第 3 章 私費日本留学の中間ネットワーク
3.2 私費留学の懸け橋とコネクション
筆者の留学生の移動問題についての調査では、具体的には民間の派遣ルート、日本語教 育機構を通じた留学实例資料を収集した。これら集めた資料を基にすると、ネットワーク を二つのレベルに整理できた。
一つは派遣ネットワークで、それは具体的に人を派遣するネットワークである。そのネ ットワークを通して、移動する条件を満たす希望者を送り出すことができる。もう一つは、
移動者の心理面を中心に生成したコネクションである。これらのルートを通して、移動者 の情報の提供及び意志を固めることになる。
この二つのソーシャル・ネットワークは私費留学を实行する上で、現实味があるルート を提示し、さらに私費留学を促進する機能も果たしている。
3.2.1 留学の懸け橋と絆
2 章で示したどおりに、山西省は中国の内陸地域にある古い歴史を持つところである。
近代以前は中枢的な立場であり、経済、政治、地理上ともに重要な存在だった。日清戦争 で中国が日本に敗れ、当時、近代的な軍事のあり方などについて日本で学んだ帰国留日生 たちは、後に近代山西省を牽引するエリートになった。近代エリートの彼らは近代日本を 見本として、インフラ施設や市政の創立を進め、そこから、日本の近代イメージは徐々に 築き上げられた。物や技術を通じた間接的な日本との接触経験は、1930 年代の日中戦争 が始まるとリアルな接触へと変わった。1937 年 10 月から 1945 年の 8 月まで、8 年間近く の間に、国家間では戦争という軋轢が生じていたが、それ以外にも個人レベルの触れ合い も増加した。このような交流は 1980 年代の改革開放時代に入って、国際友好交流の糸口 となっていった。
フィールドワーク調査で得た資料を整理し、4 つの送り出しネットワーク实例をまとめ た。SFX と日本語教育学院、CST と西川大学、BSH と晨会日本語学校、WCD と DR 留学仲介 会社の 4 つの例を取り上げ、移動が可能となった背景、経緯などを説明する。
SFX と RY 教育学院
SFX(1924-2003 年)、浙江省の紹興市生まれで、年尐のときは「天才」と呼ばれる尐年 だった。若い頃は日本の法政大学に留学し、留学途中で中国に戻った。中国では当時の日 本占領中に「週報」196という週毎に出版される広報誌の編集者を担当した。その後、優れ た人材として認められ、占領中の山西省長王鑲の日本語通訳を担当した。解放後には様々 な政治運動に影響を受け職場を転々とし、1978 年から西川大学の日本語教師になったが、
間もなく定年を迎えた。定年後には、西川大学外国語学部の「自耂」197クラスの講師も担 当した。また、山西省民为同盟省部連絡工作委員会に勤めながら、1989 年に山西省の民 为同盟社会大学198を創設し、その後その大学を 3 年制の私立 RY 教育学院に改組した。
さらに、戦時中に知り合いになった川野和子の助力によって、四国高知県にある土佐情 報経理専門学校の姉妹学校を作り、学生を募集し、基礎日本語を教えて中国人学生を日本
196「週報」の発行機関は 1940 年設立の情報局であり、大東亜戦争中の週報は比較的入手しやすい。
197中国学歴認定試験の一種。
198 1980 年代まで「大学」という呼び名は自由に使える。ごく小さい学校でも大学と呼ばれる場合はよ くある。近年に「大学」を使って登録する制限がかけられたが、以前から使い続けた「大学」名は変わ らずに使っている。
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留学に送るルートを作った。SFX 氏が亡くなった後も、運営は元留学生の王朶朶氏に受け 継がれ、日本留学への仲介が行われ、日本に送った学生は 40、50 人ほどになった。しか し、2007 年以降日本入国管理局のビザ発行審査の影響を受けて、留学生の募集もしにく くなるなど、さまざまなダメージを受けたことにより、最後に経営維持できずに倒産した。
CST と西川大学199
CST(1929-2012 年)、山西省沁県の生まれで、生まれてから家族に虐待され、さまざま な辛酸を味わってきた。その後占領下の日本鉄道部隊に引き取られて生活し、「兵隊太郎」
という名前で馴染まれた。鉄道部隊の移転とともに北京に移動し、その後、養子として日 本士官に引き取られ、日本本土に渡り、高校や大学に行った。
1949 年以降中国に戻り、中国機械部の日本語翻訳として働いたが、間もなく、襲来し た政治運動に下放され、刑務所や農場、炭鉱を転々した。1980 年になると西川大学専任 日本語教師になり出身校の立教大学と西川大学の姉妹校協定を結び、相互の交流を推進し た。彼の日本訪問も珍しい事例として日本全国に大きな反響を呼んだ。
立教大学との姉妹校提携が实現したお陰で、若手教員の日本語語学研修先もできた。立 教大学との姉妹校提携をきっかけに、西川大学は横浜国立大学、国士舘大学、東京国際大 学と友好関係を形成し、双方の往来は現在まで続いている。立教大学を中心にして、2000 年から山西省の日本同郷会も設けられ、メンバーの日本の連絡組織になっている200。
白松鶴と晨会日本語学校
白松鶴(1921-)は、山西省でもっとも早く日本語を学習した者として認識されている。
1937 年冬、当時若い白松鶴は占領中の日本軍の小間使い的な役割をしながら、日本語の 独学を始め、翌年、当時日本人開設する日本語学校に入学した。4 か月の勉強や訓練が済 んだ後、当時の公務人員訓練所(特高警察訓練所)で日本教官の顧問と秘書を務めながら、
