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日本の敗戦が与えた影響―ソ連軍による戦利品問題―

第4章 日本敗戦と国共内戦期の中国東北地域について(第3次国内革命戦争 1946-1949)

第二節 日本の敗戦が与えた影響―ソ連軍による戦利品問題―

1 ソ連参戦

1945 年 8 月 8 日にソ連は対日宣戦を布告228し、ソ連軍は 8 月 9 日午前 0 時に侵攻を開 始した。同日未明満洲国の首都新京(長春)は最初の空爆を受けた229。当時、新京のラジオ

224 中村一(当時、京都大学農学部教授)・若井康彦(当時、地域計画研究所員)・越澤明

(当時、東京大学大学院)の3名。

225 長春市都市建設局技師の湯全業と楊金鶴の2名。

226 『中国研究月報』№373「座談会記録 長春の都市建設」に所収。『中国研究月報』は 中国研究所が発行している月刊誌であり、主に近現代中国の社会、政治、経済、文学など に関する中国研究者の論文を掲載している。1947年に№1が発行されており、現在まで続 いている。

227長春のことを指す。

228ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフ、日本駐ソ大使佐藤尚武。

229上妻斉「流転の浩姫」『秘録大東亜戦史 満州編(上)』35 頁。

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放送は「午前 2 時、ハルピン方面より来襲した敵機は吉林方面に向け進行中なり。帝宮付 近に爆弾を投下したる模様なり。」と伝えている。

この時、ソ連軍は三方面から満洲に侵攻した。

① 極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ワシレフスキー元帥に率いられた第二極東方面軍 は、北から黒竜江、ウスリー江を渡って南下した。

② ロディオン・マリノフスキー元帥に率いられた軍は二手に分かれ、ザバイカル方面軍は 満洲里を越えてハイラル、チチハルに進んだ。もう一方のコワリョフ軍はモンゴル人民 共和国から侵攻して新京を陥し、さらに四平街から奉天(瀋陽)に進んだ。

➂キリル・メレツコフ元帥に率いられた第一極東方面軍は沿海州から入ってハルビンを陥 した。また、関東州(大連・旅順)はソ連軍の落下傘部隊に占領された。

このようにして満洲に侵攻したソ連軍は、19 日には旅順を占領し、同日中に瀋陽に進出、

更に 22 日には大連を占領し、翌 23 日に全満洲の占領230を宣言した。

このソ連軍による中国東北地域占領は、1945 年 2 月 11 日のアメリカ、イギリス、ソ連 の三国首脳によるソ連の対日宣戦に関するヤルタ秘密協定231を実行したものであった。また 日本がポツダム宣言の受諾を決定した 8 月 14 日、モスクワでは中ソ友好同盟条約が締結 されていた。この条約及びその付属協定に規定されていた中国東北地域に関わる条項は、先 のヤルタ秘密協定にほぼ沿っていた。しかし、ソ連軍占領後の中国東北地域に発生した事態 は、ヤルタ秘密協定と中ソ友好同盟条約が規定していた内容を遥かに越えるものであった。

それは中国にとっても、また連合国にとっても最も重要な問題であったが、その一つに満洲 地域に日本と満洲国が作り上げた施設等のソ連軍による破壊、撤去及び搬出があった。ソ連 軍は、組織的に備蓄品を接収しただけでなく、占領後すぐの 9 月上旬より「戦利品」として 旧満洲地域の各施設や機械の破壊、撤去及び搬出を開始していたのである。

2 満洲国の終わり

関東軍は以前よりソ連参戦後は通化に本部を移すと決定していたが、それはまだ先のこ とになるだろうと楽観視232していた。ところが、予想外に早いソ連軍の進撃によって全てが

230満洲各地に進駐したソ連軍は、軍事権を掌握したが、民治に関しては旧満洲国の機構を 利用していたようである。例えば、長春においては曾ての満洲国官吏で勤労奉公局長官で あった曹肇元が市長に、新京特別市警察庁総監の趙萬斌が公安局長に任命されている。

