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彼  女

ドキュメント内 『宗教研究』199号(42巻4輯) (ページ 34-37)

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る ︒  ヤハウェに全かりき﹂︑﹁ヤハウェの目に善しとす るところを為せりしと︑ 申 台記 的 歴史家によっ て 批評せ 

これらの五等の時代には︑予言者達 や︑コ シ ア ヒズキ ヤ岡 王 に見る厳格な へ ひすき寸口︒ コ ︒芽の ずヨ由のほ 

っ たと考へられる︒彼等の時代にも︑なほ異教 信 仰が︵ 崇邱と 結びついて︶行はれてゐたのを 知 るのであ  と 結びついてるた 崇 邱は廃絶しなかったのであ る ︒その限り︑彼等は異教信仰を認容して ぬ た | 無論︑ヤハウェ信仰 

と 並んで異教信仰も亦 行 はれることを認容して ぬ た |と言 ふことが出来るであらう︒さらに︑ わ れわれは︑ ヒズキヤ 

がそれを打ち砕くまで︵ 列 三下︑一八 ノ 四︶ オ フ シ ユ タンが久しきに 亙 って拝まれてゐたことも 思ひ起すべきであら  イヱホ アシュ公利三丁八一二 ノ 二︶︑アマ ズヤ 公利 三下︑一四 ノ 三︶である︒ 

ア サ︵ 九 0 八| 八六八︶は神殿男娼を国から追ひ 出 し ︑先祖たちが造ったもろもろの偶像を除き︑ アシヱラ 像を切り 

倒してキドロンの谷で焼き捨てた︑ と伝 へられ てゐる︵ 列 三上︑一五 ノ 一二︑一三︶︒ただし︑ 彼 は崇 邱は除かなかっ 

たと舌口 ふ ︵ 列 三上︑一五 ノ 一四︶︒ 

  

︶︑アマ ズヤ ︵ 八 0 一|セ 七三︶の 諸王については・ 

ぃ づれも︑彼等が 崇 邱は除かず︑ために国民は引 き 続きそこで犠牲をささげ︑香をたいた︑ と述 ぺられてゐる︵ 列王 

上 ︑二一 フ 四三︒ 下 ︑一二 ノ三 ︒ 下 ︑一四 ノ 四︶︒ 

アサ︑ヨシャファト︑イェ ホ アシュ︑アマ スヤ の 諸王は︑たとへ中食 記的 歴史家によって﹁ここ ろ ヤハウェに全か 

りき﹂︑或は﹁ヤハウェの目に善しとするとこ ろを為せり﹂と批評されてゐるとは言へ︑彼等は い づれも︑異教信仰 

(436)  ろ ヤハウェに全かりき﹂と批評せられたものは︑ アサ︵ 列 三上︑一五 ノ 一一︶ ︑コ シ ャ ファト︵ 列 王土︑二二 ノ 四三︶ ︑     

イスラエル王朝時代の  或 

  

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"  批  無  う  さ 

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ア  心  ア  史  ザ  ヤ  ハ  家 

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々 ェ  た レ  稟  申  ホ、  ハ  教  命  ヤ  ベ  信  託  キ  ア  仲  酌  シ  ム 

@c   歴        泰  史  セ  ア 

住  家  デ  ビ   

35@  (437) 

宗教の 

上述の如く︑ユダ 国 諸王の場合は ︑ Ⅰヤハウェの 目 に悪しとするところを為せり﹂ ︑ ﹁ヤハウェの目に善しとすると 

研 

しからば︑ ユ ダ諸王の場合︑ ヒズキヤ︑コ シ ア は 除 列して・﹁ヤハウェの日に善しとするところ な おせり﹂︑﹁ ヤ︑ 

ウヱ の目に悪しとするところを為せりしの甲金 記 的 歴史家の批評は︑如何にしてなされたか︒ 恐 らくは︑ヤハウェ 信  仰と 異教信仰との併存の状態において︑ ヤ ハウ ヱ 信仰に重点が置かれ︑異教信仰がこれに附随す る 場合には︑﹁ヤハ  ウヱ の目に善しとするところを為せり﹂と批評せ られ︵この場合︑ ユ ダ中心主義がこの批評に 作 崩 してゐることは 無  論 のことである︶ ︑ ヤハウェ信仰よりも異教信仰 に 重点が移行したと考へられる場合に ︑ ﹁ ヤ ハウ ヱ 0 目に悪しとする  ところを為せりしと批評せられたものではない であらうか︒ 

