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第四章 遠さ

4.2. 遠方志向と幽霊化

異質性が多様で解け合わない空間では、起源を同じくする者は民族的・文化的帰属を示 し合い遠くの故郷を意識することで存在を安定させようとする。しかし帰属先であるはず の故郷の同民族とは現在地が異なるゆえに帰属意識が一致しないため、自身の現在地に対 する帰属意識が相対的に高くなる。遠くの地との結びつきにより生まれる帰属意識の遠心 性と求心性を「遠方志向」と捉え考察を進める。

ズヴェーヴォのテクストにおいて遠方志向は特に結末において明確に表れる。第一章で 分析した登場人物の関係性において、欲望の主体が直線的欲望の達成を目指すためカルテ ットから他者が排除される運動を考察した。カルテットにより排除される他者はたいてい の場合結末において死あるいは消失という形で作品から退場する。その際、主人公の現在 地から遠のくようなイメージが用いられる。

『つかのまセンチメンタル・ジャーニー』で設定される遠隔地がもっとも作品の中では 遠い地となっており、主人公アギオスは結末において地球から宇宙空間に飛び出し火星へ と向かう。火星に向かう途中の夢想で主人公が描く火星人は、言葉を理解できない相手と して想像される。その設定に当時のトリエステで主に対立関係にあったとされるイタリア 人とスラヴ人の関係を読み取ることができる。街ではイタリア人よりスラヴ人のほうが社 会的には下層に位置づけられ、スラヴ人が社会的に上の地位を求める場合、彼らはイタリ ア語を習得しなければならなかった。その一方でイタリア人は、イタリア語がドイツ語に 並んで多数者の言語だったことからスラヴ言語を習得する必要性を感じていなかった。つ まり火星人がアギオスの言語を理解した様子をみせる一方でアギオスは火星人の言葉が わからなかった、という設定は「アギオス=イタリア人」「火星人=スラヴ人」と読むこ とができる。アギオスがたとえ想像であっても火星に辿り着き火星人と接することがなか ったように、街というひとつの空間を共有して生活する民族間で、物理的な距離を最小限 にすることは可能であっても、言語の差による精神的距離が維持されていた様子を読み取 ることができる。

遠方志向が内包する帰属意識の遠心性と求心性は時空においても適用される。それが表 れるのが、『つかのまセンチメンタル・ジャーニー』の主人公アギオスが自身の名前から 出自を遡る場面である。

「私はジャコモ・アギオスといいます」アギオス氏は隣に向かって言った。こ のように自己紹介することになったのはたぶん、少し前ゴンドリエーレにその 若者の名前を知らないことを悟られたからだろう。 

アギオス氏から差し伸ばされた手を握ると一瞬ためらった。しかしすぐにその ためらいは明らかにされた。「奇遇ですね!私もアレッサンドロと言います。ア レッサンドロ・バチスです。名前で私がフリウリ出身なのがわかります。貴方 も同じとお見受けしますが?」「いやいや!」アギオス氏は心から笑って言うと

「私はケルトよりもずっと古い民族から血をひいています。」「ギリシャです か?」称賛を込めてバチスは聞いた。 

アギオス氏はうなずいた。「楽なものですよ」と続けた。「別の民族の出だとい うのは。そうすればつねに旅しているようなものですからね。より縛られない 考えを持つのです。そうするとイタリア人の物の見方について話すときでも、

私はギリシャ人の見方にさえ賛同しないのですから。最後に考えが合ったギリ シャ人はソクラテスですよ。」 

「私は」とバチスが言った。「二言語と一方言を操るあのフリウリの人間ですよ。

私も旅の中ですね。」ミラノ駅を後にして初めて笑いに笑って子供のようだった。

すぐにアギオス氏はぐっと親近感を感じ、こうも思った。「なんと頭がよいのだ 私の新しい友人は。優れた人物が旅人について説く論理すべてを即座に理解し たのだ。一方私はそんなにも単純な考えをまとめるのに 60 年ほどもかかった というのに。」252 

252 “- Io mi chiamo Giacomo Aghios - disse il signor Aghios volgendosi al suo vicino.

Probabilmente era stato spinto a questa presentazione dall'osservazione fatta poco prima dal gondoliere di non sapere il nome del giovinotto.

Questi strinse la mano portagli dall'Agios ed esitò per un istante. Ma poi l'esitazione fu spiegata: - Strano! Anch'io mi chiamo Alessandro. Alessandro Bacis. Il nome rivela la mia origine friulana. Anche il Suo mi pare?

- No! No! - disse il signor Aghios ridendo di cuore. - Io discendo da una razza molto più antica della celta.

- Greca? - domandò il Bacis ammirando.

Il signor Aghios annuì. – È comodo – disse – di appartenere ad un'altra razza. Così è come se ci si trovasse sempre in viaggio. Si ha il pensiero più libero. È così che quando si tratta di modo di vedere italiano io non sono d'accordo neppure col modo di vedere greco. L'ultimo greco col quale fui d'accordo è Socrate.

