第三章 中国の身辺小説における私小説的要素
第三節 郭沫若の身辺小説
二 郭沫若の小説創作と身辺小説について
郭沫若は当初詩人として文壇に活躍していたが、後に小説を書き始め、小説集を出版す るようになった。郭沫若は生涯で全部40篇の小説を創作した161。また、その小説創作も時 期によって、異なる傾向が読み取れる。例えば、彼の初作『髑髏』〔1918、未刊行〕およ びその後の『牧羊哀話』〔1919〕はすべて架空の話である。『髑髏』と『牧羊哀話』の創 作に関して、郭沫若は以下のように述べる。
私の幻想した漁師齋藤寅吉の物語は……僕の最初の創作の梗概であって、その題 名は『髑髏』とつけた。……私の第二の創作『牧羊哀話』は……構成の上からい うと、……『髑髏』とは完全に同じ母の腹に出来た姉妹であった。僕はただ僕が 一九一四年の大晦日に北京から京奉鉄道で日本に渡る時、途中朝鮮を通って来た 経験を利用して、朝鮮を舞台に借りて、排日の感情を朝鮮人の心中に移しただけ であった。その全体の筋は専ら僕の幻想から出たもので、……162
上記の資料によると、初期の郭沫若の小説はすべてフィクションによって構成されてい る。しかし、郭沫若はその後、『鼠災』〔1920〕において、自己の経験をそのまま小説の 内容にしたと思われる。その点について、郭沫若は以下のように述べる。
『鼠災』と題した一篇は、僕の一張羅のセルの学生服を角の破れた柳行李に入れ てたのを鼠にかじられ、僕とアンナと言い合いをした話を書いたものである。…
…前の『牧羊哀話』と火葬にした『髑髏』に比べると、一段進境を見せた創作だ といえよう163。
161 劉元樹『郭沫若創作得失論』(四川文芸出版社、1993)1頁参照。
162 同注147。原文:「我所幻想出的漁師齋藤寅吉的故事……是我的最初的一篇創作的梗概、題名就叫『髑
髏』。……我的第二篇創作『牧羊哀話』……在結構上和……『髑髏』完全是同母的姊妹体。我只利用了我 在一九一四年的除夕由北京乘京奉鉄路渡日本時、途中経過朝鮮的一段経験、便借朝鮮為舞台、把排日的感 情移到了朝鮮人的心里。那全部的情節只是我所幻想出来的、……」引用は『郭沫若全集』第12卷 59、60 頁より、訳文は「郭沫若篇」125、127頁より。
163 同注147。原文:「『鼠災』、写的是我的唯一的一嘩嘰学生裝放在破了一只角的藤篋里被耗子咬壊了、
我和安娜勃溪了一場的故事、……比較我那『牧羊哀話』和火葬了的『髑髏』、要算是進了一境的創作。」
引用は『郭沫若全集』第12卷71頁より。訳文は「郭沫若篇」132頁より。
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下線部が示したように、郭沫若から見れば、自己経験によって構成された小説は、架空 の話によって作られた小説より、「一段進境を見せた創作」であるという。また、この時 期の郭沫若は、自己を重視しているという小説創作理念を持ち始めたことが読み取れる。
さらに、筆者が気づいたのは、『鼠災』の後、郭沫若は『残春』〔1922〕・『未央』〔1922〕・
『月蝕』〔1923〕・『聖者』〔1924〕・『万引』〔1924〕・『漂流三部曲』〔1924〕・『行 路難』〔1924〕・『亭子間中』〔1925〕・『湖心亭』〔1925〕・『矛盾的統一』〔1926〕・
『後悔』〔1926〕など、一連の身辺小説を創作したことである164。また、次節で述べるよ うに、張資平も身辺小説の初作『百事哀』を作成した後、一連の身辺小説を創作した。そ の原因は生活上の変化により、作者は小説を通して自分の感情を表したいからである〔後 述〕。では、郭沫若の場合は同じであろうか。それを判断するために、まず『髑髏』から
『鼠災』までの郭沫若の生活経歴を確認してみたい。以下に挙げた郭沫若の経歴は、『郭 沫若年譜』165を参照し、まとめたものである。
郭沫若は1914年に日本に留学した。そのころ彼はすぐ官費をもらったので、生活は豊か とも言える。その証拠に、彼は1915年に両親に金の腕時計・金のネックレス、そして1916 年に日本の鉢植えを送っている。そして、郭沫若は時々友人と旅行し〔東京へ花見、宮島 へ旅行など〕、本も数多く購入した。さらに、1916年10月に、母の誕生日を祝うために、
郭沫若は同寓の人たちにご馳走までした。しかし、1916年12月に佐藤富子〔郭安娜〕と同 居した後、生活状況が一変してしまった。まず、郭沫若は1917年3月に学費を払い、佐藤 富子を東京の学校に送った。しかし、妊娠が分かったため、佐藤富子は5月に学校をやめ、
郭沫若のところに戻ってきた。その後、郭沫若は11月に母親に手紙を送り、誕生日祝いを したが、プレゼントを送らなかった。さらに、12 月に長男が生まれ、翌年の夏、両親に送 金するどころか、両親から送金されるようになった。
以上の情報をまとめてみると、佐藤富子と同居するまでの郭沫若の生活は豊かであった が、同居して、子供が生まれたら、情況が一変した。また、子供が生まれた後の郭沫若の 生活状況は以下の通りである166。彼は1918年8月に九州大学に入学し、質屋の二階にある 倉庫に泊まっていた。その後、生活費を減らすために、彼は9月、そして12月に、二回引
