第1章 満鉄と中国東北地域の都市の形成の関係について 第一節 本章の目的
第三節 満鉄付属地経営について 1 満鉄付属地とは
3 初代総裁後藤新平の都市経営論―「文装的武備」について―
満洲地域における前期の支配形態は、関東都督府(関東庁)・満鉄・領事の三頭政治であ った。この中で特に特徴的であったのが、初代満鉄総裁である後藤新平の「文装的武備」と いう経営方針の考え方を中心に進められた満鉄の地方経営である。満鉄による満洲地域支 配を語る時、「文装的武備」を語らないものは無い。「文装的武備」は満洲地域経営の中心を 為すものであったと言っても過言ではないだろう。しかし、「文装的武備」をどう捉えるか については、研究者によりその見解が異なる。見解が異なる理由としては、「文装的武備」
という言葉自体は同じであっても、使用されている時期によって「文装的武備」が意味する ところが違ってくるからであると言える。ここで「文装的武備」について詳しく見る前に、
これもまた後藤新平がよく使っていた比喩である「鯛の目と比良目の目」について少し触れ ておきたい。この「鯛の目比良目の目」という言葉については、『環』[2006]、草柳大蔵[1983]
に詳しいが、簡単に述べるならば「鯛の目」というのは支配側に、「比良目の目」というの は被支配側に置き換えることが可能である。後藤はこの「鯛の目比良目の目」という比喩を 用いて、「支配側は常に自分の論理を被支配側に押し付けようとするが、それは反発を招く ものであり、被支配側の土地や民族や習慣をよく調査した上で、それに適した政策を施すべ きである」という内容を説いており83、これを別の言葉では「生物学的殖民政策論」と名付 けている。後藤の植民地支配に対する考え方は、ここに起結していると言えるのではないだ
83草柳[1983]56頁。
39 ろうか。
「文装的武備」は満洲地域経営と切り離せないものであるが、その捉え方は研究者によっ て大きく 2 つに分けられる。以下、後藤が残した言葉から「文装的武備」の 2 つの捉え方に ついて詳しく見ていくこととする。
先ず 1 つ目の捉え方に繋がるものとして、大正3(1914)年 6 月 5 日に幸倶楽部で行った 講演での発言を挙げる。
「文装的武備とは、一寸言つてみると文事的設備を以て他の侵略に備へ、一旦緩急あれ ば武断的行動を助くるの便を併せて講じ置くことであります84」
ここで後藤は、戦局に直面した時に直ちに軍備に転化出来る非軍事的施設の必要性を説 いている。具体的に述べるならば、満洲に大量の兵力を集めたり、軍備を増強したりして軍 の影響力を強めることに努めるよりも、満鉄を核として合理的に経営を進め、産業等を充実 させ、大量移民を実現させる方が、軍事的効果の面から見ても一層有効的であるということ である。何故なら、ただちに大量の軍事輸送を行いうる鉄道や、遊撃隊たり得る移民は、潜 在的な軍備となるからである。北岡[1988]は当時の日本の経済力は軍備増強が困難であり、
後藤と密接な関係にあった児玉源太郎85を始め、他の軍関係者からもこの案は支持され、後 藤の「文装的武備」発言には最初から軍の支持を得るという目的が込められていたと考えら れるのではないかと指摘している。確かに、満鉄はもともと関東都督下にあるので、軍の支 持を得なければ自由に経営を行うことは難しい為、この説は一理ある。
次に 2 つ目の捉え方の根拠となっていると考えられる発言を見てみたい。それは大正3
(1914)年 6 月 20 日の幸倶楽部での講演上の後藤の発言である。この段階では「文装的武 備論」は、政治哲学的な性格を持つものになっている。
「此植民地政策のことは詰り文装的武備で王道の旗を以て覇術を行ふ、斯ういふこと が当世紀の植民政策であると云ふことは免れぬので、それに対しては如何なる施設が必要 であるかと云ふことは、帝国の植民政策の関係から起るのでありますが86」
「覇術を行う」際に何が「王道の旗」になるのか。後藤はそれを「経済発展・学術・教育・
84『日本植民政策一斑』46頁。
