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カルテットに潜在する殺し

『ある人生』の物語の展開における中心的カルテットは主人公を主体とするエロスによ って形成されているが、アルフォンソは自身の物語の主体として結末を語る声を与えられ ていない。アルフォンソを疎外する形で形成され達成される、他者の欲望の三角形の要請 によって彼は自殺へと追いやられ、その方法と様子、過程が読者に詳細に開示されること はない。彼が自殺を遂げたことを示すのは、結末で提示される事務的な書面によるのみで ある。手紙は務めていたマッレル商会から公証人に宛てられたもので、ガスによる自殺で あることと財産分与についての内容が短く記されているだけであり、結末において主人公 の声は抹殺されている。

他の2作品と比べて無力な主人公が自殺を設定される理由を、カルテットから消失する 理由を検討するため、まず補完者と媒介者が直線的欲望の達成のために消される理由を考 えると、それは欲望の主体が自己の欲望の正統性を主張するためである。直線的欲望とい

うのは、欲望の主体とその対象の見せかけの関係である。他者の介在によって自分の欲望 が成立していること、すなわち「自分たちの欲望を他者から借用」していることを認めず、

「自己自身であろうとする欲望と混同」することで表れる表面的な自己と欲望の関係であ る。それゆえ媒介は「正統な野心を妨げる」「不都合な第三者」となる。そこで主体は対 象を求めるゆえの模倣の意図を隠蔽し、自分の欲望が模倣による複製ではないことを主張 することで、主体は自身の欲望を保存・保護し、「欲望の正統性」を主張する68

自身の欲望が正統である、つまり複製ではなく本物であると主張する。「本物である

(authentic)」ことは元々死と破壊が絡む概念である。ギリシャ語起源をたどるとそのも

とにあるのは「自身から成ること」であり、派生して「所有者」「作者」「専制君主」「最 高権力者」「罪人」「殺人犯」「自身の殺害者」「自殺者」、その動詞は「対象に対して全面 的な力を持つ」「殺人を犯す」ことを意味する69

主体が自身の欲望の正統性を主張し自身を「本物」だとする際には、本物だと主張するこ とで引き起こされる、なんらかの他者あるいは自身に対する力の行使あるいは殺しが行わ れる可能性を秘めている。

殺しの可能性を実現するきっかけとなるのは憎悪を始めとする悪意だと考えられる。

「対象への高揚は、実は媒体への高揚である。内的媒介にあっては、その高揚が媒体それ 自身によってぶちこわされてしまう。なぜなら、媒体が、対象を欲望し、あるいはおそら

く対象を所有しているからだ。手本

モ デ ル

によって見すくめられた見習い手は、欲望達成をさま

たげるメカニックな障害のなかに、手本

モ デ ル

が彼に邪悪な意志の証拠をつきつけていると見ざ

るを得ない。こうした見習い手は、自分を手本

モ デ ル

の忠実な進化であると公言するどころか、

媒介のつながりを拒否したいとのみ思う。けれどもこの結びつきはかつて以上に強固なも のである。なぜなら、媒体の表面的な敵意も、その幻惑力を縮小するどころか、むしろそ れを増大させることにのみ役立つからである。欲望する主体は、自分が見習おうとする媒 体が彼を自分の弟子として遇するにはあまりにも自己を高しとしていると確信する。こう

して欲望する主体は手本

モ デ ル

にたいして、最も従順な敬意と最も強烈な恨みという二つの相反 するものの結合によって作り出された胸をひきさくばかりの悲痛な感情を抱くのである。

68 ジラール:1971, p.12.

69 Tagliapietra:2012, p.35.

われわれが憎悪、、

(haine)と呼ぶのはまさにこの感情である。」70

媒介者は欲望が潰えない限り、つねに主体に対して欲望の阻害者として立ち現れる。「き っかけさえあれば、そして外部からこれを引き止める力さえなければ、いつでも不正、、

をし ようとする傾向のある人を、われわれは悪人とよぶ。(中略)このような人物は自分の身 体の中に現象している生きんとする意志を肯定するだけではなく、肯定を進めていくうち に、他の個体の中に現象している意志をも否定するところにまで行き着く、ということを これは意味している。このことは、彼が他の個体の意志を自分の意志に奉仕させるという 形で現れ、他の個体が自分の意志の努力に歯向かってくる場合には、他の個体の存在を抹 殺しようとするという形で現れもする。」71

