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ドキュメント内 『宗教研究』199号(42巻4輯) (ページ 58-69)

ナチ ケ 

     

よ    ︶にみずから供物を捧げを説くべし︒目口づ 住し︑唯一の仙人︵Ⅱ 色 ・ 己づ 火 ・の・ N. ニ ・  ︑ 信あり︑定めの 

心 静まらざるもの︑息子ならざるもの︑弟子な 

︐ らざるものに授けらるべからず︒篆文・ 

己づ ・ p%   

息子ならざるもの︑弟子ならざるもの︑心許 ま︐  う ざるものに語るな ・ 

力れ峯ぎ臣 

五 0 .  ・ C 口 ・ 0. ね 節︶ 8 0. 

このようにして伝授されることによって系譜が 成立し 憶 ︒︵ 2 ︶ ‑ ㏄︶ また出来上ったウパニシャッドが師弟の間で読 

士  みれたことは︑そのはじめ又は終りに﹁われら 

両 人を守れ﹂などの 

祈願の文が附せられていることからも知られる︒ その他の場合としては︑カタ・ウパニシャッド ︵ 三 ︑一 セ ︶による  と ︑バラモンの集会︵ 町 斜ヨ ゅ巾甲 の 笘旧 のひ 色 ︶ スは 祖先祭の時に読まれた︒ 

祭祀の場と関連ある何としては︑ジャナカ王は ︑ 察 に集ったバラモンのうち誰が最も学識あるか を 試さんとした︒ ‑ ㎝︶ そこでセージュ二十ヴァルキヤを中心として 諸 バラモンとの間に問答がくりひろげられた︒その 中で︑アールタバー @ め ︶ ガ の間に対して︑セージュニャヴァルキヤは 二 大 だけで退出し︑ひそかに 業 説を教えた︑という のは極めて特異な場 ︵ 6‑ く u 合 である︒ともかく︑国王の面前での討論・論 争は後代にも見られるが︑ 腓 者に対して与えられ る 償金はバラモンの  経済にとって重要な意味をもつであろう︒ ヤ| ジュニャヴァルキヤは 牛と 討論を求めてジャナ カ  王を訪ねたと号ヮ お ︵ 7 ︶  貧しきバラモン ︑ ウシャスティ・チャークラー ヤナ は論争にうちかって他のバラモンから祭官の 地位を奪い取った と ‑ ㏄︶ 伝えられる 謝ネ 一対して 教 説を授与する場合  もある︒ ‑9 s ︶ バラモン相互での討論又は教授の例も見 出される︒例外には   

  

(460)  R8 

ナチ ケ ‑ タス切店をめぐって 

已ずコぎ  七生せど  曲絆いせ  いの  三 Ⅰ仁介  り  ︵をシャン  カ  うは  ﹁︵祭の果報を︶欲しつつ﹂︵  蒜ヨい  せリヨ  ど寸  ︒の・  p  隼  メぃ甘い己  Ⅰ 二  Ⅰ・  ごレし  解するが︑固有名詞と見るべきである︒韻の  ヱ のⅡ  せの 

㍉  の目っゴ  のぎのⅡ  本ト  @  ︵戸ロ  の Ⅱ  イハ の  円甘  ︒つ  いコ  P いい  d,  の ・ⅠⅠ  0.  ト目ヨ  ・ ヰ     ︵  2  ︶下テ  の Ⅰ  0  へ  Ⅰ一の  0  コ汗  Ⅱ @ ヴ偉曲ざコ  の  芹 ︒  ヰプ  の  任  0  メド  目い  ‑O  弓 p ヱり  @  のヨ  0 ︵目の木  ぃ巨  0 尽三雀色  N し呂の・  い臼  トヨ・かむのの  @  毛  0%e  Ⅰ  @0  Ⅰ・  ぃ ‑ ︵・の 

トコヨ  ・ り  トトつ  ・  ︵  3  ︶丹田︵︵・  帝  ﹁・  び ・  PP.  の・  P  ︵  4  ︶  0 や住  ︵・  け  PP  ド  ・レコ  ヨ  ・  P 

