第四章 遠さ
4.1. トリエステ
本名エットレ・シュミッツ(Ettore Schmitz)のペンネームであるイタロ・ズヴェーヴ
ォ(Italo Svevo)にはイタリアを表すItaloとシュヴァーベンを表すSvevoに、イタリア
への帰属意識や、家族の起源であり商業を学んだドイツ語圏との親密さが読み取られる。
エットレ・シュミッツが生まれ育ちイタリアとドイツ語圏の二重の帰属意識を養ったトリ
エステは通算するとおよそ500年に渡ってオーストリアの支配を受け、その間に「中欧」
の精神を特徴づける「多様性」「多民族」「ドイツ語圏の飛び地」236という性質を獲得し、
商業港としてハプスブルク帝国にとって重要な海の玄関口として機能していた。それゆえ コスモポリタン的性格を獲得した街では様々な言語が飛び交う。エットレ・シュミッツ、
ドイツ語名アーロン・ヘクター・シュミッツが触れていた言語はトリエステの日常言語ト リエステ方言、文化人や愛国者間で話されていたイタリア語、商業と行政の言語だったド イツ語、仕事で使用していた英語とフランス語、そしてユダヤ系のシュミッツ家で用いら れてきたヘブライ語とイディッシュ語があげられる237。作家の実際の生活空間だけでなく、
たとえば『老境』の作品空間を考えてみると、主人公エミリオと妹アマリアが暮らす家で はトリエステ方言が話されていただろうし、主人公の仕事場ではドイツ語も使用しただろ う。友人の画家バッリと立ち寄るカフェでは他の文化人たちのイタリア語が聞こえ、バッ リとイタリア語で芸術談義に花を咲かせるテーブルに給仕するウェイターからはスラヴ 語のアクセントが聞き取れたかもしれない。恋人アンジョリーナとの散歩では、様々なコ ミュニティの教会の脇を通りながら、それこそ雑多な街の様々な言語も耳に入らないほど 彼女の美しさに心酔していたかもしれない。作品の一場面を取り上げても、その背景に 様々な言語が飛び交う空間を想定することになる、それがトリエステの空間である。
トリエステという街の名前の起源を遡ると、インド=ヨーロッパ語のtergとesteに辿 り着く。tergは市場を、esteは街を意味する。帝国支配下の繁栄までには様々な支配を経 験する。ケルト、ローマ帝国、自由地域、ヴェネツィア、オーストリア、ヴェネツィア帝 国、スペイン王国、そしてオーストリア=ハプスブルク帝国の支配へと辿り着くと、帝国 が港に与えた商業優遇政策に惹き付けられてユダヤ、ギリシャ、セルビア、オーストリア、
ドイツ、ボヘミア、イギリス、デンマーク、アルメニア、クロアチア、トルコ、スロヴェ ニア各地から人々が集まった238。
トリエステは帝国の経済的思惑とそれに伴う民族的・宗教的寛容の結果としての空間で ある。トリエステに人が集まる理由は様々だった。最初は取るに足りない辺境の街だった が、オーストリア・ハプスブルク帝国の支配下で自由港として関税特権等の商業に有利な 状況を得ると、市場・物流・交易に長けた商人たちの集まる港町となる。その中にはギリ シア人たちやセルビア人、クロアチア人といった、オスマントルコの脅威から逃れてきた 者たちもいた。トリエステの経済発展と外国人が持ち込む資本は帝国の利益となったため、