85 児玉源太郎(1852-1906年)近代軍隊の創設に努めた陸軍長州財閥の一人。台湾総督 や陸軍・内務・文部の各大臣を歴任。台湾総督時代には後藤新平を起用し、支配を進め た。日露戦争においては、降格人事となる陸軍参謀次長(後に参謀長、参謀総長)に自ら 就き、戦争全体を実質的に支持した。日露戦争後の「満洲経営」の理論的支柱であり、満 鉄設立委員長に任命されたものの、満鉄設立以前に死去した。後藤を満鉄総裁に推した一 人である。
86『日本植民政策一斑』102頁。
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衛生、これは文明の利器ともいえるであると考えている。要するに「広い意味での文化社会」
をつくり、満洲経営に対する現地の支持を得、また満洲現地の人心を平和のうちに征服する ということになるだろう。これを後藤自身の言葉で言い換えるならば、
「矢張帝国に帰依せしむることが必要である、仏様のやうな話であるけれども、帰依とい うことは第一義でなければならぬ、-略-或学者は行政の秘訣は人間の弱点に乗ずるに在 りと申して居るが実にさうである。植民政策殊にさうである。-略-故に人の迷の起つた所、
窮した所が其の弱点である、宗教の如き既にさうである。其の迷に乗ずるのである87」
となる。この後藤の発言を以て「文装的武備」というものを帝国主義の走りだと捉えるもの も多くある。そしてこの一節は、後藤の「文装的武備」に関する発言の中でも特に有名なも ので、満洲及び満鉄に関する論文等においてほぼ例外なく引用されているところのでもの である。
しかしここで注目しておきたいのは、既に北岡[1988]でも指摘されているところ88ではあ るが、後藤自身が大正 3(1914)年 6 月 5 日の幸倶楽部での講演中に
「(文装的武備を)軍事関係を最終目標とすると云うやうなことにお聴き下さつては間違を 生じますけれども89」
と述べている点である。確かに「文装的武備」はその表面だけ見ると非軍事的施設による広 義の軍事力の増強を目標とするものと捉えられても仕方がない一面を持っている。だが、こ の発言を見れば、後藤自身が「文装的武備」において目標とするところは単なる軍事力の増 強とは違っていたと言えるだろう。北岡[1988]では、後藤の鉄道経営及び鉄道観、学校や病 院等の文明的施設の経営等の内容を取りあげ、「文装的武備」と呼ばれたものは、広義の安 全保障の意味は持っているものの、軍事的色彩を帯びたものではなく、実は日本とロシア、
日本と清国との間の対立関係を相互依存的な関係に変えていく機能を持っていた90とまと められている。
山本[2004]では「文装的武備」について何ら詳しい説明はなされていないが、「関東都督 府(関東庁)に比べて「文装的武備」を中心とした現地の状況に応じた満鉄の支配は日本の
「満洲」経営の中核を為すものであったが、これは満洲国における力による支配とは全くの 別物で、-略-あくまで文人支配であったといえる。91」という様に基本的に北岡とほぼ同
87『日本植民政策一斑』111頁-112頁。
88 北岡[1988]では、「大正3年4月の講演中」となっているが、大正3年6月の誤りであ る。
89()は説明の為、筆者による加筆。『日本植民政策一班』74頁。
90北岡[1988]103頁を主に参照。
91山本[2004]1頁。
41 じ見解をしている。
後藤が帝国主義の立場92からにしろ、誰・何の為には別物として純粋に「満洲」の発展を 想っていたにしろ、「文装的武備」から言える事は、「鯛の目と比良目の目」の比喩と同じこ とである。つまり、最終的には現地の人心を捉えることが、支配地において何よりも優先し て行われるべきであるということである。これは「文装的武備論の反対は武備的文弱論にな る93」という後藤の言葉からもわかることである。後藤が「文装的武備」を説いたのは、武 力によって文化に力を注がない支配は、いざという時に民衆の協力を得られず、たちまちの うちに崩壊してしまう運命にあることを経験的に理解していた為であろう。後藤の考えで は、現地の人心を得るためには文明の施設である病院・教育機関等が重要なものであり、そ れは都市の建設に結びついていくものであった。