164 ここに挙げた郭沫若の身辺小説のリストは、楽山師專郭沫若研究室編『郭沫若研究論叢』第1輯(四川 大学出版社、1988)に収録する江源「論郭沫若的「身辺小説」兼及「自伝」」、85、86頁を参照したもの である。
165 龔継民・方仁念編『郭沫若年譜』(天津人民出版社、1992)34-75頁参照。
166 子供が生まれた後の郭沫若の生活状況について、龔継民・方仁念編『郭沫若年譜』(天津人民出版社、
1992)77-103頁参照。
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越しした。12 月に引越しした後、郭沫若は詩「十里松原四首」を創作した。詩の中で、彼 は「一篇秋水一杯茶」という詩句を以て、自分の貧しい生活を描いた。1919 年の春頃、郭 沫若はまた詩「春寒」を作り、生活の苦しみを嘆いた。7月に郭沫若の耳の持病がひどくな り、学業が難しくなってきた。その後1920年1月に、彼は小説『鼠災』を書き上げた。
上記の情報から分かるように、郭沫若は身辺小説の創作を始める前に、張資平と同じよ うに、生活状況が変化し、貧しくなってきた。そのため、郭沫若はロマン的な、フィクシ ョンによって構成された小説をやめ、自分の経歴の入った主観性の強い身辺小説を書き始 めたと思われる。
また、郭沫若は小説創作について、以下のような言論を残したことがある。
文学者は社会人としての経験が足りない場合、自己の極めて狭い生活を書くしか ない。これはたこが自分の足を食うのと似ている167。
これは1928年1月15日に、郭沫若が子供と一緒に雑誌『Kodomo no Kagaku』の中にあ る「たこは餌不足の時に自分の足を食う」という内容を読んだ後の感想であるが、彼はか つて生活と勉強、二つの重圧に覆われたことが、社会経験が少ない時に身辺小説を多作し た原因の一つでもあると言えよう。
以上、郭沫若の小説創作および身辺小説を多作した原因に分析を加えた。一方、郭沫若 の身辺小説に関して、これまで多くの研究者によって論じられた。以下から、これまでの 郭沫若の身辺小説に関する先行研究を分析し、彼の身辺小説の全体図を確認したい。
(一) 中国側の先行研究
筆者の調査によると、中国側の郭沫若の身辺小説に関する先行研究は、主に以下の通り である。
167 陈漱渝编『郭沫若日記』(山西教育出版社、1997)98頁。原文:「文芸家在做社会人的経験缺乏的時 候、只好写自己的極狹隘的生活、這正和章魚吃脚相類。」
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① 鄭伯奇「『中国新文学大系・小説三集』導言」168
鄭伯奇は郭沫若の小説を分類した時に、以下のように述べ、初めて身辺小説という用語 を提出した。
彼〔郭沫若〕の小説は二種類に分けられる。第一種類は古代人或はよその土地の ことに仮託して自己の感情を表すものであり、寄託小説と称することができる。
第二種類は自己身辺の随筆的小説であり、即ち身辺小説である169。
このように、鄭伯奇によると、郭沫若の小説は寄託小説と身辺小説に分類できる。また、
筆者は、鄭伯奇以降の郭沫若の小説分類に関する研究を考察した結果、例えば、後文で挙 げた江源「論郭沫若的「身辺小説」兼及「自伝」」170、曽慶瑞「浅議郭沫若早期「身辺小 説」的独特風貌」171、曽少祥・楊林山『郭沫若芸術新論』172などは、鄭伯奇の説と同じよ うに、郭沫若の小説を寄託小説と身辺小説に分類していることが判明した。
② 江源「論郭沫若的「身辺小説」兼及「自伝」」
江源は郭沫若の小説を論じる時に、以下のように述べる。
新しい版本の『郭沫若全集』〔1985年人民文学出版社出版〕文学篇第9巻に収録 する作品について、一部の虚構性を持つ小説(当時は「寄託小説」と呼ばれる)
を除き、残った小説すべてがこのような小説〔身辺小説〕である。……郭沫若の
「身辺小説」では「心境」の描写が重視され、すなわち主に主人公の心理活動・
情緒の起伏・精神状態が描かれており、身辺の事実はただ「心境」を導入する渡 り橋に過ぎないため、我々はこれらの「身辺小説」がその時期の郭沫若の生活状
168 同注5。
169 同注5、731頁。原文:「他的小説可以分作二類、一類是寄託古人或異域的事情来発抒自己的情感的、
可称寄託小説。一類是自己身辺的隨筆式的小説、就是身辺小説。」
170 江源「論郭沫若的「身辺小説」兼及「自伝」」、楽山師專郭沫若研究室編『郭沫若研究論叢』第1輯に 収録(四川大学出版社、1988)83頁参照。
171 曽慶瑞「浅議郭沫若早期「身辺小説」、楽山師專郭沫若研究室編『郭沫若研究論叢』第2輯に収録(四 川大学出版社、1988)160頁参照。
172 曽少祥・楊林山『郭沫若芸術新論』(北京燕山出版社、1992)27頁参照。