ィスラエ ル国諸王に対する場合も︑ 申 台記 的 歴史 家の ︑ユダ中心主義と べリコ ミの︐ 目 0 口 0 ︵ オ の中の ヨあ の 立場よりする批評  であることは変うない︒ただ︑イスラエル国詰 王の場合は ︑ぺ 目妻 T 目 o コ 0 安生の ヨ 拐の立場 よ りする異教信仰批判  に ︑ダビデ王国からの分離 並に イェルサレム神殿 に 対抗しての 々スラエ ル 国 自身の国家的中心神 殿の設置に対する︑ 

ユ ダ中心主義からの批判が加はり︑ここに イス 

‑ フエル  国 諸王に対する極めて厳しい批判が生れ ︑ ィスラエ ル国のすべ  ての王が﹁ヤハウェの目に悪しとするところを 為 せり﹂と批評せられるに至ったものと考へる︒ 究 

イスラエル 国 諸王は︑甲金 記的 歴史家によって ︑ その治世期間が極めて 短 かかった ェラ ︵八八三 一︶ ︑ @ 路 ︶ ム ︵七四七︶以外はすべて︑﹁ヤハウェの目に悪 しとするところを為せり﹂と批評されてゐる︒ 更に︑イェ ロベ 

以後の諸王について︑ 申 台記 的 歴史家は︑上記 の エラ︑ シ ヤル ム を除いて︑﹁ イ ェロベア ム の 罪 に 歩みき﹂︑﹁ ィ 

ベア ム の罪を離れざりき﹂︑﹁ ィエ ロベア ム の道を 歩み 笘 ﹂等の批評をも附け加へてゐる︒ 

イエ ロベア ム は︑独立後︑古くから崇められてゐ たべ テルの神殿を︑イスラエル王国の国家的中 心神殿と定め 

また︑彼は︑この べ ・テルに併せて︑ダンにも︑ 金の子牛像を置き︵ 列 三上︑一一 フ 二八 |二一 ︶ ︑ 崇邱 神殿・を 

た ︵ 列 主上︑ニフ三一︶ と伝 へられてゐる︒ 

異教信仰は ︑へい オミの・ 目 ︒ コ ︒まの田の日握の立場に 立つ中分詞 的 歴史家の否定する せ ころそあり︑ ま た ︑ダビデ 王 

らの分離独立︑それと関連して︑イェルサレム 神殿に対抗する 々スラエ ル王国の国家的中心神殿 の 設立は ︑ユ ダ 

主義の申台記 的 歴史家の到底認容することが 出 来ないととであった︒ ‑0 2 ︶ 中台記 的 歴史家は︑ここに︑﹁ イエ ロベア ム の 罪 ﹂を見たのである︵ 列 主上︑一三 ノ 三四︶︒ 

しかし︑イェ ロ ベア ム は ︑ ヤハウェの代りに︵ ヤハウェを廃して︶地神を導入したものとは考へ られない︒ 

イエ ロベア ム が国民に告げたと 言ふ 言葉︑﹁ 汝 ︐ りはもはやイェルサレムに上るに及ばず︒イスラ エル よ︑汝ら 

ジプトの 北 より導き上りし 汝 らの神を見よ﹂︵ 列 主上︑一二 ノ 二八︶は 出 エジプト 記三 二を前提とす るものであり︑  ャル アム エロ ︵ 仏り ‑ た 造っ 国か   をェ 

﹁ 汝        はれた | ヤハウェ信仰と共に異教信仰も行はれ た| ことを知るのである︒ 

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ドキュメント内 『宗教研究』199号(42巻4輯) (ページ 34-37)

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