231ソ連参戦の条件として、外蒙古の現状維持・千島列島の引き渡し・車輪南部の引き渡し の他、中国東北地域に関連することとして、大連港の商業港化・同港におけるソ連の優先 的利益の擁護、旅順港をソ連海軍の根拠地として租借すること、また大連への出口である 東清鉄道並びに南満鉄道は中ソ両国の合弁会社によって共同運営すること等が取り決めら れていた。

232当時、まだ日ソ中立条約の有効期限が終了しておらず、ソ連はドイツとの戦いで疲弊し ており、すぐ対日参戦することはないだろうと考えられていた。また日本政府は予てより ソ連政府に米英との平和斡旋を申し入れていた為、まさかソ連が対日宣戦するとは思わ ず、この時でさえも申し入れの答えをソ連側から受け取れるものと思っていた節がある。

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後手に回ってしまい、各方面の部隊が反撃をしたものの瞬く間に崩壊していった。8 月 17 日には、関東軍司令部は前線に対して停戦命令を発し、翌 18 日には満洲国皇帝の退位が決 定された。8 月 20 日にはソ連軍が長春に進駐した。同日、コワリョフ大将と関東軍司令官 山田大将の会見が行われ、ソ連軍が関東軍司令部を接収することとなった。また翌 21 日、

コワリョフ大将は旧関東軍司令部庁舎に元満洲国の大臣並びに元総務庁次長であった古海 忠之を呼びつけ、在満地域の主要会社、工場の施設に関する資料作成と提出を命じた233。ソ 連軍はこの資料を基にして施設の撤去及び搬出を行った。8 月 30 日には、マリノフスキー 元帥が鉄路ザバイカルから新京に入っている。ソ連軍はこれより後 1946 年の 5 月に撤兵 するまで全東北地域を占領下に置くこととなった。

3 「戦利品」

ソ連軍が東北進駐とほぼ同時に主要な設備を接収し、それをソ連へ搬送し始めた事は、国 民政府を驚愕させた。先に結ばれた中ソ友好同盟条約に基づく限り、ソ連がこのような権利 を有するとは到底考えられなかったからである。また連合軍総司令部の占領に関する指令 第7条においても、「日本が降伏以前に海外に所有した資産は連合軍が接収する」とされて おり、満洲国並びに日本が中国東北地域に作り上げていた施設は中国側に引き渡されるこ とが想定されていたのである。それ故、ソ連が中国東北地域で「戦利品」として各施設並び に資産の接収を行ったこと234は、連合軍の戦後構想にも反するものであった。

国民政府東北行営235が交渉を開始する以前、つまり日本の降伏文書調印の前後から、ソ連 軍が在満施設及び資材の搬出を大規模に行っていたことは先行研究等においても指摘され ているところ236である。そして東北行営が長春に入ると、ソ連による主要施設の接収はまた 一層組織化されることとなった。これは後に控えている国民政府との経済交渉にあたって、

これら接収施設を利用することが考えられていたからであるとするのが妥当ではないだろ うか。

10 月 17 日、第二次中ソ代表者会談が行われた。この時、ソ連側代表が日本人が旧満洲 地域に所有していた工廠は全てソ連軍が獲得した「戦利品」としてみなすと言明し、更に国 民政府を狼狽させた。その後再三にわたってソ連側によって「戦利品」の論理が繰り返され たが、その論理とは過去東北は反ソ根拠地となっており、その下におけるすべての日本工鉱 業は反ソ軍事活動に従事したと考えられるので、従って現在東北地域にある主要工鉱業は

