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心境における形式的「現実依拠性」を示すテキスト信号の考察-自由間接話

第二章 私小説の読解過程とその判断基準について

第二節 三人称私小説における形式的「現実依拠性」を示すテキスト信号の考察

一 心境における形式的「現実依拠性」を示すテキスト信号の考察-自由間接話

前節では、一人称私小説の心境描写を分析することによって、自由直接話法という形式 的「現実依拠性」を示すテキスト信号が検出された。本節から、三人称私小説の心境描写 法に分析を加え、作者からの「現実依拠性」を示すテキスト信号の有無を明らかにしたい。

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三人称私小説では、作者は主人公の心境を描写する時に、一人称私小説と同じように、

特定の手法を使用する傾向が見られる。例えば、小説『少女病』では、以下のような心境 描写が存在する。

『もう何うしても二十二三、学校に通って居るのではなし、……それは毎朝逢わ ぬのでも解るが、それにしても何処に行くだろう』と思ったが、其思ったのが既 に愉快なので、眼の前にちらつく美しい衣服の色彩が言い知らず胸をそそる。『も う嫁に行くんだろう?』と続いて思ったが、今度はそれが何だか侘しいような悔 しいような気がして、『己も今少し若ければ……』と二の矢を継いだが、『何だ か馬鹿馬鹿しい、己あ幾歳だ、女房もあれば子供もある』と思返した。思返した が、何となく悲しい、何となくなつかしい、何となく嬉しい132

上記の資料では、主人公は電車内で何度か出あったことのある女と再会した時の心境が 書かれている。主人公の心境を描く時、最初は『』を付け、語り手は直接話法133を以て主 人公の心境を書いている。しかし、最後の一句において、「何となく悲しい、何となくな つかしい、何となく嬉しい」という描写形に変換し、地の文でありながら、主人公の心境 が直接書かれている。ここでは、〈自由間接話法〉という話法が使用されていると思われ る。以下から、自由間接話法について、簡単に紹介したい。

自由間接話法について、橋本陽介は以下のように述べる。

自由間接話法と呼ばれるものは……形式上は地の文(つまり引用符、伝達節とも にない)でありながら、作中人物の内面を描出しているものと定義される。そし てその間接度は間接話法と直接話法の中間に位置するとされる134

自由間接話法の先行研究について、橋本陽介は「模倣」説135と「エコー発話」説136など

132 田山花袋『少女病』、『私小説名作選』上10頁。

133 同注108、69頁。原文:「直接話法とは、登場人物のセリフを引用符付きでそのまま表出するもので、

伝達節…がつけられることが多い。」

134 同注108、72頁。

135 同注108、72頁参照。橋本陽介によると、中川ゆきこは『自由間接話法』(あぽろん社、1983)におい

て、自由間接話法の本質を語り手による作中人物の「模倣」であると主張する。

136 同注108、72頁参照。橋本陽介によると、山口治彦は『明晰な引用、しなやかな引用』(くろしお出版

社、2009)において、自由間接話法を「エコー話法」であると主張しており、その「エコー話法」は、他

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があると指摘する。筆者はここで、自由間接話法の詳細な分析を省きたいと考えているが、

「その特殊性は「二重の声」にあるとされる。つまり、形式上は地の文でありながら、物 語内部に属する登場人物が語っているように感じられる」という自由間接話法の特殊性137 を以て、以下から三人称私小説の話法に分析を加えたい。

上記の資料の最後の一句を見ると、主語が省略されているが、前後の文脈から分かるよ うに、「思返した」のは、小説の主人公「男」であると思われる。また、後半部分では、

「何となく悲しい、何となくなつかしい、何となく嬉しい」のように、現在形になってい るため、前半部のような、語り手の過去形による出来事の回想という制御から逸脱し、主 人公が当時の心境を直接言い出すようになっている。このように、「二重の声」の特殊性 が存在するので、自由間接話法が使用されていると思われる。よって、上記の資料では、

自由間接話法の使用によって、語り手は主人公の内面を語る資格を持つことを示している ので、私小説において、自由間接話法は語り手と主人公の同一性を提示する役割を果たし ていると思われる。

