第三章 他者の肖像
3.3. 他者の肖像
アギオスは想像の火星人の言葉がわからないと言う。つまり彼が火星人たちを視覚認識で把 握する際、得る情報は彼らが何らかを話している、という口の動きや表情に限定される。聴覚 的知覚に焦点をあてると、アギオスには理解できない、意味をなさない音という情報も加えら れる。アギオスは人間の生活を象徴する地球を離れ、何もない空間のなかでまったく理解の及 ばない状況にいることになる。地球から火星に向かうアギオスは何に向かっているのか。火星 を火星人に代表される他者の象徴と捉え、他者との関係性における自己の把握を不可能にする 他者の正体を検討する。
辺に置かれたターミナル駅は、鉄道を四方から迎え入れ、そしてさらにそれを都市内外へと導 く。(中略)ターミナル駅は、水門のような役割を果たしている。その働きは、都市の交通空 間と鉄道の交通空間という、全く異なる種類の交通と交通空間を媒介することである。一方で は駅は、その擬古典風な石造建築で都市の一部となり、他方その駅構内ホールの鉄筋構造で、
鉄道の「工業的」領域の全機能を果たしている。水門としての駅の機能は、この二つの顔で、
その建築的表現を表明している。町から入口の建物を通り、それから駅構内ホールにおもむく 旅客は、質的に違うこの二つの空間を通過しながら、空間の拡張現象、ないしはさらに空間の 工業化現象を体験する。旅客は―十九世紀の中頃にはまだ比較的親しみのあった―町の都会的 空間を離れて、駅の空間を通ることで、鉄道の工業的空間に馴染まされるのだ。駅に到着した 客も、同様にこの空間に馴染む過程を体験する。鉄道旅行の果てしない無定形の空間は、列車 が入ってくる駅構内ホールの中で再び最初の限定を受け、そしてそれは出入口の建物の伝統的 石造建築の中で、さらに縮小する。こうして町の都会的空間へと継続する推移が、できあがる のである。(中略)一八六〇年代に、(中略)入口ホールと構内のホールの間が直接結びつけら れた。入口ホールが、待合室の水門的機能と、本来は入口ホールと待合室とを相互に結びつけ ていた横断道路(英語でmidway)の水門的機能を、受け継いだ。入口ホールが、「自動調整 の交通中枢としての働きをする広大なホール(コンコース)となる」。(中略)「中央コースコ ン コ ー ス」 になった入口ホールを通り、構内ホールへと引き続き「歩いてゆくことで」、空間の変化に対 処できるようになったということは、都市空間と鉄道空間との相互近接の証左でもある。」(シ ヴェルブシュ、前掲書、pp.214-217.)
近代技術の発展によって、処理能力を超えた視覚情報がもたらされ、自身の座標の把握が困 難になる一方で、想像力の視力は遠方の情報をより具体的に知覚するようになった。産業革命 の結果、技術の進歩にともなって距離や空間を克服し、現実が空想を追い越した。アギオス氏 は夢の中で鉄道によって火星に向かう。火星ははるか遠方の惑星である。だからこそ地点と地 点の距離、遠さを解消する鉄道が必要となる。
近代において描かれる火星は、エイリアンという他者性の比喩的側面が強い。隠喩としての エイリアンは社会における異質な存在を表し、同時に社会において疎外されていない人々の
「普通」を浮かび上がらせる存在である222。アギオス氏の想像する火星人は、彼の言語を解す る一方で彼が彼らの言語を解することができない相手として描かれている。『つかのまセンチ メンタル・ジャーニー』は決してウェルズやバローズに代表されるようなSF作品ではないが、
火星人はエイリアンとして異質さを、理解できない他者を表している。
アギオス氏の火星は鉄道の延長線上に存在する。近代の技術の結晶、力の証明のような巨大 な鉄のかたまりである鉄道は、見るものを圧倒するような存在感で地表にリズムを刻み煙をた なびかせて地上を走る。その力強さはつねに利益のみを生み出すものではなく、時にその破壊 力をみせつける。1895 年にフランスのモンパルナス駅で駅舎を突き破り機関車が下の広場に 落下した事故は、ひとびとを恐れおののかせた。走る巨大な鉄の塊がときに凶器になりうるこ とを印象づけた事故だった。アギオス氏も列車の中で死を旅行の先にみる。
アギオス氏はまたもやフルスピードで走る汽車から人間の辿り着く先を眺めてい るように思えた、そして結局生ける者すべてが共有しているものを見るに至るのだ。
223
ドカーン!惑星に着いたのか?
