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誠実と欲望:自己回帰と同語反復

第二章 誠実と欲望

2.4. 誠実と欲望:自己回帰と同語反復

『よくできた冗談』で異なる認識間の境界侵犯から発生する「文学の価値」という問い は、何を「真」の文学と定義づけるかという問題も含んでいる。「文学的価値と商品的価 値を峻別する、現在まで続く文学理解は(中略)十九世紀に入ってヨーロッパ各国の識字 率が上昇し、読者層が拡大していくにつれ、十八世紀後半まで続いたパトロン制のもとで エリートを対象として文筆活動に勤しんでいた文学者たちが、無教養の大衆を相手に市場 に身を投じた作家たちとの競争を余儀なくされ(中略)教養あるエリートを相手にするか、

大衆を相手にするか、そんな選択に迫られたのである。そして広大な市場を形成する大衆 読者の支持を獲得しえた同業者の華々しい成功を前に、少数のエリートを相手に書き続け る、または一般大衆に歓迎されるような作品がどうにも書けないためエリートを相手にし か書くしかなかった作家たち、またその読者が、自らが携わる「純文学」の価値を「大衆 文学」という商品としての価値から引き離し、区別する必要性を感じ始めたのである。も ちろん、これは単なる嫉妬ではない。文学市場の発達によって出現することになった「売 れる文学」と「売れない文学」との乖離に直面し、自分たちの「売れない文学」の価値を 再確認する必要があったのである。(中略)真の文学は「売れる文学」に体現されるブル ジョワ社会への批判でなければならないと信じる作家も登場した。二十世紀初頭、ジェイ ムズ・ジョイスを筆頭とするモダニズムの作家たちは(中略)挑発的な「売れない文学」

にこそ真に価値あるものとし、売れること自体に懐疑的な、負の価値を与えた。(中略)

モダニズムの時代においては、売れ行きが伸びること自体、作品が既存の社会や芸術に妥 協した二流の駄作でしかないことの証だとなると―新たな問題が生じる。すなわち「売れ ない文学」と「売れない駄作」、真の文学者と似非文学者をどう区別するのか。156」これ は十九世紀の批評家たちが区別を試みた科学的真実と詩的真実の議論の流れとも繋がり

157、詩的価値と商品価値を問題とする「文学はいったいいくらなのか」という問いが立て

156 エメリック、前掲書、pp.90-91.

157 エイブラムスによると、科学的真実は外部世界と対応し、詩的真実は詩人と対応するとい う区別を試みていた。宗教的道徳的価値を表した「誠実」は、敬虔な詩の議論が宗教的倫理か ら文学批評へと移行した際に、道徳的意義を内包した審美的基準として用いられるようになる。

道徳的側面が落ちると「誠実」は限りなく近似的に「自然な」「自然発生的な」という意味で

られるのは、真正な文学の定義が曖昧になったことを表す。作家たちが困難を感じるのは 自身の作品が自身を作家のカテゴリーに分類することに繋がるのに、二分化された価値が 反比例しなければならないとしたからだ。「質より量」の貨幣による価値の数値化によっ て「量より質」の文学―本という「現象」は「本質」としてイメージされる文学作品に具 体的な形を与え、その価値を顕在化させるだけである―を測る。

文学が直面したように、本質を問うことは存在を問う意味で「誠実」につながる。「真」

と「偽」という価値の付与による見極めではなく158、「誠実」な本質を問い「誠実」な答 えを得るためには、問う自己も「誠実」であることが求められる。「誠実」を問う自己は 自らの「誠実さ」を求められ、常に自己回帰する。

実のところ、危険に曝されている唯一の生は、誠実さにおいて、つねにそれ 自体である。(中略)誠実であることは、いずれにせよ自己の肯定という立派 な態度を想定するあの勇気の即時性を始めとし、つまり、なんらかの方法で、

自己に回帰することである。活動、態度、行為、危うさ、義務を前提とし、

個人の同一性を象徴する空間を拡張するに伴い、自己を認識したり時間の中 で自己を捉えたりする能力をも表す。すなわち、自己が在りたいと望む姿に 成る能力のことである。159 