ハプスブルクは様々な民族・宗教のコミュニティの形成をみとめ、トリエステにおける教
236 Libardi/Orlandi:2011,p.20.
237 Simon:2012, p.71.
238 Benussi,: 2007, ‘Dentro Trieste: un po’ di storia’, pp.5-6.
会や学校の建設を受入れた。経済を中心として機能していたため街は開放的であり、プロ テスタントやアルメニア教会もトリエステに拠点をおき、街の経済活動の一部をなしてい た。宗教も文化も言語も異なり、それぞれが自分たちのコミュニティを形成していたが、
どのコミュニティも街の経済活動という共通項をもち、それぞれの活動によって街は支え られていた。
オーストリア=ハプスブルク帝国のもと、バルカン半島とイリュリアを傍らに、プロテ スタント―イギリス人、アメリカ人、スイス人、ドイツ人―たちを受け入れ、スロヴェニ ア人を抱え、斜陽のヴェネツィアからの流入を受け入れていたトリエステの中心は経済で あり、1918年、ズヴェーヴォが57歳の時、街がイタリアに回復されると、コスモポリタ ニズムを照らしていた寛容は消え街の経済的価値は失われる。イタリア政府は街を支えて いた経済人たち、要職に就いていた彼らを政府の人間に置き換えようとしたため、それま で街を支えていた経済による民族を超えた紐帯を崩すこととなった。
経済によって結びついていたトリエステは民族の「るつぼ」と言われるが、その中で理 想的に溶け合っていたわけではない。経済的な結びつき以外では基本的に住み分け、また 使用言語による様々な制限や階級ができていた。帝国の役人や警察などはドイツ語話者で あるのはもちろん、街の行政は主にドイツ語とイタリア語で、元々トリエステの周辺部に 住んでいたスロヴェニア人たちは街で公共の仕事に就くために、また雇用主が多くの場合 ドイツ人かイタリア人だったため、ドイツ語とイタリア語を学ぶ必要があった。一方、ス ラヴ言語話者が街の人口の三分の一を占めていた239にも関わらず、ドイツ人とイタリア人 はスラヴ語を積極的に学ぶことはなかった。トリエステにおいてイタリア人はスラヴ人と 対立関係にあり、ボビ・バツレンによると「トリエステのイタリア語話者が直接スラヴ世 界と接触するのはスロヴェニア人のカフェの給仕を介してくらい」であった240。スラヴ人 も街の経済的発展の一端を担う存在だったが下層階級とみなされていた。
トリエステは決して統一的空間として、単一的に捉えられる多様性を保持していたわけ ではない。空間の生み出す特徴を「トリエステ性」と呼ぶ時241、捉えきれない多様性に名
239 1911年の国勢調査によると、トリエステのスラヴ語話者は57,000人と街の三分の一を占
め、それはリュブリャナのスラヴ語話者人口を超える数字であった。(Vascotto: 2007,‘gli Sloveni’ p.71.)
240 Gatt-Rutter, op.cit.,pp.23-24.
241 アラとマグリスは、「トリエステ性」がはっきりとした帰属を示す唯一の可能性は文学にお いてのみだとしている。作家の言語選択や作品によって、「トリエステ性」に形が与えられる。
(Ara/Magris, op.cit., p.15.)さらにトリエステ文学はフロイトに代表されるドイツ語圏の知 の受容や『ラ・ヴォーチェ』(La Voce)といった雑誌の活動に関わっていた作家たちによって 中心性が与えられることでいっそうその特徴がはっきり現れる。(Gatt-Rutter, op.cit., pp.382-383.)
前を与えることになる。街の多様性は、民族・言語・宗教・職業で区別したとき、包括す るような一貫した文化的な伝統や中心を求めることができない。トリエステという空間が 共通項であり、街の同質性を求めるなら「異言語話者」の集合という異質性を持つことを 求められる逆説的空間242が、多様性の中心であり、自らの生活空間が当然の帰属先だと思 えない感覚がトリエステ市民の共通項となる。
トリエステが国境だとすると、(中略)それは分断しかつ接続する条である。治 りの悪い傷のような酷い切り口であり、誰の者でもない地域、混じり合った領 域においては、住民は往々にしてはっきり定められた国になど本当には属して いない、もしくは少なくとも属しているという明白な確信はないと感じるもの だ。普通であれば自分の国への帰属を意識するところだが。243
街という一空間のなかで特定の分野において主要に話される言語はあるが、街では各民 族が堅固なコミュニティを形成していた。そのため自身の起源と密接に結びついた言語も 強力に保持され、また文化活動や図書館、雑誌、出版、学校の存在も言語の多様性を維持 する要素となっていた。例えばある協会が1872年に開いた語学学校ではフランス語、英 語、ドイツ語、ハンガリー語、ギリシャ語が教えられていた。また1863 年から1902年 にかけてトリエステには560タイトルもの定期刊行物が出版されており、その内訳はイタ
リア語83.7%、スラヴ語5.9%、ドイツ語5.6%、ギリシャ語2.6%、フランス語1.1%、残
りの 1.1%はラテン語、スペイン語、バイリンガル、多言語併用となっている244。仕事上 の必要性からかエットレ・シュミッツもイタリア語とフランス語の新聞を6誌ほど講読し ていた245。マルセイユ育ちの妻との手紙がフランス語でなされることもあり246、また戦時 中は検閲での遅延を回避するために妻との連絡がドイツ語になることもあった247。 こうした多様な言語状況によってトリエステでは言語教育も進んでいた。オーストリア
242 オーストリア・ハプスブルク帝国の縮図とも呼べるトリエステでは、帝国支配下での歴史 的・経済的存在意義とイタリアへの帰属を求めるがためにその存在意義から逃れようとする相 克も街を特徴づける。(Ara/Magris, op.cit., p.14.)
243 “Se Trieste è una frontiera, [...] è una striscia che divide e collega, un taglio aspro come una ferita che stenta a rimarginarsi, una zona di nessuno, un territorio misto, i cui abitanti sentono spesso di non appartenere veramente ad alcuna patria ben definita o almeno di non appartenerle con quella ovvia certezza con la quale ci si identifica, di solito, col proprio paese.” (Ara/Magris, op.cit., p.192.)
244 Ara/Magris, op.cit., p.10.
245 la Domenica Letteraria, la Nuova Antologia, la Domenica del Fracassa, Le Figaro, Le Tempsがあげられる。(Gatt-Rutter, op.cit., p.105.)
246 Gatt-Rutter, op.cit., p.271.
247 Gatt-Rutter, op.cit., p.413.