第二章 私小説の読解過程とその判断基準について
第一節 一人称私小説における形式的「現実依拠性」を示すテキスト信号の考察
一 心境における形式的「現実依拠性」を示すテキスト信号の考察-自由直接話
前述のように、一人称私小説において、キルシュネライトは「無媒介な、いかなる論証 的情報によっても準備されていない、もっぱら自分の感想を書き付けるばかりの一人称の 主人公の登場」という信号によって、読者は小説における現実依拠性を認識し、その小説 を私小説として読もうとしたという。では、主人公は「もっぱら自分の感想を書き付ける」
時に、作者はどんな手法を使用し、その感想・心境を読者に示したか。以下から、まず一 人称私小説の心境描写法の考察に取り掛かりたい。
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まず、小説『虫のいろいろ』の中にある主人公の心境描写に関する内容を見てみたい。
小説『虫のいろいろ』では、以下のような心境描写がある。
私がこの世に生まれたその時から、私と組んで二人三脚をつづけてきた「死」と いう奴、たのんだわけではないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩いてきた死 というもの、そいつの相貌が、このごろ何かしきりと気にかかる。どうも何だか、
いやに横風なつらをしているのだ107。
上記の内容の下線部では、主人公は自分の虫を観察して獲得した生死観を、〈自由直接 話法〉によって、直接読者に伝えている。
橋本陽介は自由直接話法を、「直接話法に存在する伝達節と引用符の両方、または一方 を取り去ったもの」と定義する108。また、自由直接話法について、橋本陽介は以下の二種 類に分類できると述べる。
①伝達節がない場合:「明日またあなたに会いにくるよ。」
②伝達節、引用符ともに用いない場合:明日またあなたに会いにくるよ109。
また、筆者の考察によると、『中村光夫選 私小説名作選』に収録された一人称私小説 では、上記の『虫のいろいろ』と同じように、自由直接話法が多く使用されている。例え ば、以下のような自由直接話法の使用例が存在する。
資料①
こっちは彼奴〔死亡〕の行くところへどうしてもいかねばならない、じたばたし ようとしまいと同じ-このことは分明だ。残るところは時間の問題だ。時間と空 間から脱出しようとする人間の努力、神での絶対でもワラでも、手当たり次第掴
107 尾崎一雄『虫のいろいろ』、日本ペンクラブ編『中村光夫選 私小説名作選』上(講談社、2012。以下
『私小説名作選』と省略)200頁。
108 橋本陽介『物語における時間と話法の比較詩学』(水声社、2014)70頁。ここに挙げた自由直接話法 の定義は、橋本陽介がLeech, Geoffrey N. and Michael H. Short, Style in fiction:a linguistic introduction to English fictional prose, London and New York/ Longman, 1981.の説を参照し提出したものである。
109 同注108。
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もうとする努力、これほど切実でもの悲しいものがあろうか。一念万年、個中全、
何とでも言うがいいが、観念の殿堂にすぎなかろう。なぜ諦めないのか、諦めて はいけないのか。だがしかし、諦めきれぬ人間が、次から次と積み上げた空中楼 閣の、なんと壮大なことだろう110。
-『虫のいろいろ』
資料②
どこか親し味のある取扱いをして泊めてくれるようなところはないだろうか。女 はなぜ、あの二階借りの住居を畳んでしまっただろう。自分は、五月から六月に かけて一ヶ月ばかり彼女のところにいる間に健康を増して、いくらか体に肉が付 いたくらいであった。しかし、もうあそこにいないと言えば、これから行ってみ たところでしかたもない。母親はどこにいるのだろう。もっとも女に逢おうとお もえば、すぐにでも会えないことはないが、そうして逢うのは、つまらない111。
-『黒髪』
資料③
山羊でも日の光を喜んでいるのであろう。山羊でも光明を慕い風雨を嫌っている のであろう。……因習的に下駄を穿いて出るのがあほうなのか、はじめから穿き 物なんか用いないで、裸足で出るのがあほうなのか、私は明瞭に心に決めている のではなかった112。
-『戦災者の悲しみ』
このように、一人称私小説では、自由直接話法という手法によって、主人公は「もっぱ
110 同注107、200、201頁。
111 近松秋江『黒髪』、『私小説名作選』上41頁。
112 正宗白鳥『戦災者の悲しみ』、『私小説名作選』上81、85頁。
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ら自分の感想を書き付ける」ことが多い。このような手法によって、作者は直接主人公の 心境を読者に伝えられる。次に、視点における作者からの「現実依拠性」を示すテキスト 信号の分析に入りたい。