半藤[2002]に詳しい。

233南[2007]8 頁。ソ連軍当局の命に従い、古海が重要会社一覧を作成し、元大陸科学院 副委員長志方益三がこれをロシア語に翻訳して提出している。

234当時、ソ連支配下の東ドイツにおいてもソ連軍が産業施設を撤去、搬出したことはよく 知られていた。ソ連は中国東北地域においても同様の行為をしたと考えられる。

235以下、東北公営と記す。

236例えば井村「戦後ソ連の中国東北支配と産業経済」、山本「国民政府統治下における東 北経済」共に江夏・中見・西村・山本編[2005]に所収。

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今次ソ連軍が対日作戦によって獲得した戦利品とみなす237というものであった。

このようにして在東北地域の工鉱業を「戦利品」と位置付けた上で、ソ連は東北地域にお ける中ソ経済合作を提案した。当時、東北地域への進駐を巡って国民政府軍はソ連との交渉 が暗礁に乗り上げており、また一方で在東北共産軍(八路軍)がソ連の暗黙の了解のもとに 国民政府軍の進駐を妨害していた為、東北行営もまた一時的に山海関に緊急避難を行う途 中であった。国民政府はこのように政治問題が未だ解決していない状況において経済問題 は協議する余地がないと主張したが、ソ連は、経済合作が成功しさえすれば政治問題は自然 に解決すると主張した。

この時期の東北問題を巡りソ連は、国民政府、中国共産党238に対してどっちつかずの態度 をとっており関係には微妙なものがあったと言えるだろう。ソ連は表面上、連合国側の一員 として重慶国民政府を支持しており、外交上の正式対象として認めてはいたけれども、実際 は国民政府にあまり協力的ではなく、中国東北地域において自己の勢力を扶植するという 目的を果たすことに努めていた。この様に、一方で接収した主要工鉱業施設を利用して国民 政府に中ソ経済合作を提案要求し、もう一方では秘密裏に中共に援助を行っていたという ことは、今後はソ連がこれまでの日本に代わって満洲の権益を手に入れ、己の勢力を扶植す るという目的に対する二者択一的な手段を表しており、目的が達成されるまでソ連軍は中 国東北地域から撤退する意思はなかったと考えられる。何故この様に言えるかというのは、

ソ連軍は本来ならば 1945 年 11 月下旬には撤退すべきであったところを、二次、三次と撤 退延期を行い、最終的には国際的世論の圧力と中国の反ソ運動等により 46 年 4 月に至って 撤退を開始したからである。

中ソ経済合作について話を戻すが、ソ連軍の経済顧問スラドフスキー大佐が正式に「中ソ 合弁工業公司」の提案を行ったのは 1945 年 11 月 20 日のことであった。この提案時に自 身の要求が国民政府に受け入れられないとみたソ連は同年 12 月 13 日になって幾分かの譲 歩、つまり、先の要求範囲を狭め、更に接収していた工廠の一部の返還を行い、国民政府に 迫った。これに対して、経済委員会主任委員張公権239は国民政府中央と商議を重ねており、

また中央はこれに対して翌年 1 月 16 日に経済部東北特派員孫越崎を長春に送っている。

中ソ経済合作交渉が難航している間240に、これはアメリカの知るところとなった。またア メリカは予てよりソ連の中国東北地域からの施設搬出に対しても危惧を抱いていた為、こ こでアメリカのバーンズ国務長官は 1946 年 2 月 9 日、中ソ両国に対して「覚書」を発した。

237香島明雄[1990]参照。

238以下、中共と記す。

239 張公権(1889年10月-1979年10月)満州国崩壊後に国民政府が設置した旧満州地 域の接収統治機関・東北行営の東北行営経済委員会主任委員として、中国の東北地域の接 収活動に当たった人物である。日本では一般に字の公権で知られているが、中華圏では本 名の嘉璈で知られている。

240ソ連との度重なる交渉において要求が受け入れられなかった為、国民政府は1945 年11 月17 日に東北野戦司令部を撤回し、東北接収の失敗を国内外に宣伝して、国際世論に訴 えようとした。鄭[2005]参照。