性は依然として否定され得ないのである︒ シり ア 以外には︑ミトラス 神 の上着化とその後の発展について︑これ種の証拠 は 存在していない︒
では︑囲がの 三 浮彫の図像自体は︑このような 自然崇拝的なミトラス 神 信仰の残存物を示してい るであろうか︒ ︵ 鍵 @ ここに︑第二の問題点がある︒キュモ ノとプ ロ ジ ンガムが指摘するのはかかる残存物なのである ︒彼等の嫡 案 による と ︑当該浮彫の作風は著しく稚拙であり︑図像 の 構成にも通例のものと 異 8 点がある︒即ち ︑牛 の 下方にある蛇の姿 勢 が母なる大地の使者として︑その生殖力が犠 牲 獣の聖なる力で発動する︑ と 云 う 自然の生産力 に 対する崇拝を強調 するように配置されているのは︑原始マズダ 教 直伝の自然崇拝的思想に基ずくからである︒これ は ︑東方の性的神秘 思想に通例の直接的表現であり︑他の大多数の この種のイコンの示す へ レニズム・ローマ的母胎 とは 異 ったものであ
ると主張した︒
こう云う解釈に対して︑現在のところでは︑上述 の ウィル︵ 一 0 三頁︶のように︑一般論的な反 対しか出されてい ない︒従って ︑紹ドの 史料の重要性を簡単に看 過すべきではないと思われる︒
尚 ︑キュモ ノ はディオニュソス神としてのし ヂ are の神とミトラ教浮彫の結びつきのもう一つの 理由として︑ マズ ‑ 托 ︶ ダ 教の聖 酒 ハオ マと ブドウ酒の同一視をも仮定
中央のミトラス神に対する両端の松明春持者の したが︑ @9 6 ︶ これはヴィカンデルの云う通り全く根拠
大きさ︑蛇の仕置︑ さ そりの欠除︑ミトラス神の がない︒ 姿勢など︑他に見ら ︵ ム ︶アンティオキアの北方︑北シリア︑ メソポ タミアヘ向う 古代道路の分岐点に位置する 臣あ ゴ がま㏄ l の 口 〜 ヴ 日出土
の ﹁牛を屠るミトラス 神 ﹂ 淫 ︒︵ 1 7 @ 彫 ︶ 年代不詳であ るが︑ 四 りのもと同じく全く稚拙な作風を示し︑ 図像も特異である︒
れない構図は︑キュモ ノ によると︑図像の形成 期の状態を示す︒ ︐︑︐ ︐ @2 7 ︶ ウィルはこのような特異性と 図 像の形成 期 とを結び つけず︑単に道路分岐点の関所のローマ兵のもの とす あじ㍗いずれにしても︑前章で扱った 北 シリ ア への出口に︑この ような作品が見出されたことは︑ 全 シリアの ︑︑︑ トラ 教 図像に︑古拙な傾向が存在し︑それが原始 酌 マズダ教の何等 か の 反映物であった可能性を暗示するものと云えよ う ︒
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よる﹁牛を屠るミトラス 神 ﹂ 像 浮彫の奉納が 行 われた︒神殿は恐らくそれよりも前に建立され︑ 西暦二一一年と二四 0 年頃に改築され︑西暦二五六年に ぺル シ フ軍 の手によって ︑ 町と共に亡びた︒以下においては ︑上述の で ゴス神官 0 間 題 ︵九八頁︶の他に︑本稿に関係あると思わ れる史料の二三を考察するにとどめる︒
第一に注目すべきことは︑最初期の神殿は奉納 老木内田 ゴづ の コ田 一い 回コ 0 庄 0 の @ Ⅱが ユヴひ ︶Ⅲの 竺寸 ︶は パル ミラ人であり︑ 彼 等の奉納になる﹁牛を屠るミトラ神し像もその 着衣︑ 又 彫刻家の表現方法が全くパルミラの美術 に 見られるものに 似
ミトラ教を学びとったかは判らないが︑パル ︑︑︑ ラ 市の遺物が示す 通
てり
︑彼等は宗教的個性が極めて強く ︑ 種々 な 宗教思想を消化して独自のものを生み出す能力 を 持っていた︑と考え ろ れるので︑ @8 7 ︶ 同市の文化的繁栄の夜明け 頃 ︵ 一世世紀