例えばエミリオの同語反復的な欲望において、「自己が在りたいと望む姿」に成った瞬 間は、恋人アンジョリーナと情緒的調和を得られた「誠実な」瞬間である。駆け引きなく、

用いられるようになる。その過程で、事実の表現であった歴史が自然科学に発展し、真実の表 現であった詩の座を奪うことになる。ロマン主義的な想像力で明らかになる詩的な宇宙と科学 の分析的説明によって示される世界とに真実が分裂したように読まれ、詩が真実と事実との位 置関係について功利主義によって弾劾された時代でもあった。それ以前は詩的観察と科学的観 察は相互排他的なものではなかったという。(エイブラムス:1976)

158 「真」と「偽」のどちらともそれを表現する主体の能力によるものであり、本質を表現す るものではない。プラトン『ヒッピアス(小)』によると真実の人と偽の人はどちらとも対極 にある知者であり、ソクラテスの引用にあるように、優れた能力を双方持っているという点で、

真実の人と偽りの人のあいだで、真実だからという理由で、偽りの人が真実の人より劣るとい うことはない。また偽りを言う能力のある人が偽りの人だとすると、真実の人で偽る能力のあ る人も偽りの人となり、「真実の人も偽りの人も同じ人間」となる。(プラトン:2005)

159 “Infatti, l’unica vita in gioco, nella sincerità, è sempre la propria. [...] Essere sinceri, a partire dall’immediatezza di quel coraggio che prevede comunque l’attitudine gloriosa della stima di sé e, quindi, in qualche modo, un ritorno su se stessi, presuppone un lavoro, un agire, un fare, un rischio e un impegno che, con l’ampliarsi dell spazio simbolico

dell’identità personale, significheranno anche la capacità di conoscersi e di costruirsi nel tempo, ovvero di diventare quella persona che vogliamo essere.” (Tagliapietra,op.cit., pp.49-50.)

自尊心と虚栄心が一瞬姿を消した、自身が自己に最も直接的な状態である。しかし「誠実 さ」は同時に「欲望に忠実である」ことを求め、欠如と補綴という欲望の運動によって補 綴が増加すればするほど、外界との直接的な状態の維持は困難になる。欲望による補綴の くり返しは嘘の起源でもあり、嘘・偽りの起源は、闘いや狩りで得た戦利品・略奪物で、

与えられた以上のもの、より多くを欲することである160。他者よりも多くを得るために、

情報を操作することで、真を伝えず偽を伝えることで自らの取り分を増やす計略から発生 し161、嘘は二重性を生み出す。一方で「誠実」は、意識的であれ無意識的であれ一致しな い二重性を認めず、隠れていないあるがままの状態を求める。欲望に忠実であることを求 めると同時に、欲望が引き起こしうる嘘の二重性を拒否する。他者との関係性の中で、「自 己が在りたいと望む姿」を起点また終点とする誠実さの自己回帰の運動と、欲望の同語反 復的運動は一致すると同時に相反する可能性を内包し、それが他者との関係において直接 的な、誠実な瞬間の獲得を困難にする。

ズヴェーヴォの主人公に認められる「誠実」と「欲望」の運動は、欲望に対する忠実さ、

言行不一致の行動、欲望の保存による最後の遅延という性質を形成する。その性質によっ て、他者との関係性においては自己との直接性の獲得を単純化するために、自身の欲望の 達成に関わる人間を極力少なく保つという手段を選択することに繋がり、ズヴェーヴォの カルテットにおいて排除の運動を生む。

160 Tagliapietra, op.cit., p.62.

161プラトンは狡智によって騙すような行為については基本的に否定的である。例えば幅広い狩 猟の概念の中でも、正しい市民にとって肯定される狩猟と否定される狩猟がある。前者は馬・

犬・自らの身体を使って地上の四足獣を追う場合で、それは「苦労をものともしない精神の勝 利」と肉体の極限的な鍛錬によって得られると考えられるからである。反対に後者は四足獣以 外、魚や鳥などの狩りの場合で、「網や罠で獣の野蛮な力に打ち勝つ」ものだからである。プ ラトンは「否定的な狩や漁のうちに、釣り針や梁や罠などを用いて魚や動物を騙すという欺瞞 性、策略性を嗅ぎ取っていた。」(山本:2012)。