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豊楽院跡

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 55-83)

第 3 章 平安宮跡の調査

Ⅱ 豊楽院跡

  1  経過

 豊楽院跡は丸太町通と七本松通の交差点のほぼ南東に位置し、北限は丸太町通、西限は七本松 通に相当する。そして豊楽院跡の中ほどには東西方向に JR 山陰本線が通っている。豊楽院跡推 定地の多くは、木造家屋が軒を連ねた住宅街である。この付近の現地形は北から南に向かって緩 やかに傾斜している。豊楽院の北部、すなわち豊楽院正殿である豊楽殿跡や北廊跡は今でも一段 高く盛り上がっており、そこが基壇であったことを物語っている。平安宮跡でこのように建物基 壇跡が地上観察できるのはここだけにみられる状況である。豊楽院跡の発掘調査は、朝堂院や内 裏などと比較して少なく、遺構配置など詳細はあまり明らかでない。

 ところで豊楽院は、天子の宴遊や外国からの使節をもてなすことなどを目的として朝堂院の西 側に造営された。いつ頃完成したかについては史料が欠落しているために明らかでないが、延暦 18年(799) にはできあがったらしく、延暦 19年(800) には朝賀の儀を行っている。また豊楽院に ついては、藤原道長の肝試しの逸話や法成寺造営に際して豊楽殿の鴟尾を再利用しようとしたこ となどでもよく知られている。

 豊楽院跡の調査は、昭和3年(1928) に千本丸太町西入聚楽廻において丸太町通の拡幅工事が行 われた際、基壇跡が 2 箇所で発見され、それを契機として緊急調査が行われたのが豊楽院跡にお ける最初の調査

文66

である。資料不足のため 2 箇所の基壇跡は豊楽院に関係した建物遺構であるとの 認識はあったが、その建物を特定するまでには至らなかった。

 それ以降、永らく発掘調査はなかったが、昭和44年(1969) に平安博物館によって聖三一教会の 敷地内で発掘調査が実施された

文111

。そして昭和46年(1971) に、この付近一帯を対象とした下水管敷 設工事が開始され、それに伴って平安京調査本部が立会調査を行った。昭和48年(1973) には、平 安京調査本部と平安博物館によって豊楽殿の南側推定地が発掘され、瓦や焼土を検出している

文133

。一 方、保護課は昭和51年(1976)、豊楽殿の基壇ならびに礎石根固め痕跡を調査し

文157-5

た。この付近にみら れる一段高い盛り上がりについて、一部の研究者は基壇跡ではないかと推定されていたが、調査成 果はそれが事実であったことを裏付けたばかりでなく、大極殿とならぶ豊楽殿の遺構が良好に残存 していることが明らかとなった。特に大極殿の遺構の大半は、道路敷内に位置するため実態の解明 が難しい状況下にあって、こうした発見が持たされたことは平安宮復原への大きな希望となった。

 そして昭和62年(1987) に、豊楽殿基壇の北西半部を調査し、基壇や建物規模を明らかにし、

豊楽院の中軸線を確定することができた。その結果、豊楽院は朝堂院の東側に位置する中務省・

太政官・民部省と対称の位置にあることが判った。また、基壇化粧の様子や使用されていた凝灰 岩の規模なども知ることができた。

 2 遺構

 当研究所が昭和54年(1979) 以降に豊楽院跡で実施した調査は、発掘調査 10 件、試掘調査 10 件、

立会調査 66 件である。これらの調査は、今述べたように豊楽殿跡を中心とする豊楽院跡北半部

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に集中している。その ため、豊楽院内に造営 された殿舎などについ てはほとんど明らかに はされていない。

 豊楽院跡関係の遺構 の中で豊楽殿や北廊跡 が位置する聚楽廻西町 では、豊楽殿や北廊跡 の基壇が現在も周囲よ り一段高く盛り上がっ た状態で地上観察する

ことができる。平安宮跡の遺構がこのような状態でみられるのはきわめて稀なことである。豊楽 院関係の遺構は場所によっても若干異なるが、おおむね現地表下約 0.4 ~ 0.6m 前後の深さで検 出することができる。

 次に、各調査で検出した遺構について調査ごとにその概要を述べる。

 調査 1 (882 文 261-5 カラー図版 3・図版 25 ~ 32) 調査地点は中京区聚楽廻西町 85 に所 在し、周囲の宅地より一段高く盛り上がっていた地点である。昭和62年(1987)10 月から昭和63 年(1988)1 月まで発掘調査を実施した。調査面積は 460 ㎡である。

 調査では、豊楽殿および豊楽殿と清暑堂とをつなぐ北廊を検出した。

 豊楽殿 東西方向を示す基壇建物で、検出したのは基壇西縁北半の一部と同北縁の西半部であ る。基壇の遺存状況は良好で、現存高は創建当初の整地面から約 0.6m ほどあった。基壇上面では、

身舎北庇の側柱筋において礎石位置を示す痕跡を東西方向に 4 間分検出した。

 今回の調査成果と 1976年の調査から、豊楽殿は桁行 9 間、梁行 4 間の四面庇付東西棟礎石建 物であることが明らかになった。柱間寸法は身舎桁行が 1 間 15 尺 (4.47m)、梁行 1 間 14 尺 (4.17m)、

