• 検索結果がありません。

通     し

ドキュメント内 『宗教研究』199号(42巻4輯) (ページ 95-104)

で  も  (498) 

以上が キュ モ ノ が当初使用出来た史料の主要な ものであった︒これ等のうち︑確実にミトラ教 に関するものは︑   

れるグロットがあった︑と云われるが︑現在の ところ確認されていない︒碑文のギリシア語部分 によると︑ 一 ・ ト ︵ 宜朴 ︒ 

日高ぎの将軍にして︑マガフェル ノス の子サガ り オスはミトラス神のために マ ゴス神官として 犠牲を奉げた︒﹂アラ 

ム語部分では︑人名がそれぞれ目下︶ 巾勾之 ・のの オ となっている︒問題は碑文の後半にあるの ヨ が㎎ の白のの︵ ヨ の的の由 0  の ア 

カリスト︑直訳すれば︑ マ ︒コスする︶ 目 〜 臼 ︵ 刑と それに対応する目つ目目塞 リド す方叫の意味に ある︒もう一つの 訳 

てし 

方として︑﹁ ︑︑ ︑トラス神のために マ ゴス 神 官 になる﹂と云 う のが提案されているからであ る 0 キュ モ ノ ︑ベン クツ 

刊オ 

ン︵㏄の コ的 ︵の 0 さ等は後考をとり︑この 碑 文は生れつきの祭司階級︵ マ ︐コス神官︶と素人 との区別がある民族宗教   

源が 

︑入信によって救済される密儀型の宗教 へと変換したことを示すものであるから︑ミトラ 教 成立 更 にとってきわめ 

  

解釈に賛成していたノック︵ ト ・ ロ ・ ア on ガ ︶が 前 者の解釈に移ると︑多く 

ばの研究者︵フェルマーゼレン︵ せの ︵ヨロののⅠの コ ︶︑ヴィカンデル︑ドンネル︵ 目 ・ し 0 コお こ︑ レ| リック︵ ミ ・ 力 0‑ ︶ 博 ︶ 等 ︶   がそれに従った︒この解釈によれば︑奉納者は 祭司階級の出身であり︑ 必 みずしも密儀的性格の 行為をしたとは考え 

97   O"9) 

( 

) カ 

カッパドキアのⅡ  arp  絡  ㏄︵  巨  ︵ ぎ  Ⅰリヨ  コ の  ざ  ︶の  麻妬 

     ラ 教の小アジア起源 説 にとって ︑ 最も主要な 図 像の成立についてのこの失敗は キ スモン説にとっ て 致命的となった︒ 

  

ラス 神 ﹂の図像形成期の作品と考え︑ペルガモン 派の彫刻家がミトラ教の思想をかかる図像に表 わしたと考え︑年代 ︵ ハ 2 Ⅰ︶ を 前二世紀︵ l. ︶とした︒この鑑定は現在では︑ 写 真の不鮮明から起った完全な誤解であることが 判明している︒ ミト  ︵ ヲ ︶ ブリュ ギアののがづ胆︶㏄︵所在のミトラス 神 胸像の碑文に ‑5 2  ︶ 叫臼 ごの 目 〜︵ オ ︵おが出るが︑ミトラ ス 神の称号として 

0 目付 由 0 のは︑ミトラ教の碑文にも 砂数 

カ︑ざ︑ 

ある ‑6 2 ︶ 上山︵ イ ︶のような非ミトラ教史料にも出るので ︑性格を判定するこ ︵ 幻 @ とはむ づ かしい︒ヴィカンデルは後者の︑ウィ か は前者のカテゴリーに入れる︒年代 臣 ・ ロ ・ q ﹁ へ お牢︒ 

︵ ワ ︶ ピ シディアの す で 曲 ︵︵の︵ い ㏄ ヱ巴 所在の浮彫 ‑8‑2 ベル︵の・㏄ 臼コの 報告に甚いて︑キュモ ノ は こ れを﹁牛を屠る ミト 

られない︒むしろ︵ チ ︶と併せ考えるべきもので ある︒ 

現在までに︑明白なミトラ教史料に て ︒コス神官 が 現われる例は︑ドゥーラ・ エ ウロ ポス ︵ し臣 ︵ ギ 口口︵ 0 で け の︶の ︑︑︑ト  ラス神殿出土の三件のみである︒ ︵ー︶ 3  O ウィルは ミト ‑ フ教とマ ︒コス神官は一般的関係は何もないと云う 立場から︑ドゥー ラ 