  

  

  

  

   せ  ︒  @  おポゲ  つつ・㏄  つ1  の つ  ︶一口  e  亡 ののの  う  ︵のの  りオぃあ  己  で のまの  すい住  の卸ののせの  曲  p.  の ︐  0 のど一ミ  臼訂  ㍉︵  0  で・  口  ︵・の・  PPP  ︶は本文  に  訳出したごと     くに解する︒ 

されているが︑右のどとくに伝授の諸形態をま とめてみると︑﹁秘密の伝授﹂という側面が確か に 存する反面に ︑知 

  

︒そして後者にもとづいて前者が成立すると 考 えることも可能であ 

る ︒それ 放 この舌口業が何を意味していたかは︑ こ のような連関を注視しつっ再検討する必要があ ると考えられる︒  者がこれに加えられる ︐ ︵ 9 2 O ︶ ︵ 銭 @@ ところで従来ウパニシャッドという言葉の意味 に 関して︑﹁秘伝﹂つまり師弟の近 坐に 根拠を求 める解釈が通説と  知を伝授する形態はこのように種々であるが︑ ウ パ ニシャッ ド 文献を中心として考えるならば︑ 最高とみなされる 

形而上的 は 知は︑それを把握しうる者に対して のみ授けられた︑ と 舌ロいうるであろう︒論争の場 合 もかかる知を有す  るど 認められる人々の間で競い合うのであるか︐ り ︑これに準じて扱 う ことが出来るであろう︒ バ ラモンの経済的支持 

  ︵ 7 ︶ 韻圧巨のセ ︵ 0 つ ・ らヴや の③は次のように言 う ︒﹁ 死 神に与える﹂ということは︑づ下 笘ず ︒帯 い官 oh 鐸 の味 ぃ円ア ︒Ⅱ ヨ ‑ 帳す 圧の いせ   コ 名文 一幅 ︵ 0 宙の ヰ 宙の 一︐ ︵ 0p コ @ ヨで 耳 Ⅰ 臣ぃ寓 ︒ 旺圧 円汀す ︒ せ繕オ ののざの 窯ざ 弓ミ・・・しかし言葉通りに 解 すべぎである︒ 

︵ せ住 ・臣の コ のⅡ ︐ ワ 住 ヴ臼 ま ︶ 呂 り年 ゴせ いは カタ ・ ウパ 

‑  一 

シャッ ド の注釈で﹁父はみずから彼を呪った﹂︵ 巨 

  

笘ぃセリ ヨ︶と述べている 呂 注す つ a. の 木 ヨヨ のま 笘 目 木 ゆが 註 オり1 Ⅰ︒ 三の註 ・ 甘 おの・ せ コ ㏄ 音モ苗 ㌔ヨ当日・リト ゲ これはイン 

ド 文学にしばしば現われる 呪 咀の観念と同一である︒ 

︵ 8 ︶ づ m‑. 毛色 こ ﹁ ︐ ロ ・ 臼 ︵・の・ ト Ⅱ P. トコ 日 ・ P. ︑ ‑0 ヴ 宙の︵ せり 汀 ︵の色目 のコ の ア コ 名曲 住 打の経の ぃ の No ﹁コ田年ず コ宮 Ⅱとくの ‑ ︵の りゴ @nF ︵︵ 下 ‑. 