まさに列車は停車することで、自身を破壊したいかのようだった。224
アギオス氏の向かう先には死と破壊のイメージがある。火星は戦闘と農耕の神だが、戦闘にお いては武器として、農耕においては農具として、鉄は火星のイメージと親しい。鉄は人間の生 活を育み時に命を奪う力ともなり、人間の生と密接に関わっている。近代には鉄は地表を多い
222小谷:2004参照のこと。
223 “al signor Aghios parve di trovarsi di nuovo a guardare sul destino umano da un treno lanciato a piena velocità e di non arrivar a vederne altro che quella parte commune a tutti i mortali.” (RS, p.577.)
224 “Uno schianto! Si era arrivati al pianeta?
Infatti il treno fermandosi, sembrava volesse distruggere se stesso.” (RS, p.599.)
つくし、人間の移動能力を補う強大な力となった。
より高度な文明をもつ人類をのせた未来の列車なら伸縮自在だっただろう、必要に 応じて変化し、またそのために停車せずともよい。どの車両にもきっと秘められて いるとてつもない可能性の数々。ボタンに触れたら席が増殖、というような。225
以上は、車両の等級を間違った農民一家を追い出そうとする車掌をみて、主人公アギオス氏の 頭に浮かんだ未来の列車の姿の一例である。都合良く空間を伸縮させる機能を想像するアギオ ス氏は、ミラノからトリエステへの列車で様々な記憶や思考に思いをめぐらせ、その時空を超 えた移動距離は現実の旅行のそれよりもはるかに長い。移動中にふと思考の世界に浸ることを アギオス氏は「つかのまの旅に挟み込まれた遠い旅226」と言う。時間と距離の対比であり、四 次元的227な思考とも言えるだろう。ロンドン出張の記憶、画家だった亡き友人との小旅行の思 い出、アギオスという自分の姓のギリシャ起源についての思索―いかにイタリアで自身がギリ シャ起源の姓を名乗ることになったのか―主人公であるひとりの老人に内在する、一個人が生 を受け人生を送る現在までに要した時間とそれまでの移動距離の壮大さを想像することがで きる。ギリシャ起源の姓を持つにいたった出自の記憶、生まれてから現在までの彼自身の記憶、
そしてこれから起こるだろう未来の記憶は、遠く古いギリシャの地から現在地イタリアを経由 し、はるか想像の世界までの旅を可能にした。
想像の翼を強固にして精神的な移動能力を拡大させる契機となったのは近代テクノロジー である。鉄道、テレグラフ、無線等、物理的な距離を解消した当時発展のさなかにあったテク ノロジーは、人間が動物として持ち得る能力を飛躍させた。それまで数日、数ヶ月を要してい たような遠い場所との通信、交通手段が充実し、人間の全能感や能力拡大に対するおごりを助 長しながらもテクノロジーという新しい体験に対する不安を生み出し、人々の空間と時間の生
225 “Il treno futuro che avrebbe trasportata un’umanità più evoluta sarebbe stato allungabile come ne sarebbe stato di bisogno e senza per questo aver bisogno di
arrestarlo.Ogni vagone avrebbe comportato delle enormi possibilità. Si tocca un bottone ed i posti si moltiplicano.”(RS, pp.517-518.)
226 “un viaggio lontano inserito nel corto viaggio” (RS, p.530.)