・ エタロポス の例はメソポタミアに近い地理上の 位置から来る特殊なものにすぎない︑と主張し たが︑後述の如く ︑  ミトラ教成立史を小アジアに限らず︑シリアに つ いてもその可能性を探るとすれば︑ドゥーラ・ エ ウロ ポス の史料を 

重視しないわけにほいかない︒ノックは ︑ミト 

‑  フ教  成立 更 にとって マ ︒コス 的 信仰︵ 緑 ag 守コ 〜の 日 ︶ から 非マ ︒コス 的 信仰  への移行段階が大切であると云う︒そうとすれば 審扇穿いの 碑文は︑それがど う 解釈されるに せよ︑ミトラス神と  マコス神官とが一緒に出る稀な例として︑ドゥー ラ ・エ タロポス 及びティ リダ テス 王 側近の例︵ チ ︶と共に考えるわ せ 

るべきものであろう︒ 

尚 ︑同曲︵ as 下がの碑文の年代は書体の上から︑ 前 三世紀と紀元元年前後とが与えられているが︑ 歴史的には後者の 

方が可能性がある︒ 

以上が キュ モ ノ によって論じられた史料のすべて である︒更に︑その後増加した史料を列挙する と 次のようなもの 

がある︒ 

︵ ョ ︶コマ ゲネ 王国内の紺 ヨ o の pdp から︑ ミト ‑ 

  

ス一世のもので︑ 

︵ イ ︶と全く同じ性格の史料である︒ 

︵ タ ︶コマゲ不王国の レ Ⅰき日のぎで︑︵ イ ︶︵ ョ ︶ の アンティオクス一世の父ミトリ ダ テス・カリ ニコ ス の霊廟が 発 ︵㏄ @ 見され︑そこからアンティオクス一世の奉納に よる︵ イ ︶︵ ョ ︶と同性格の碑文とミトラス 神 浮彫が 出た︒ 

︵ レ ︶リュディアのの︒ ざづオ ︒コ地方出土の ラテ  ン語 碑文に ‑4 3  ︶ ﹁神聖不滅の神ミトラス﹂が出る︒ 年 代 不詳であるが︑ 

薄 )   98 

用語法からミトラ教のものであることが明白で ある︒﹁神聖なる﹂ 終乙巨 のはイタリア や ドナウ 川流域のミトラ教 碑  丈 に多い称号なので︑この碑文奉納者は西方か 

︐ 

り 小アジア 

ヘ 

来たのであろう︒ 

︵ 

ソ 

︶キ 

リキア の 

一 

小都市 レ怒 注さお︵中年の︵ ぎ  0 せ緩ガ ︶の祭壇ギリシア 

⁝ 

語 " @ 碑文こ 

ハ︒ 

@3 M. 

︑ 

アウ レり オス・セレウコス  が % 高下里ヰ 0 

の 

レコ 

の ヰ 

Fm 

︵ 

の 

口 〜庄田のに奉納し た ︑とある︒年代不詳であるが︑奉納者が自ら﹁ 祭司にして 父 ︵父は  信徒の セ 階級の最高位考の称号︶﹂と称している ことと併せて︑このミトラス神は︑ローマで 発 見されたオルフェウ  ス教的 ミトラ ス 中こ酷似する︒を @ 4  

︵ 

6‑3 両者の奉納者はそ れぞれ東方人と思われる人物であり︑かかる 史 料が キ リキア で発見  さとれたこは︑︵ リ ︶と共に 

︑ 

ミトラ教の当地と の 特別の っ ながりを想像させる︒ 

尚 ︑この町は前一世紀に建設され︑同一九年に ナコゆ きⅡ ヴ 目のの カエ サレアと命名されたが︑レコ のぶさ拐の語源は 

一説によると︑ミトラス神の最も知られた称号 

‑  ・ 

ドコせざ  円仁の︵ 巨コ 0% 

囹叶 

の︶ 

︐か 

り 

ぺル 

㍉ノ 

ア 

五 

% " 之麓 すの 

︵ 

さ︐に 由来すると  云われる︒︵ 

3  

︶ 

もしそうとすれば︑かかる早期に 

︑︑︑ 

トラ散用語がキリ キア で確認されることになる︒ 

︵ 

ッ ︶グルジアの レ 

〜 

日 az 田及び㏄︒ ふで 発見され  た王箇の銀器の装飾及 銘文︒ び 

O‑8‑3  

ラング︵い かコ岨 

︶ 

教授が 

︑︑ 

︑トラス 神  崇拝に関するものと記す 

︑ 

火の祭壇と向 いあぅ 馬の モチーフやし uz ヨシ 下 ︵︵大いなるミトラ︶ な る 人名が見える︵ 第  て 二世紀︶が︑これは恐らく︵二︶︵ ホ 

︶︵ 

ル ︶と回  じく︑ミトラス神と結びついた原始的マズダ 教 の 痕跡てあろう︒ 

  た 史料ハイ︶ ! 

