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朝堂院跡

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 45-55)

第 3 章 平安宮跡の調査

Ⅰ 朝堂院跡

  1  経過

 朝堂院は朝政・告朔などの政務、即位・朝賀などの儀式を行うところで、宮城中心部に位置し、

大極殿・朝堂・朝集堂からなる。南正面中央には応天門が、その左右に栖鳳・翔鸞の両楼がある。

朝堂域の北には龍尾壇があり、それによって一段高くなる。龍尾壇をのぼればすぐ左右に蒼龍・

白虎の二楼がそびえ、その北正面中央には正殿である大極殿が、すぐ北に小安殿が続く。外周は 複廊で囲まれているが朝集堂の区画は築地である。

 朝堂院は貞観 8年(866) を最初にたびたび火災に遭い、そのつど再建されるが安元 3年(1177) の焼亡後は再建されることはなかった。規模については文献や宮城図などに明確な記載がなく『大 内裏図考証』における裏松固禅の復原が一般に定着していた。昨年、平安京遷都 1200年を記念 して刊行された『平安京提要』において考古資料に基づいた復原が提示された。

 調査は、当研究所設立以前には平安博物館・古代学協会が中心となって多数行われている。そ の中で唯一、平安時代の明確な遺構を検出しているのが、昭和46年(1971) に実施された下水道 工事に伴う立会 調

文113

査である。この調査において複数の建物基壇を検出している。それらは、朝 堂十二堂の内の延禄堂と修式堂のもので、延禄堂は東西に断ち割る形で基壇を検出している。

そこでは、基壇東西端の最下部を構成する凝灰岩の延石列を数箇所で検出し、その東西幅は約 17.5m あった。また、修式堂は基壇北縁の凝灰岩延石列を東西 17m にわたり検出している

註1

。  昭和51年(1976) 研究所設立以降、朝堂院跡で実施した調査は 21 件の発掘調査 ( 内 1 件は他機 関による ) と 6 件の広域立会調査、121 件の試掘・立会調査 ( 内 2 件は他機関による ) を実施し ている。当該地には東西中央を南北に千本通、大極殿のすぐ南を東西に丸太町通という基幹道路 が走り、小店舗や住居が密集している。このため、開発の規模が狭小なことや中・近世の生活痕 跡が激しいことなどから、平安時代の遺構が検出されにくい状況にある。その中で明確な遺構検 出例は 7 件あり、それらを便宜上、朝堂院と大極殿院とに分けて説明すると、朝堂院では東・北 面回廊、朝堂十二堂のうち承光堂、明礼堂、暉章堂基壇および宣政門、応天門基壇、大極殿院で は大極殿南縁、東軒廊、北面回廊基壇などを検出している。

 2 遺構

 朝堂院および大極殿院に関する明確な遺構について述べて行く。

 1 朝堂院 朝堂院で行われた発掘調査は 15 件ある。広域の立会調査は 3 件である ( 調査 3 と した広域立会調査は 2 件の調査を 1 件として扱う )。北から順に調査番号をふり説明する。た だし、調査 2(174 付章 17)・調査 4(129 文 193-4)・調査 6(845 文 255-2)・調査 8(300 文 214-2)・調査 9(147 文 193-5)・調査 10(26 文 175-7)・調査 11(15 文 167-8)・調査 13(21 

―27―

文 167-6)・調査 14(30 文 175-8)・調査 15(1166 文 306-5)・調査 16(1240 文 307-4)・調査 18(740 付章 38) については平安時代の遺構および遺物包含層の検出がないことから、ここでは 説明を省略する。また、立会・試掘調査については平安時代の遺構および遺物包含層の検出例が 5 件あり、それらについては調査番号を 19 番からとする。

 調査 1 (1172 文 269-1 図版 18) 上京区丸太町通土屋町西入中務町 491-44 他で店舗兼用 マンション建設の計画があり、平成2年(1990)6 月 11 日に試掘調査を行った結果、平安時代の東 西方向の溝状遺構を検出した。この溝の位置は、朝堂院の北面回廊に関するものと推測され、同 年 8 月 6 日より 9 月14 日まで発掘調査を行った。調査面積は 186 ㎡である。