? 後一世紀︶︑形成されつつあった ミト ラ 教にパルミラ系のセム 淑人が何等かの関係をもった可能性がある︒ こ の点で︑ドゥーラ・ ェウロポス の碑文も注目す べきである︒碑文は初期 起 ゆ のものはパルミラ 語と ギリシア譚
後には ギ りシァ語と ラテン語によるが︑ミトラ教に通有 の ﹁不滅の太陽神ミトラばス
﹂の句は西暦二一一年のラテン語碑文に 一つ出るだけである︒その他の碑文でミトラス 神 が出る場合は︑﹁ 神 ︵︵ プの ㌢︶ミトラス﹂となっている︒これは上の きまり文句が確立して︑ローマ世界に流布する 前の ミトラス神の表107 (@S)
神 屏 "% @6‑7
︒
西暦一六八年と一セ 0 年に︑当地に駐屯 して︑恐らくローマ軍に加わっていたパルミラ 弓 衛 兵部隊の長たちに ︵ ウ ︶シリア沙漠の中︑パルミラの北にある 絵 ︵寄
︵のけがの︵︒ ぎ 干目ギ 隼囲 ③の遊牧民口伝によ ると︑当地の城主 宇 コミキ國
﹁ 蛇 ﹂酋長が ︑ 牛の背にひそむ さそ りに刺されて死んだ︑と云われる︒この話は﹁ 牛を屠るミトラス 神 ﹂ ︵ わ ︶ ︵田げ ‑ 像 に由来し︑城はローマ軍の陣営のことと解釈 された︒キスモン は 懐疑的であるが︑理由は述べ ていない︒この種の史料は単独では価値が低いが︑シリア全体の史 料 と併せ考えるべきものであろう︒
︵ ヰ ︶ユーフラテス川に接するローマ軍陣営 兼 隊商都市ドゥーラ・ エ ウロ ポス の町の北西部で発 見された︑ ︑ ︑トラス
総じて︑ドゥーラ・ エウロポス のミトラ教は ︑初 期の図像の構成や神殿の状態から見て ︑ 既に完 成したものとして 当地に流入したことは明らかであるが︑信徒はめ 息伶 なパルミラの貴族出の軍人たちであり︑図像 も神観念も彼等値 有 の 宗教文化的背景に従って理解されていた︑ と考 えられる︒ ス ︑ローマ軍から学びとったもので はなかった可能性が 強い︒ ‑ ㏄︶ ︵ ノ ︶Ⅰいロ 麓 方円 婁︒ 円が巨︒仁の間の海岸地帯で発 見されたと云われる﹁牛を屠るミトラス 神 ﹂浮彫 頭部は︑ウィルの
鑑定では︑第二世紀前半のもので︑上出の シド ンの深 浮彫と同じ カ テコリーに入る︒ ‑ ㏄︶ n ぬ @ ︵ オ ︶ドナウ川北岸︑ダキアのし 0 〜の︵ の ま出土 の ラテン語碑文は︑ノックの解釈によると︑マケ ドニア生れの ロ|
マ 軍兵士︵ 卸 お目 @0 ︶が当地でミトラス神殿を訪 れた際に︑信者であった︵ローマ軍の︶ ハ ル ︑︑︑ ラ 人たちによって 奉 納 者として認められた︑と表 ぅ 意味である︒ 従 って︑パルミラ市ではミトラ教の痕跡が発見され ていなくても︑ ダキ ア 駐在のパルミラ人がミトラス神殿を所有したこ とがこの碑文によって 確 められる︒
以上の史料︵ ネ ︶ 1 ︵ オ ︶八件のうち︑確認し得な いものやミトラ教とは 異 るもの二件︵ 木 ︶︵ ウ ︶を 除 いて︑その多くが ミトラス神殿や﹁牛を屠るミトラス 神 ﹂像を含み
エウロポス ︶と共に 数件が何等かの意味で原始的自然崇拝の色彩の ある︑古いミトラス祐信仰の遺風を残していると 推定される︒ 又 ︑ 糖 おプリま い @Q Ⅰ 円ヴ 日のものは︑前章で論じた 北シ リ アとの中間地帯のものとして特別の意味を持つ と 云える︒それ故︑
シリアのミトラ教史料こそ形成期の状態を反映す るものである︒但し ︑北 シリア や アルメニア と 具り ︑ 非ミトラ教の
絵 に 記 の 散 法