㏄Ⅰ Ⅱ h ︒いし プミ の・Ⅰつつ・の・ ウのウ ︶ 口のⅡ ぃ 由の往 臣 ︒ ヨぃ 二ロ の Ⅱの コ の Ⅰ 目コら ︒Ⅰ 

︵ 9 ︶ 下ぎ CP 目 ・ ゲ トートによると︑人間には三度 誕生︵ 寸 コヨ 目 ︶がある︒第一の誕生は受胎︑第二は 出生である︒そして  息子において両親の本質が ぅ けつがれ︑祭事も思子が 引き継ぐ かくて老いたる父がこの世を去って再生す ることが第三の  誕生である︒このようにして諸世界の持続 定曲ち ︵㏄︵ @ ︶ が 可能となる︒本 の由 w. ログ C やⅠ・しはこの世を 去る父のあとを  恵子が引継ぐことを具体的な儀式として説いている︒ 

運 

.CP Ⅱ・ 9% は人間界は冑 子 によって得られ︑ 祖霊界は祭︑ 天  界は知によって得られる︑と説く︒までは特に宮子 の 重要性を強調している︒ せ お おま おヨ サ ︵ ポづコ ・ いは ﹁息子によって  諸世界を克ち得︑孫によって無限を享受し︑ 曽孫 によ って太陽の天界を獲得する︒﹂と 説 く︒マヌ法典は担 先祭は ついて 詳  細に 規定し︵ 目 ・ 122 1 %5 ︑息子の重要な地位につい ては﹁長子が生まれるや男は門葉子あるもの L  グ 三 ぎ ︶となり︑ 祖  霊に 対して 刊 負債なぎもの 宙ハ 中り︶となる﹂︵ 卑 ・ きつ ド ー ︶と言う︒また息子なぎ父は ︑ 娘に生まれた 男児に祖先発を  行わしめよと言う︒ 宙メ ・ トま ︶同様に ぺ捲乙臼臣ミ サ︵ ポ せ目目では息子なぎ父は娘の男子を自分の冑 子と なせと述べる︒ 

なおムロ 由プす ﹁・のけい・ セ ︒㌃ い の・ ワの蔑 ・ 目 ︒ 汀 ︵ 托 ︶ナチケ タス物語には人身供犠の名残りがある 由 目下すⅡ ド 二年竹 下目のしⅡ い す ヨぃコぃ ㏄ 仁コ宙已 ㌧の 目 吊り巨の コ ・ の ︶ トの 一パ 由 ︵ オ ・ オキ  挿 @0 コドコ由弓す目 の 0 Ⅰ 宙 Ⅱ ︵ 芹ゴのそ 宙 a‑ 由 の・ せ プ ㏄ N. つ ㏄ 下 ㏄ 

︵ 皿 ︶ や臣甲 ・ ゴし 1 %. 辻 博士 訳 ︑㍉インド 集 宍 世界文学大系 四︶五四頁以下︒ 出 ぎの brandt ︒ 毛 ・ 臼 ヴの ・ pP の・この物語  の 主題も自子の重要性である︒ イクシ ヴァーク王に 対してナーラダ仙は次のように教える ﹁生まれて 健 やかなる 自 子の  顔を見ると き ︑父は責 曲 甘井潤し︑不死の境地に到達 す ︒・・・・・・父はつねに良子によりて深 き 闇を越えたり︒   

おのれょり生まれ替りしものなれば︒息子は装備もれ なぎ船にして よく 渡す ⁝⁝ 已 子なぎものは︵死後の ︶世界なし︒﹂ 

︵ ゴお ・ 辻 博士の訳による ︶ 

ナチケータ ス 物語をめぐって 

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61   (463) 

  

  ニア いい のの・レコ ヨ ・ こ   ︵ 抑 ︶Ⅰ一九でも繰り返されている︒ せ住 ・まこ コ の グ 0 で・ 0 宇 ・の・ 4 の 餌 ) ︵ 為 ︶以下達博士の訳による︒   ︵ 鶉 ︶ ゾこ す ヴ曲 せ曲 プ これについいては種々の解釈がある 一︑か va の | ‑. へのⅠ U. ︵ 4 匹 l ヴ ダウ︵ a.O 下ゆ 口 ・ 己やケや ト一ト ゴご ・やごと関連 

