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平安宮の変遷

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 153-157)

第 4 章 考 察

Ⅱ 平安宮の変遷

 1 宮跡内の遺構残存状態

 前節では朝堂院・豊楽院・内裏を中心に遺構の配置関係をとりあげ説明してきた。この節では 遺構の時期ごとの変遷を検討する。

 当研究所の発足後、平安宮跡の調査は発掘・試掘・立会調査を含め 1564 件実施している。こ の中から、平安時代の遺構や遺物包含層を検出した地点をドットで示したものが図 136 である。

図 136 平安時代遺構検出地点分布図

―135―

この図によって遺構の残存状況の大概を知ることができる。遺構検出地点は中央部で集中するも のの、全域でほぼ均等に分布する。検出地点が南北と東西に連続しているのは主要道路に沿った 開発が多く、そのためにより多く調査を実施した経過を示す。中央を南北に連なるものが千本通、

内裏南半を東西に連なるものが下立売通、造酒司から中務省に連なるものが丸太町通である。

 平安宮内では二条城内を除いて比較的一様に調査を実施してきた。しかし多数を占める立会調 査は、掘削深度が浅い場合や平面的な調査ができない制約から遺構が検出されないことが多い。

したがって、遺構検出地点は発掘調査地点と重なる場合が多い。ただし千本通や下立売通で実施 した試掘・立会調査のように遺構を多数検出し、重要な成果を得た箇所もある。

 また、平安宮内では聚楽第

註 1

および二条城が造営されており、地下遺構への影響も考えられる。

図 136 を見ると、聚楽第跡については内堀にあたる部分での遺構検出は皆無であるが、内部では 遺構の検出がみられ、造営に際しての破壊は比較的少ないようである。ただ、両城の周辺地域に おいては広範囲に再開発が行われており、地下遺構が破壊された地域も多々ある。頻繁に検出さ れる土取穴は、開発に関連する遺構といえる。

 次に宴松原にあ たる地域も遺構の 検出が少ない。こ れは、宴松原が元 来空閑地であった ためであろう。平 安宮の北西部も遺 構の検出が少ない 地域である。この 地域は小規模な宅 地開発が多いこと や、近世の再開発 に伴う撹乱が多い ことが主な要因と 考えられる。

 2 遺跡の変遷  以上、全体をみ てきたが、ここで は 概 略 的 に 平 安 時 代 を 前 期 (9 世 紀 )、中期 (10 世

紀 )、後期 (11 世  図 137 平安時代遺構検出地点分布図

紀以降 ) の 3 時期 に区分して、時期 ごとの変遷状況を みる。

 (1) 平安時代 前期 平安宮内で 検出される遺構で はもっとも多く、

比較的一様に分布 する傾向にある。

検出した遺構には 築地、回廊、建物 に伴う雨落溝や柱 穴、土壙、溝及び 整地層がある。

 発掘調査件数が 多 い 豊 楽 殿・ 内 裏・中和院・太政 官・中務省・造酒 司などで多くの遺 構 を 確 認 し て い る。遺構は聚楽第

内部にも及ぶ。朝堂院では回廊や門に伴う溝を検出している。西部では造酒司以外は少ない傾向 にある。

 中務省や造酒司においては大半の遺構がこの時期に属し、活発な活動が知れる。内裏・中和 院・中務省・主水司などで平安時代初期の土器が一括で廃棄された遺構がみられる。これらは平 安宮造営当初の状況を知る上で重要な意味をもつ。

 内裏では内郭回廊、承明門、蔵人町屋の遺構を確認している。これらの遺構は重複した状態で 検出しており、その後の変遷が理解できる具体例である。

 (2) 平安時代中期 全体に前期より出土例が少なくなる傾向にある。検出遺構は前期と同様、

築地、建物、溝、土壙などである。

 太政官跡や中務省跡では前期から引き続き遺構を検出している。宮跡の東部では検出例が少な くなる半面、西部では希薄ながら分布がみられる。

 内裏の後宮では大規模な土壙が多数検出される。この中には火災に遭った遺物が出土するもの がある。これらは内裏焼亡を検証する事例となっている。

図 138 遺構検出地点分布図 ( 中期 )

―137―

 朝堂院では前期と 同様の遺構の状態が みられる。

 (3)  平安時 代後 期 中期より遺構の 検出例はさらに少な くなる傾 向にある。

検出遺構としては溝、

土壙、整地層が主で ある。

 朝堂院では後期に なって整地層が遺構 を覆う状況がみられ、

改変が加えられたこ とが窺われる。

 内裏では南半部の みで遺構が確認され る。承明門の地鎮め 遺構群の大半はこの 時期に属し、内郭西 面回廊もこの時期ま で存続する。

 中務省や大膳職ではまとまった遺構の検出がみられるが、他の官衙ではさらに分布が希薄とな る。造酒司でこの時期にまで存続した遺構は、南面築地外溝のみであり、道路の機能だけが存続 していたことを想定させる。

 3 まとめ

 平安宮跡で検出した遺構を時期ごとに整理し、その変遷を概括した。そして、前期・中期・後 期と時代が下るに従い遺構検出地点が少なくなる傾向を指摘した。こうした遺構変遷の背景とし ては、官衙の統廃合や度重なる火災、摂関政治に伴う里内裏への移行や院政の本格的な開始など が原因として考えられ、上記した遺構の変遷は平安宮の歴史的変遷を考古学的に示したものとし て評価できる。平安宮の調査は小規模かつ制約の多い調査が大半であるが、点的に得られた調査 成果を総合的に検討することで、考古学的には新たな視点から平安宮を考察することも可能とな る。そのためにも今後のさらなる積み重ねが必要となろう。

註 1 足利健亮「聚楽第内城について」『長岡京古文化論叢Ⅱ』中山修一先生喜寿記念事業会 1992年  図 139 遺構検出地点分布図 ( 後期 )

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 153-157)

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