 調査では上記の東西溝 ( 北溝 ) とこの溝が調査区東で直角に南方向に曲がるコーナー部と南北 溝 ( 東溝 ) を検出した。東溝は検出幅約 2.0m あり、大きく 3 時期に分けられる。もっとも古い 1 期は溝の西肩部に暗茶褐色泥砂層の堆積が残り、幅 0.5m 前後を確認した。東肩部は 2 期の溝 に削平されているため、全体の規模は不明である。2 期は幅 1.0m 前後、深さ 0.2m あり、西肩部 には杭跡がある。杭跡は径 5 ~ 10cm、深さ 5cm 前後で 60 数箇所検出した。杭跡の間隔は 0.1 ~ 0.2m で北側のコーナー部でとどまる。灰褐色砂泥層が堆積し、細片の土師器や瓦が出土した。3 期は 幅 1.8 ~ 2.0m、深さ 0.3m ある。2 期の溝を東に拡げており、灰褐色泥砂層が堆積する。溝の南 半では軒瓦、丸・平瓦と共に多量の焼土が出土した。

 北溝はコーナー部と、確認のために調査区を拡張して検出した西側のものとでは 1m ほどの出 入りがあり、西側のものが北寄りで検出され、溝の標高も約 0.3m 低い。堆積土層は東溝の 3 期

北溝

東溝

SX39

Y=-23,140 Y=-23,152

X=-109,248X=-109,256

A

A A’

A’

B B

B’ B’ H:43.00m

H:43.00m

10m

図32 調査1 調査区実測図(1:200)

のものと同じ灰褐色泥砂層が堆積してい る。

東溝は朝堂院の東面回廊東縁に推定され る位置にあり、溝の幅が大きいこと、瓦が 多量に出土したことなどから据付跡ではな く東面回廊に伴う雨落溝とするのが妥当で ある。

 北溝は朝堂院の北面回廊北縁付近の位置 にあることや東溝とつながっていることか ら、北面回廊に伴う雨落溝と考えられる。

東面回廊西縁および北面回廊南縁も調査区内に想定される。SX39 が基壇内側隅部に該当する 位置にあることは注目される。

 調査 3 (81・89 付章 32) 昭和54年(1979)8 月から昭和54年(1980)3 月まで大阪ガスのガス 本管および枝管敷設替工事に伴って実施した広域の立会調査である。調査は千本通の東と西に分 かれ、東側は千本丸太町、丸太町智恵光院、竹屋町智恵光院、千本竹屋町を四隅とする地域の道 路部分で丸太町通、智恵光院通、千本通と土屋町通の丸太町通から一筋下る間での道路を除いた 地域で調査を行った。当地域の西半部は朝堂院跡に、東半部は中務省跡南辺部と太政官跡北半部 にあたる。

 朝堂院に関する遺構としては朝堂十二堂のうち承光堂北・東基壇縁、明礼堂東・西基壇縁、暉 章堂東基壇縁および東面回廊基壇東西縁、宣政門基壇東西縁を検出した。

 丸太町通下る 3 筋目 ( 千本通から土屋町通 ) の京都市保健衛生専門学校の北側道路で、承光堂 跡の東縁 ( 図版 8 の 3-5) と北縁 ( 同 3-6) の凝灰岩列を確認した。基壇の規模は不明であるが、

北縁の凝灰岩切石の高さは 15cm ほど遺存していた。東縁の凝灰岩列はかなり破壊された状況で あったが幅 24cm、高さ 10cm ほど遺存していた。基壇での版築は認められなかった。

 竹屋町通の南歩道では、明礼堂と暉章堂跡の基壇を検出した。

 明礼堂跡の基壇西縁と階段部分 ( 同 3-11) および東縁の凝灰岩列の抜取跡 ( 同 3-10) を確認し た。階段は明礼堂の西側最北部のもので、その北辺部にあたる。階段部の石列外面は建物基壇端 から西へ 1.13m 突出していた。階段部の石列は長さ 75cm、幅 38cm、高さ 17cm の切石を使用して いた。建物基壇の切石は幅 27cm ある。この石列の東約 18m で幅 30cm の石列抜取跡が認められた。