させて﹁明日﹂とみる︒目のⅠ︵ 臼 ・の e 日高﹁など︒ ニ︑ 

﹁  明日まで存在する﹂ 

呂 ・ ミオ 二の グオ 0% う 巨など︒ 三 ︑ のドナオぃ ﹁ い の 桂  に 従って︑﹁明日存するか否か︑明日への不安﹂ 巾ぴす 目ぎ 帳下しの仁ののの コ など︒ 四 ︑ ぎ 0. ヴ すい つ兜 ︶とみて﹁ 明 日は無 となるも  の ﹂圭三ざ のヂ目 @‑‑0% ぃコ簾 ︒ 臣 ︑のぎる︒ まざ ︵など︒ キ 0 ヱの︵︵ 0 ロ ・ c@ ︵・中淀︶も不確かとしつつも第四を とる︒恐らく 第  四が 趣意からも最も妥当であろう︒ い け プドゲドっ に は ﹁誰が人間の明日を知るか﹂︵ オ の ま 日当ミ 蓮 ハ % セい い く 0 せめ ぎ︶ とい  ぅ 0 ここには人間存在のはかなさの自覚が既にある︒ ︵但し人間は知によって明日を知るとも云う︒ p‑ ︵・ 卜 ﹁・ 目 " の ・ N ︶ 仏  教の無常の立場がこれに 当 るが︑朝と タ を対比せしめ て 次のように言 う ︒ 

     

ナ 宙 刮目 ava ﹁㏄ ぃ 

︵㏄︶ せ住 ・ ドヰ せ目 セ ハ片岸Ⅱ 仁セい い いすへ の ヒ 05 目 田くゆ 斤目 ・ 億セ いのり年曲 せ い日 ・ ソう穿 ・ 当 ・ のの・ トい 

︵ 紐 ︶ 乱 4% 宙旧のド由ヨドコ ac 守痒り紐ヨ 日神 コせ の・との 宙 ︒ 目 は 元来︵ ニ ーター 七 ︶ さ ac 守文 い であるべきであり︑ 

︐  ︶れは新しい形であ 

るから︑ ニ ︑一三は後代の附加とみる 0 ︵ 07% ヴ ワ 

ウ  簿 

︶これに反して ヲす まの ぺ はこのままの形で採用し かつ古いものと  みる 0 ︵ 0 つ住ダぴお ︵の・︶それはともかくとして︑ こ の 詩もまた難解であり︑別の解釈が提案されている︒ 毛ま侍コ 0 せ ︵ 0 つ  巳 沖 つトき ︶は字義通りに﹁ナチケータスを開かれた 座 所 と思う﹂というのは無意味であるとして︑﹁座所が ナチケータスに  開かれていると考える﹂と解する︒ めぴプ仁ヨゅオ はこの ように解すべく 臣 ac ヨ痒 ps のに改めている︒かかる 見 解は シャンカラ  の 注釈にも見られる︒﹁かくのごとぎ梵の座所がナチ ケータスなる汝に対して 谷お 守の︵ りのぃ旧 ︵ あ旧 ㌧﹁ a. 〜〜︶ 扉を開いてい  る︑ 開かれている︑目の前にある︑とわたしは考える ︒汝は解脱に値するとわたしは考える︑という趣意で ある﹂と述べて  いる︒︵ ゆ 生木の 亜ヰぃ己や Ⅰ・ ト どまたの e 匡冑 ︵︵せの曲 ずヨ 年の仁邑い ra すヨい 田の コ 臣の・ ぴト の ト ︶ 一 0 ︵︵ 0 ︵ 本笘 ア ド己て りコ 乙の ら ・の・ ト ㏄  ナリ ヨ・の︶は コ ac ヨ 痒 い ののり日日 ぃコせ のと改めて︑同趣意 に 解そうとする︒ ム ンダカ・ウパニシャッド ニ︑ニ︑ 四は ﹁これらの  方法によって努め 知 あるものは︑ブラフマンの住所︵ 

  

﹂における 宙ゴゆ  日当と同様に 串芋ヨ a コ ︒ 円 a ヨド などのそれとみるべ き であろう︒また仏典に﹁彼らに甘露の門は開かれたし   

ドキュメント内 『宗教研究』199号(42巻4輯) (ページ 58-69)

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