廟と建国大学の位置がわかる写真である。建国大学の建物が半円形に設置されて いるのがわかる。
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志々田文明『武道の教育力―満洲国・建国大学における武道教育―』日本図書センター2005 146頁
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