アギオスとバチスの会話はイタリア語でなされていると想定される。アギオスはギリシャ 起源の名字を持つことから、イタリアへの帰属に縛られない自由な思考をもつ旅人のイメ ージを相手に呈示し、それに同意を示すフリウリ出身のバチスは、三言語を話す253ことか ら自らも自由な旅人のひとりであると言う。この場面は、言語によって帰属が規定される という束縛的な思考からの解放を示す。しかしアギオスとバチスでは少々理解が違うよう だ。バチスが自らの起源をフリウリとしているのに対して、アギオスはギリシャとしてい る。バチスは現実のフリウリという空間を帰属先として意識しているが、アギオスが起源 として意識するのは時空を越えた先にあるギリシャである。バチスの場合は三言語使用が フリウリという空間を定義し、言語による帰属の一時的転換を旅と呼び、現在という地平 を出ない横の広がりのみの狭い理解を示している。その一方でアギオスはトリエステのイ タリア的文化への帰属ではなく、現在地から過去の起源の地まで、ギリシャから街に辿り 着いた祖先を連鎖的に想定する。したがって彼は現在に縛られない帰属意識を持ち、時空 を越えた縦の広がりを持つ理解を示している。その上でのイタリア的でもギリシャ的でも ないという主張は、ふたつの文化への帰属の否定によって現実のトリエステという街への 帰属を表していると考えられる。

様々な民族の中から選ばれたイタリア人とギリシャ人という対比は、共にトリエステの 経済活動を支えてきたコミュニティであるという共同意識と、対立関係を考慮した選択と 考えられる。『つかのまセンチメンタル・ジャーニー』は 1925 年頃に執筆された作品だが、

1923 年にはトリエステのイタリア人とギリシャ人の関係は悪化していたとされる254。ギリ シャ人はトリエステがオーストリア帝国の自由港となってから最初に街に移ってきた民 族のひとつである。その背景には帝国から与えられる関税特権とギリシャに迫っていたオ スマントルコの脅威があげられる。1714 年に新天地としてトリエステを選び先導を切った ナフプリオ出身のリベラレ・バセオ(Liberale Baseo)は経済的成功をおさめ、その功績 はウィーン政府にも認められる。ギリシャ人が築いた海上輸送路はその後トリエステ港の 基礎となり、ギリシャ人はブドウやドライフルーツの輸入に加えカフェの経営を行い、そ

- Io – disse il Bacis – sono di quei Friulani che sanno due lingue e un dialetto. Sono in viaggio anch’io. – Rise per la prima volta dopo la stazione di Milano di un riso abbondante quasi infantile che lo portò subito più vicino al cuore del signor Aghios il quale anche pensò: “Com’è intelligente il mio nuovo amico. Immediatamente intese intera la teoria che fa del viaggiatore una persona di eccezione mentre io per elaborare un concetto tanto semplice impiegai quasi 60 anni.”(RS, p.566.)

253 バチスの話す言語については「イタリア語・ヴェネト方言・フリウリ語」(TS, [Sulla teoria

della pace], p.870.)「イタリア語・フリウリ語・ミラノ方言」「イタリア語・フリウリ語・ドイ

ツ語」等の可能性が考えられる。(RS, p.1253, nota 2.)

254 以下この段落はBenussi:2007, ‘i Greci’, pp.37-63による。

のなかでもカフェ・スペッキはトリエステブルジョワジーの交流の場となった。1751 年、

マリア・テレジアの許可によりトリエステにギリシャ正教のコミュニティと教会が誕生し、

1759 年には信者の埋葬が認められる。ナポレオン戦争の時期にはトリエステの経済にもそ の影響が及び、1819 年にはオスマントルコの迫害から逃れた人々が到着し、独立の機運が 高まると 1824 年には街はギリシャ人にとって運動の中心となる。海運に強かったギリシ ャ人は保険業や金融業でも活躍し、ユダヤ人やオーストリア人、トリエステ市民とともに、

オーストリア・ロイドの出資・経営を行っていた。ギリシャ独立戦争による経済的損失の 脅威を感じたアンブロージョ・ディ・ステファノ・ラッリ(Ambrogio di Stefano Ralli) は 1826 年に保険会社を設立する。ジョヴァンニ・ラッリ(Giovanni Ralli)はゼネラリ保 険の創設者のひとりである。ラッリ家が保険と銀行業に携わっていたギリシャ系のスカラ

マンガ(Scaramangà)家と婚姻で結びつくことで街の商業と経済はさらに堅固になった。

またコスティ・アフェンドゥリ(Costì-Afenduli)家はコーヒーと砂糖の販売において重 要な位置を占めていた。ギリシャ人のコミュニティの結束は強かったが、自分たちを受け 入れた街に対する報恩の念も強く、トリエステの慈善事業に力を入れていた。例えば、ギ リシャの孤児の救済に加え、ギリシャ正教、カトリック、プロテスタント等宗教に関係な く貧困層を援助するための基金の設立などがあげられる。しかし第一次世界大戦で状況は 変わる。イタリア政府は街の要職をトリエステ市民から自らの政府の人間に入れ替えよう とし、アルバニアとの国境が画定される 1923 年には、イタリア人とギリシャ人の関係は イタリア人将校殺害の咎をギリシャ人が負わされるほどに悪化していた。アギオスが自身 の起源をギリシャに辿る設定は、経済における共同関係と政治的理由による対立関係とい う真逆の関係を、起源を辿る時空の旅に取り入れることで、異なる帰属意識が共有する根 の存在を提示したと考えられる。

アギオスが旅行したように、トリエステにおいて距離を解消し遠方と繋がる手段として 浸透していたものに鉄道があるが、それ以外にもうひとつ遠隔地とトリエステを結びつけ ていた手段として船舶があげられる。港町であるトリエステは寄港地として各地から商船 や海軍の船舶を受入れていた。ズヴェーヴォの実生活も船との関わりが深く、彼は妻の実 家ヴェネツィアーニ家が経営する船舶塗料会社をまかされていた。ヴェネツィアーニ社の 船舶塗料は日露戦争前後の戦争では敵味方の区別なく使用され、また対一時世界大戦では 敵方であるオーストリアに塗料を提供しなければならなかった255

船は海や遠い水平線、海上に立ちこめる霧や靄、嵐、難破、幽霊船等を連想させる。以 上のような船から連想されるモチーフはズヴェーヴォの小説にも登場し、『ゼーノの意識』

255 Gatt-Rutter, op.cit., p.422.