また上記の例のほかに、三人称私小説では、以下のように、自由間接話法の使用がしば しば検出された。

資料①

この娘とは何時でも同時刻に代々木から電車に乗って、……ただ相対して乗って いる、よく肥った娘だなアと思う、あの頬の肉の豊かなこと、乳の大きなことも、

立派な娘だなど続いて思う。それが度重なると、笑顔の美しいことも、耳の下に 小さな黒子(ほくろ)のあることも、……何も彼もよく知るようになって、何処 の娘かしらん?などと、其家、其家庭が知り度くなる138

-『少女病』

上記の資料では、前半の部分では、語り手は直接話法を以て主人公の心境を描いている が、最後の部分に、地の文の形式でありながら、「何処の娘かしらん」と「其家、其家庭 者の発話をおうむ返しにする引用の形式であると述べる。

137 同注108、341頁参照。

138 同注132、12頁。

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が知り度くなる」のところでは、主人公は語り手の制御から飛び出し、その声と感覚が直 接聞こえるように書かれているので、ここもまた自由間接話法によって、主人公の心境が 描かれていることが判明した。

資料②

圭一郎が遠い西の端のY県の田舍に妻と未だほんにいたいけな子供を残して千登 世と駈落ちして来てから満一年半の歳月を、樣々な懊悩を累ね、無愧な卑屈な侮 らるべき下劣な情念を押包みつつ、この暗い六畳を臥所として執念深く生活して 来たのである。①彼はどんなにか自分のかりそめの部屋を愛し馴染んだことだろ う139

-『崖の下』

資料②において、下線部①は地の文でありながら、主人公の心理が書かれているので、

自由間接話法が使用されていると思われる。また資料②のほかに、本小説の中で、「もう いくら何でも、退院だけはしてくれているはずなのだろうか?」のように、自由間接話法 がしばしば使用されている。

以上の例が示したように、三人称私小説では、自由間接話法の使用によって、語り手は 主人公の内面を語る資格を持つことを示し、語り手と主人公の同一性を提示する。このよ うに、自由間接話法は私小説の形式的「現実依拠性」を示すテキスト信号の一つであるこ とが判明した。

次に、視点における作者からの「現実依拠性」を示すテキスト信号に分析を加えたい。

二 視点における「現実依拠性」を示すテキスト信号

筆者の考察によると、一人称私小説の共有の視点に対し、三人称私小説では、視点変換 現象が存在する。キルシュネライトは三人称私小説-志賀直哉の『暗夜行路』を以て、私 小説の視点変換現象について、以下のように述べる。

139 嘉村礒多『崖の下』、『私小説名作選』上106頁。

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「焦点人物」という構造要素は、(「語り手すなわち主人公」という)「共有の 視点」がほぼ保たれている点に現れている。……ただし、多くの場合これは、語 り手が他の登場人物の背後にまわり、言わば「背後からの」視点を持ち込むこと によって、破られている。……このような場合はたいてい、主人公に近い人物の 考えや感情が描かれており、それによって主人公は、そうしたことがらについて あるていど語る資格をもっていることを読者に納得させうるのである140

上記のように、キルシュネライトの説によると、私小説の共有の視点が「背後からの」

視点を持ち込むことによって破られており、その原因は「主人公に近い人物の考えや感情 が描かれており、それによって主人公は、そうしたことがらについてあるていど語る資格 をもっていることを読者に納得させうるのである」という。このように、三人称私小説で は、共有の視点が存在しないものの、特定の傾向が潜まれているという作者からのメッセ ージが書き込まれている可能性があると思われる。よって、以下から、三人称私小説の視 点を分析し、「現実依拠性」を示すテキスト信号を確認したい。

まず、小説『少女病』では、以下のような視点に関する描写がある。

資料①

山手線の朝の七時二十分の上がり汽車が、代々木の電車停留場の崖下を響させて 通る頃、千駄ヶ谷の田畝をてくてくと歩いて行く男がある。……沿道の家々の人 は、遠くから其姿を見知って、もうあの人が通ったら、貴郎御役所が遅くなりま すなどと春眠いぎたなき主人を揺すり起す軍人の妻君もある位。……四ッ目垣の 外を通懸ると、『今お出懸けだ!』と、田舎の角の植木屋の主婦が口の中で独り 語ちた141

資料①は小説の冒頭部分である。上記の資料において、下線部が示したように、主人公 の視点だけではなく、沿道の家の人物から主人公を描写する視点も存在する。しかし、主 人公の視点による描写ではないとはいえ、主人公は視点人物の視野の中に、言い換えれば、

140 同注9、250頁。

141 同注132、7-9頁。