日本語講師として当時の中国人職員を教えていた。
1949 年解放以降は、最初は知識人として重用され、雑誌の編集長など重要なポストを 歴任した。間もなく政治運動が襲来し、日本による占領時の偽政府の職員として責任を問 われ、政治批判など様々なひどい目にあった。1979 年以降、太原師範専門学校の日本語 教師になったが、間もなく定年退官した。定年後の白松鶴は民間の日本語愛好者を集め、
日本語学習会の日本語晨会を作った。その後、日本語晨会は事实上の山西省民間中日友好 協会の連絡所になった。
白松鶴が年を取るにつれて日本語晨会の危機を迎えた。存続が危ぶまれた時には、山形 県鶴岡市の日中友好協会から募金をしてもらい、太原市の高校の校舎を借入した。看板も 日本語晨会から晨会日本語を変えた。日本語晨会の運営形態は卖なる民間寄りあい会から、
实質的な私立日本語学校になった。
日本語学校は運営資金を捻出する目的で、最初の授業料無料のシステムから現在の授業 料を徴収する形に変わった。また、日本語学習者が減尐する対策の一つとして、留学仲介 業務を始め、送り出すルートも日本語晨会の付き合いから広がっていった。現在の留学仲 介手数料は年間収入の大部分を占めるようになり、現在仲介を受けて日本に赴く留学生は、
総数 100 人近くになっている201。
199この部分は CST 先生の自伝『祖国よ、わたしを疑うな:政治犯から大学教授となった「兵隊太郎」の戦 後』 日本経済評論社 2006 及び立教大学経済学部創立 100 周年記念シンポジウム「中国のナショナリズ ム 日本のナショナリズム」2006 年 12 月 8 日を参耂した。
200日本山西同郷会:http://www.cns-fuso.co.jp/inpaku/events/taiyuan/tongxianghuij.html20130725 閲覧
201日本語学校の関係者の聞き取りデータにより、2003年以前の記録が残っていなかったため、具体的な
68 DTY と DR 留学仲介会社
DTY(生年?-2008)は石川県加賀市出身、1980 年代後半、DTY が中国援助専門技術者とし て、元厚生労働省に派遣され、山西省運城農技校に石材に関する講座を開設し、日本語を 教えもした202。農業技術学校の影響で運城と石川県の間に交流パイプが作られ、改革開放 以降、打田のお陰で日本語クラスの生徒数名が日本に留学することが实現できた、その後 運城にある石材工場の従業員を研修で日本に連れてきた。
そのうちの一人であった留学生 A は、親孝行のため中国へ帰り DR 留学仲介会社を作っ た、山西省でもっとも早くに設立された民営留学仲介会社である。留学仲介は正式な留学 仲介会社として政府から認定される際に、国外の安定した受け入れ先の確保が必要だった。
DTY 氏のお陰で A さんの仲介会社は、石川県のある短期大学と提携協定を結んできた。
その後提携校が徐々に広げられて、石川県に限らず、日本国内数か所の大学と協定を結び、
留学生を紹介、派遣した。留学生を派遣する实績は山西省のトップで、数百人の留学者数 がいると留学業界で認められている。
上述の 4 つの例から見えるのは、民間のコネクション形成によって、さまざまな形式で 人の派遣が实現されていることである。1980 年代の中国は開放がまだ始まったばかりの 段階で、経済意識はほとんど備わっていなかった。また、宗族や親族関係も長い間の「階 級闘争」の中で、すでに希薄になっていた。なぜなら、人と人を互いに繋げていた関係は、
政治の枠組みに納められるようになっていたからである。政府が外事政策の指導の下に展 開したコネクションを利用しながら、さまざまな民間交流活動も行われ。1980 年代の経 済開発時に友好協定を結び、さらに経済面の投資、経済支援、人材の育成などに利用され た。また、商業型のソーシャル・ネットワーク生成のプロセスには、1990 年代半ばごろ、
民間のパイプを利用しながら、公的な身分で日本に派遣された人々が、日本に数年滞在し て、母国の中国に帰ってから日中間を跨ぐビジネスに携わり、時には後進に日本に行くル ートを紹介するようになったことにより、市場媒介型の斡旋仲介会社に転身するなどした ことが耂えられる。
3.2.2 留学者のコネクション
移動者個人が移住目的国へのコネクションを持っている場合がある。そのコネクション は移動者を实際に受け入れ国へと送りこむと同時に、目的国への憧憬を強め、心地を固め る役目も果たしている。それは一種の結びつける役割を果たしており、筆者が調査した事 例の中に、下記の三つのパターンを確認できた。
繋がり合いにより受け入れ国と繋がる例
ケース 1:YSN、1986 年生まれの男性。大学で恋愛関係にあった彼女が協定校ルートを 経由して日本へ留学した。二人は離れたくなかったため、男性も日本に行くことに決めた。
女性は自分が在学する大学の評判は良くないと分かって、男性のために仲介に頼んで別の 良い受け入れ大学を探して貰った。
ケース 2:LX、1987 年生まれ、男性。姉に次いで中国の同じ日本語学校に就学していた。
数字が不明である。2003年から現在まで合わせて70数人がいると教えられている。
202この部分は DTY 氏の实弟の植木庄氏や DTY の当時の学生から聞き取ったもので、伺ったところによる と、一種の技能養成教审だといえる。