さらにこの西側で暉章堂跡の基壇東縁 ( 同 3-12) を検出した。凝灰岩の切石は幅 35cm、高さ 14cm あり、上の面は外側 26cm が段をなして削りこまれている。石列の外側には小礫と凝灰岩粉 末の混じる茶灰色土が堆積していた。

 調査 1 の南にあたる、丸太町通下る一筋目と土屋町通の交差点付近で東面回廊基壇東・西縁を 検出した。東縁 ( 図版 7 の 3-1) では凝灰岩列を南北 4.0m にわたって検出したが、北へ行くほど 遺存状況は悪くなっていた。西縁 ( 同 3-2) では幅 55cm の凝灰岩列抜取跡を検出した。この結果、

 写真 1 調査 3 明礼堂階段部検出状況 ( 西から )

―29―

東 西 回 廊 基 壇 幅 は 約 12.0m あ っ た。

 丸太町通下る三筋目と土屋町通 の交差点付近で宣政門基壇の東・

西縁の石列を検出した。東縁の石 列 ( 図版 8 の 3-3) は凝灰岩切石 で長さ 90cm、幅 34 ~ 38cm、高さ 30cm が遺存していた。この内側 に幅 30cm の掘形がある。西縁 ( 同 3-4) はやや残りが悪く、切石は

現存幅 16cm、高さ 15cm で、掘形はわずかに認められるものの明確ではなかった。この基壇東西 幅は石列外縁間で 12.5m である。

西側での調査は聚楽廻中町における道路部分で実施した。ここでは、修式堂の基壇北縁 ( 同 3-14) の凝灰岩を検出した。検出地点は、昭和46年(1971) に検出した修式堂基壇北縁凝灰岩石列 の西にあたる。

なお、この調査は付章 32 で掲載している。

 調査 5 (1462 文 308-1 図版 19) 京都市上京区竹屋町通千本東入主税町 1202 番地で平成 6年(1994)2 月 1 日から 3 月 18 日まで発掘調査を行った。調査地点は調査 3 で検出した宣政門基 壇東西縁検出地点から北約 10m にあたる。調査対象面積は 63 ㎡である。

 調査では基壇東端を示す凝灰岩石列および凝灰岩抜取跡 2 箇所、基壇西端の凝灰岩抜取跡を検 出した。東端の凝灰岩石列は基壇検出面より約 0.4m 低い位置で南北 1.7m 分を検出した。石列上 面の西辺には幅 6 ~ 11cm の平坦な加工面が残り、この部分に別の石が積み重ねられていたと考え られる。これより東側は摩滅によりゆるく傾斜していた。切石の平面形はほぼ正方形に近く、一 辺 40 ~ 46cm、高さ 11cm ある。抜取跡 3 は石列の西に並行しており、幅 0.40 ~ 0.45m ある。凝灰 岩片および薄い膜状の凝灰岩痕跡がある。抜取跡 2 は基壇上面から 0.2m 下がった位置で検出して いる。東西幅 0.4m あり、底部には凝灰岩片が密集していた。基壇西端の凝灰岩抜取跡 1 は調査区 西壁に位置し、全体を確認することができなかった。ただし、抜取跡の東肩口および南東隅部に ついては、部分的ながらも検出することができた。検出規模は東西 0.7 ~ 0.8m、南北 3.2m ある。

 検出した抜取跡 1 東肩口と抜取跡 2 西肩口間が 12.05m あり、これが宣政門基壇東西幅と考えら れ、調査 3 で検出した基壇東西縁の延長上にある。抜取跡 2 より東約 0.8m で検出した凝灰岩列は 撹乱などで削平され、検出した範囲が狭いこと、凝灰岩を用いた同じような造作をした遺構の検 出例がないことから、この遺構の性格をどのように判断するか難しい状況にある。ただし、検出 した基壇が位置的に門であることが明らかなことから、これを門の階段とするのが妥当であろう。

 調査 7 (118 付章 14) 調査 5 の 15m ほど南東で行った発掘調査で、東面回廊のすぐ西にあ たる。調査面積が狭小であるが、平安時代の遺物包含層を検出することができた。なお、詳細に

土壙10 抜取跡3

抜取跡2 抜取跡1

Y=-23,140 Y=-23,148

X=-109,372

H:41.50m A’

A’

A

A

4m

図33 調査5 調査区実測図(1:200)

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 45-55)

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