欲望の主体によって形成される三角形にはつねに殺しの可能性が潜んでいる。主体が自 身の欲望を他者からの侵害から守り、その正統性を主張し、媒介者から欲望の主権を回復 する傾向を持っているとすると、カルテットの中の誰かがつねに死ぬ、あるいは消えるの は必然的な展開と言える。補完者の場合も同様に、主体の欲望の正統性を崩す可能性を持 っているため、障害として認識される。媒介者と比べるとあからさまな障害意識=敵対関 係はないが、補完者は欲望の対象を補完する。それは完璧なはずの対象に欠如があること を暴露し、つまり欲望の対象が偽であることを示し、欲望による幻想に取り巻かれている 主体を現実に引き戻す可能性を持っている。それゆえ補完者も主体が信じるところの欲望 を危険に曝す可能性を持つ存在と言え、直線的欲望の達成のためには排除されるべき存在 となる。

アルフォンソも主体としてカルテットを形成していたが、同時にグラッリとマカリオと いう二人の主体の欲望が形成する三角形の媒介者となり排除された。それによりアルフォ ンソのカルテットが他者による欲望の三角形の勢力に対抗できるほど強くなかったこと が示されていると考えると、アルフォンソのカルテットの背後に、別の支配的なカルテッ トを想定できる。その支配的なカルテットはしかし、先にアルフォンソを排除した二人に よるものではない。『ある人生』において最も強力な欲望の三角形を形成するのはグラッ リとマカリオではなく、アンネッタである。彼女は虚栄心が強くそのことをよく自覚して いる人物として描かれているが、アルフォンソの虚栄心は街に来てから刺激をうけ意識的 になる程度の強さで、アンネッタの虚栄心と比べると圧倒的に弱い。それはアンネッタの 欲望がアルフォンソよりも強いことを意味する。各人の欲望の運動を決めるのは、ショー ペンハウアーによると三つの要素で、人間の基本的な倫理的衝動を規定する「エゴイズム」

70 ジラール、前掲書, p.11.

71 ショーペンハウアー:2004, III pp.125-126.

「悪意」「同情」である。

一般に、人間の行為の根本衝動は、三種類しかない。およそ考えうるすべて の動機は、つぎにあげる三種類の衝動に呼びおこされることによってしか生 じえない。 

a  自分自身の快を欲するエゴイズム(これは、とどまるところを知らない)。 

b  他者の不快を欲する悪意(極度の残忍さにいたる)。 

c  他者の快を欲する同情(高潔と宏量にいたる)。72

ショーペンハウアーによると、人間が他者に直接的に関与する機会というのはかなり限定 されている。人間は、他者の不足・欠乏・必要から起こる苦痛や苦悩といったものに対し て積極的また直接的に関与するものであり、他人の幸福・満足・享楽に対しては消極的に しか関与しない。それは幸福が単なる苦痛の解消であり、幸福で満足している人間は消極 的状態にあるとし、苦痛・不足・困窮の不在が無関心を引き起こすからとしている。たと え他人の幸福に対して反応することがあったとしても、それはあくまでそれら他人がそれ まで感じてきていた苦悩から解放されたことに対する二次的な反応であり、あるいは幸福 な状態の人間に反応しているのではなく、相手が家族や親族、友人、恋人など自分の愛情 の対象となっているから引き起こされる反応である。人間の活動を呼び起こすのは不足・

必要・願望・退屈等から引き起こされる苦悩、負のエネルギーであり、満足と幸福という のは自身を無為にさせ怠惰な休息状態を引き起こす73。「人間の、倫理にかんする一つの根 本衝動、つまりエゴイズムと悪意と同情とは、それぞれの人間においてまったくべつの、

信じられぬほど異なった状況のなかにある。そして、この異なった状況に応じてさまざま な動機が各人に作用し、行動が生じる。エゴイスティックな性格にたいしては、エゴイス ティックな動機しか力をもたないだろうし、そこでは同情に語りかける動機も、悪意に語 りかける動機も、功を奏しないであろう。つまりこのような性格の人は、敵に復讐するた めにも、友人を助けるためにも、自分の利害を犠牲にすることはないであろう。また、悪 意の動機にひどく敏感な性格の人は、しばしば他人を傷つけるためには自分の大きな損害 もいとわないだろう。つまり、他人の苦悩をひきおこすことに、それとおなじくらい大き い自分自身の苦悩などものの数でないほどの楽しみを見出す性格の人々がいるのである。

(中略)この性格の人たちは、相手にあたえるのとおなじ大きさの傷害をこうむることが

72 ショーペンハウアー:1973, p.325.

73 ショーペンハウアー、同書、pp.325-327.