︵ 

ヌ ︶の他はそれ以後︑小アジア 起 源説 のために︵ か 

し 

! ハツ 

り 

沖の史料が加わった︒後者のうち︑明瞭に ミト ラ 教のものは︵ ソり 

︵ 

レ ︶︑ローマ帝国のミトラ教 と 性格を異にするものは    びついていたにせよ︑或は単なる自然崇拝の祭 祀 であったにせよ︑原始 D 

げ的 

ミトラス 神 崇拝を示唆するものは︵ 力 

︶︵ 

ル 

︶︵ 

ッ ︶である︒     小アジア︑アルメニア︑グルジア︑キ リキア 

︵ 

即ち︑現在のトルコとグルジア両共和国︶に由来 するこれ等の全 史 9 

記述︵ ヌ ︶を全く無視したこと︑第四に︑キュモ ノ の ミトラ教起源説を小アジアだけに関するもの として単純化し︑ 小  ︵ 几 ︶ りに過大評価して︑直ちに他の史料の否定に向 っ たこと︑第三に︑ウィルが指摘する通り︑上述 の プルータルコスの  よって形成された︑と結論した︒ @ 何 ︶ この新説は︑ウィルが認めているように︑キュ モ ンが怪 祝した︑密儀としてのミトラス 神 信仰 と 国家的︑政治的 宗  教 としての東方のミトラ 神 信仰の間の差異を強 謝 した占で正しかった︒これなくしては︑ミトラ ス 神の変貌を正しく 

把握出来ない︒しかし︑ヴィカンデル説にも 重 大な欠点がある︒その第一は ︑ 小アジアの史料の 価値を打消すことに 

急 で︑自らのバルカン起源 説 について十分な論 証 をしなかったこと︑第二は ︑ ㌃ せ簿 〜 ta の浮彫が 否定されたことを 余  料を見る時︑キュモ ノ のミトラ教起源説は証拠 十分と看 徴 されるであろうか︒ミトラ教史料は全 一八件のうち︑五件 

︵碑文三件︑メダルと文献 各 一件︶が確実である が ︑神殿も主要なイコン群も史料から欠除した ままであるから︑ ︑︑︑ 

トラ教がこれ等の土地で繁栄した︑とは思われ 低い︒一方︑キュモ ノ の巧妙な解釈によって ︑ユ ニ ー ク な史料が集め  られ︑マズダ教の一派がローマ的ミトラ教へと 変貌 し 得たような雰囲気を示す証拠が存在するこ とも事実である︵ タ  ルソス の海賊の信仰︑Ⅱ㏄︵㏄のゴロの マゴス の碑文 ︑ポントスやグルジアの原始的マズダ 教 痕跡等︶ ︒しかし︑キュモ ノ  がぺ ルガモン派による﹁牛を屠るミトラス 神 ﹂ 像 の 創成の証拠とした︵の つ の︵︵ ドの 浮彫が全く否 足 されたことは︑ ︑︑︑ 

トラ教の中心的偶像の起源が分らなくなったこと を 意味し︑やがて一九五 年に現れたヴィ カン デル の新説へと 尊 び ‑ ㏄︶ くことになった︒彼の主張は︵ ソ ︶︵ レ ︶等の新し い 史料が出る前になされたことを考慮に入れても ︑かなり思い切った  もので︑上述の如き小アジアの史料のすべてが︑ く トラ 教 とは関係のないものであるとし︑ 小 アジ アは 東西のミトラス  神 崇拝の結接点ではなく︑逆に断絶の場所であ ると述べた︒イラン系のミトラ︵ミトレス︶ 神信 仰と ローマ帝国の ︑︑︑ 

トラス 神 信仰は全く別物で︑後者はバルカン 半 島でオルフェウス教の教義とサバジオス神の図像 とが結びつくことに 

(502)  100 

ドキュメント内 『宗教研究』199号(42巻4輯) (ページ 95-104)

関連したドキュメント