第2章 満洲国期の長春―国都建設計画について
第三節 国都建設計画第一期事業 1933-1937
3 新京都市建設計画
満洲国成立直後から始まった都市計画立案は、その初期においては、関東軍特務部主導下 にあった満鉄経済調査会193と満洲国政府の部局であり首都建設を担当する国都建設局194を 中心として、関東軍特務部が主催する軍・満鉄・満洲国の三者連合打合会において、それぞ れの案を比較検討しながら進められた。そして一年後の 1933 年に国都建設計画の全容が公 表された。
国都建設計画第一期事業は、国務院国都建設局によって 30 年後の予想人口 50 万人の都 市を目指し、1933 年 3 月から 1937 年 12 月までの 5 ヵ年計画として計画され、国庫特別会 計 3400 万円を投じて実施された。国都建設区域は「国都建設計画法」(大同 2(1933)年 4 月 19 日教令第 24 号)第 2 条によって新京特別市の区域を以ってすることが定められた。
またこれに先立つ「国都建設事業区域ニ関スル件」(大同 2 年 1 月 24 日国務院指令第 3 号)
によって国都建設事業区域を国都建設計画区域(特別市区域)約 200km²・近郊隣接地約 100km
²・国都建設事業区域約 100km²・実際事業除外区域として南満鉄道付属地約 5km²及び東清鉄 路付属地約 4km²・将来逐次整理区域として商埠地約 4km²及び長春県城内約 8km²・国都建設 計画事業面積約 79km²に指定している。
初期の国都建設計画の特徴は、満鉄が長春や奉天などの鉄道付属地に対して行った格子 状街路に円形広場と斜路をくみ合わせたものであり、都市全体の軸線として二本の幹線道 路が設定されていた。このうちの一本は、満鉄鉄道付属地の幹線道路として長春駅からまっ すぐ南にのびていた中央通り195を利用したものであり、これをさらに南に延長拡幅したもの であった。この通りは満洲国の年号である「大同」という語を用いて大同大街と命名された。
また、大同大街の途中には外周が約1キロにも及ぶ巨大な円形広場である大同広場196が設け られ、大同広場からは大同大街の他に四本の道路が放射線状に伸びていた。
もう一本の軸線となった幹線は、大同大街の西側に平行して走る順天大街という通りで ある。順天大街は皇帝である溥儀の新宮殿を起点として南にのびる道路で、その両側には満 洲国の官衙建築が建てられることが決定した。首都計画の立案過程において、溥儀の新宮殿 は、大同大街の南端に位置する南嶺という地に計画されていたが、これは「天子南面す」と いう中国の伝統的な都市計画の手法とは相反するものであり、中国人官僚には受け入れら れないものであった。その為、満鉄と満洲国側が激しく対立し、新京の都市計画立案過程に おける最大の争点となった。紆余曲折の末、順天大街の北端に新宮殿が建設されることとな ったが、それは妥協の産物であった。新京特別市・満洲事情案内所共編の『新京概観』図を
193 1932年3月新京都市計画立案・佐藤俊久主任のもとで折下吉延嘱託、小味渕肇都市計
画班主任。
194 近藤安吉のもとで溝江五月計画課長が設計に当たった。
195 もとの長春大街を改称。
196 現、人民広場。
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参照するとすぐにわかることだが、順天大街は大同大街に比べて極端に短く、大同大街に匹 敵する都市軸には到底なり得なかった。
結局、この首都建設計画によって、長春城は跡形もなく消滅した。仮に奉天が首都に選ば れ、同様の首都計画を行っていたとしても、満洲一大きな奉天城を消し去ることはできなか ったに違いない。この首都建設に込められていた政治的意図のひとつは、既存の中国勢力を いかに封じ込めるかということであったと考えられる。長春城は消滅し、新宮殿は副次的な 都市軸の上に置かれた。既存の中国側勢力を封じ込めるという点、また建築・建設によって 国家を飾るという点から見てみるならば、満洲国の首都建設は関東軍司令部にしてみれば 一応の成功を収めていたとは言えるのではないだろうか。何故なら、関東軍司令部が位置し ている場所は東西方向の幹線道路である興仁大街と大同大街の交差点であり、そこは新京 の中心地でもあったからである。
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満洲国国務院国都建設局 新京特別市公署『新京市政概要』1934 年 11 月 20 日発行 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12392293
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新京特別市・満洲事情案内所共編『新京概観』1936 年(昭和 11 年)6 月発行 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12383699
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