227 アインシュタインの特殊相対性理論に表される四次元。アインシュタインは1905年に特殊 相対性理論を、1915-1916年に一般相対性理論を発表している。アインシュタインの四次元を もととしたズヴェーヴォのテクストの分析の試みはR.Cepach ,“e=mc² - Emozione uguale memoria per tempo al quadrato: il sospetto della relativa nella narrativa dell'ultimo Svevo”
(in Interprétations de la pensée du soupçon au tournant du XIXe siècle, Lectures italiennes de Nietzsche, Freud, Marx (2013))を参照のこと。ズヴェーヴォの晩年の作品にみられるキル ケゴール的記憶を分析し、ズヴェーヴォの語りの時間的側面をアインシュタインの四次元的解 釈により考察している。
き方に変化をもたらした228。人間が自身の潜在能力の過信を錯覚し同時に恐れをも抱かせるテ クノロジーは小説にも影響を与え、新しい力に対する危惧や警告、畏敬や高揚感、反動からの ロマンチシズムへの回帰を経て229、現在を映す鏡としての未来世界の想像を可能にし、ジュー ル・ヴェルヌやH・G・ウェルズといったSFジャンルの道を拓く作家たちを生み出す230。
228 「鉄道(また同時並行的に照明やその他の用途向け電気エネルギーや迅速な遠距離通信向 けテレグラフも)が導入された国ではどこでも、一般的な反応として、特に初期の新手段受け 入れたてのころは、ショック反応がみられた。(中略)熱狂、新発見の技術的経済的パワーに 対する自己肯定感、人間が自然を支配し多くの社会悪を根絶することができるという夢想的信 頼、といった表出がせめぎあったかと思えばに苦境にたち、はたまた新しい手段が自らもたら した強い恐怖、経験の新たな次元(特に時間と空間について)に対する不安感といった反応も あげられる。イメージとしては、病理的気質の実質的根本的変化によって、高速で騒々しい機 械構造物が人間の身体内部の生体バランスと感覚システムに支障をきたす可能性がある、また は自然を害しあるいはその力で人間の操作指揮能力を逸脱し得る、といったものが根強く広ま っていた。」(Ceserani:2002, pp.22-23.)
229文学にみられる鉄道のイメージについては前掲書Treni di cartaが詳しい。鉄道が導入され た当初は、鉄道の存在そのものが近代を象徴し、自然とは相容れないことから怪物のような恐 ろしさを与え、また昔の移動手段へのノスタルジーを誘発するものであったが、鉄道が普及し 一般的になると、状況設定など小説の筋立てに利用され、たとえばシャーロック・ホームズに みられるようなミステリーもののトリックに使われるようになった。ズヴェーヴォの1890年 の作品、「ベルポッジョ通りの殺人」(L’assassinio di via Belpoggio)の主人公も犯行後に駅へ と向かい、鉄道で逃げるかどうか逡巡する。
230 SFの開祖ヴェルヌとSFの父ウェルズ、コナン・ドイルを中心に簡単な年表を参考として あげる。
1828 ジュール・ヴェルヌ誕生
1859 アーサー・コナン・ドイル誕生
1861 イタロ・ズヴェーヴォ誕生
1863 ヴェルヌ『気球にのって五週間』
1864 ヴェルヌ『地底旅行』
1866 H・G・ウェルズ誕生
1870 ヴェルヌ『海底二万マイル』
1873 ヴェルヌ『八十日間世界一周』
1887 ドイル『緋色の研究』〈ビートンズ・クリスマス・マニュアル〉誌に掲載
1888 猟奇殺人事件:切り裂きジャック
1890 ドイル『四つの署名』
1892 ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』
1894 ドイル『シャーロック・ホームズの回想』
キプリング『ジャングル・ブック』
1895 ウェルズ『タイム・マシン』
ヴェルヌ『動く人工島』
レントゲン、X線を発見
リュミエール兄弟がシネマトグラフを上映(パリ)
1896 ウェルズ『モロー博士の島』
ヴェルヌ『悪魔の発明』
1897 ウェルズ『透明人間』
クルト・ラスヴィッツ『両惑星感物語』(火星人と地球人の対立)
ブラウン、ブラウン管を発明
1898 ウェルズ『宇宙戦争』(タコのような火星人が初めて描かれる)