庇の出が 13 尺 (3.88m)、基壇の出は 11 尺 (3.28m) である。

 基壇 基壇の構築は丁寧な版築によって行われて いたが、掘込地業はほとんどみられない。基壇構築 土層は、やや小石混じり黄褐色土 ( いわゆる聚楽土 ) であった。凝灰岩の削り屑などは一切含まれていな かった。版築は断割断面や掘り下げ時における構築 土層の剥離状況などを観察すると、もっとも細かい ところでは 1 枚の厚さは 5mm まで確認することがで きた。

 基壇化粧 基壇の化粧に使用していた凝灰岩の切

 写真 2 調査 1 調査風景 ( 西から )

 図 42 豊楽殿の復原と調査区配置図

石は、後世にほとんど抜き取られていたが、北廊基壇の埋土中や西側階段の東入隅部分に一部遺 存していた。特に、中央間階段の凝灰岩は北廊の造営に際して基壇構築土に埋め込まれたため表 面はまったく風化せず新鮮な面を保っており、延石・地覆石・羽目石は造営当初のままに組み合 わさった状態で検出することができた。

 各切石の寸法を示すと、延石は長さ 101cm、幅 41cm、高さ 34cm、地覆石は長さ 102cm、幅 21cm、高さ 28cm、羽目石は幅 51cm、厚さ 23cm、残存高 29cm である。それぞれの凝灰岩の表面 は丁寧に仕上げられていたが、小口や裏面には調整時に使用した工具の痕跡が顕著である。地覆 石や羽目石には、堅固に組み合わさるよう欠き込みが設けられている。なお、凝灰岩を据えるた めの掘形内や階段の構築土層に

は、凝灰岩の細かい削り屑が混 入していた。

 階段 基壇北縁の中央間と中 央間から西へ 2 間目の 2 箇所に おいて検出した。

 中央間階段は、北廊の基壇下 で検出した。すなわち、この階 段は北廊を増設する際に取り壊 されて、北廊の構築土層下に埋 め込まれている。中央間階段の 検出幅は身舎の桁行寸法よりや

中央間階段

中央間階段 延石

羽目石 地覆石

Y=-23,450

X=-109,265

H:43.00m A

A

A’

A’

2m

図43 調査1 壇上積基壇実測図(1:40)

 図 44 調査 1 壇上積部材拓影 ( 凝灰岩加工痕 )(1:6)

30cm

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や広い 5.2m、出は 3.0m 前後と考えている。中央間階段は、延石の据付け高さまで凝灰岩が含ま れており、基壇構築後にこの部分だけ掘込地業によって構築している。

 西階段は、化粧石などはすべて抜き取られていたが、化粧石抜き取痕跡は比較的明瞭に遺存し ており、西階段の検出幅は中央間階段と同寸法の 5.2m、出は 2.7m 前後と考えている。西階段の 構築土層は基本的に豊楽殿基壇版築部分と同一であるが、上部には凝灰岩の削り屑が多量に含ま れており、階段の踏み面を作る際にこうした土を用いて粗い版築を行っている。

 礎石根固め痕跡 東西方向に 5 箇所ほど検出した。根固め部分に人頭大の川原石を掘形内に入 れ、上から丁寧に版築を施す。根固め掘形は基壇が完成あるいは構築途中で掘られたのではなく、

版築を施す前に基壇底部を浅く掘り窪めて造っている。そのため掘形の輪郭は、掘形内が版築の 土層で埋まった以降はみられなくなるが、川原石はその後もほぼ同じ位置に据えられる。掘形の 規模は大小認められるが、一辺約 2.5m 前後あ

る。

 基壇の周囲 基壇の周囲では雨落溝は検出 できなかったが、薄い砂層がみられた。特に 北廊の構築土層下の旧地表面には砂層が顕著 であったので、基壇周囲には白砂を敷いて化 粧を施していたことが判る。

 また、基壇周囲の整地層には凝灰岩の削り 屑や小片が多量に含まれ、土層が白く見える ほどであった。このことは、基壇化粧に使用 した凝灰岩をこの付近で調整を加えながら仕 上げていたことを示している。

 北廊 豊楽殿への取り付き部分を中心とす る北廊南西部を検出した。北廊基壇は豊楽殿 と同様に盛り上がりがみられたが、東半分は 調査地点東側の現六軒町通によって削り取ら れている。基壇化粧の痕跡や礎石位置を示す ような遺構は検出できなかったが、基壇西縁 には南北方向に方形の甎が敷かれていた。甎 敷は北廊西縁の雨落溝の可能性が高い。

 北廊基壇は版築によって構築しているが、

仕事の状態は豊楽殿の基壇版築に比較して一 枚ごとの版築は厚くやや粗雑である。また、

基壇の構築土層中には凝灰岩の削り屑や小片、

緑釉瓦などが多量に含まれている。こうした

土壙3

溝23 Y=-23,455

Y=-23,455

X=-109,263

H:43.00m A

A

A’

A’

1m

図45 調査1 北廊西側甎敷実測図(1:40)

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 55-83)

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