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朝堂院跡

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 170-200)

第 4 章 考 察

14 朝堂院跡

 経過 上京区千本通丸太町下る東入主税町に所在する京都市児童福祉センターの敷地内に防火 水槽が建設されることになり、事前に発掘調査を実施した。調査地点は朝堂院東面回廊の西、朝 堂十二堂のうちの一つである承光堂の東に位置することが想定でき、関連する遺構の検出を目的 として調査を実施することとした。調査区は東西 5.8m、南北 4m に設定し、調査面積は 23 ㎡である。

調査は昭和55年(1980)1 月 16 日から同 25 日までに実施した。

 遺構 調査では平安時代に属する遺物包含層と、江戸時代に属する土壙、溝などを検出した。

平安時代の遺物包含層は厚さ約 0.2m 確認することができた。江戸時代の土壙は当該地周辺の地 山であるいわゆる聚楽土を対象とした粘土採取目的の土取穴と考えられる。溝はこの土取穴の上 面で検出したもので、北東から南西方向に延長する。検出面での規模は幅約 1.5m、深さ 0.5m ある。

遺構の重複状況や出土遺物から溝の成立時期は江戸時代後半頃と考えられる。

 遺物 遺物は遺物整理箱で 1 箱出土し た。大半は土取穴から出土したものであ る。遺物内容は平安時代に属する瓦の他 に、江戸時代に属する陶器、磁器などが 出土した。

 小結 結果的に、朝堂院承光堂に伴う 遺構は検出できなかった。調査地が建物 や門の位置には該当していないと考えら れる。しかし平安時代に属する瓦類など の遺物は少量ながら出土しており、周辺 の調査には十分期待されるところであ る。

土壙

コンクリート 北側溝

道路

フェ

2m

図153 付章14 調査区平面図(1:100)

 15 中務省跡 (119 図版 90)

 経過 調査地点は中務省内北半、内舎人に該当する。民家改 築に伴い発掘調査を実施した。中務省における既往の調査から 当該地周辺の遺構の遺存状況は良好であることは判明している。

 遺構 基本層序は現地表面から現代積土層が厚さ 0.1 ~ 0.32m、

現代積土層下には茶灰色泥砂 ( 平安時代後期・厚さ 0.1 ~ 0.32m)、

茶灰色砂泥 ( 平安時代中期・厚さ約 0.2m)、茶褐色砂泥 ( 平安時 代前期・厚さ 0.2 ~ 0.3m) などの遺物包含層や整地土層が堆積す る。

 検出した遺構は、平安時代に属する溝・建物・土壙などと古 墳時代後期に属する土壙がある。

 溝 16 は調査区北端で検出した東西方向の溝で、中務省北面築

地内溝と考えられる。北肩口は調査区外にあり、検出面での規模は現存幅 3.1m、深さ 1.2m。平 安京Ⅰ期に属する遺物が出土した。

 土壙は 5 基検出した。主要なものを示すと、土壙 12 は溝 16 の南肩口に接する箇所で検出した。

平面形は南北に長い楕円形を呈し、検出面での規模は長径 2.2m、短径 1.8m、深さ 1.15m ある。

壙底に密着した状態で長径 0.16 ~ 0.4m の川原石および完形に近い丸・平瓦などを検出した。土 壙 18 は大半が削平を受けており、検出面での規模は現存幅 1.8m、深さ 0.2m ある。平安京Ⅰ期 に属する遺物とともに墨書土器「内舎人」が出土した。

 東西棟礎石建物に伴う礎石据付穴は 3 基検出した。柱間は 1 間約 3.3m ある。据付穴の平面形は 歪な楕円形を呈し、据付穴内には根石が複数個遺存する。検出面での規模は長径 0.8 ~ 1.1m ある。

 古墳時代後期に属する遺構には土壙が 3 基ある。大半は調査区外に広がり、全体の形状のわか るものはない。検出面での規模は現存長 0.9 ~ 2.3m、深さ 0.2m ある。

 遺物 遺物整理箱で 40 箱出土した。平安時代前期から後期に属する遺物と古墳時代後期に属 する遺物がある。平安時代に属する遺物は大半が瓦である。土器類では土師器・須恵器・黒色土 器・緑釉陶器・灰釉陶器などがある。このうち、墨書土器「内舎人」

は須恵器杯蓋外面に墨書したものである。内面には朱が遺存する。

 瓦では丸・平瓦、軒丸・軒平瓦、甎がある。古墳時代の遺物には 土師器、須恵器、鉄製品がある。

 小結 溝 16 はこれまでの調査研究成果から中務省北面築地内溝 としてよい。礎石建物は昭和58年(1978) 度 ( 中務省調査 3) に検出 された建物 ( 西妻部 ) の東妻部を検出したことになる。平安宮にお ける全体のわかる建物の検出例は造酒司に次いで 2 例目であり、特 筆に値する調査成果である。一方、墨書土器「内舎人」は当該地が 内舎人であることを補強する考古資料であり、平安宮内における官

1m

図155 付章15 土壙12平面図 (1:40)

土壙12 溝16

土壙11

土壙18

礎石 1 現代積土2 茶灰色泥砂 3 茶灰色砂泥4 土壙11 5 茶褐色泥砂6 土壙18  溝16 東壁1

35 4 12

6

5m

図154 付章15 調査区実測図 (1:200)

―153―

衙名を墨書した土器の初例である。

16 太政官跡 (156 図版 91・92)

 経過 調査地は平安宮太政官に推定される箇所である。京都市立児童福祉センターの建築に 伴って発掘調査を実施した。太政官内には正庁のほかに勘解由使・文殿・朝所などの官衙が付属 するとされ、当該地は太政官正庁から文殿にかけての地域に該当する。太政官の調査は 5 箇所で 行われているが、小規模な調査面積のため明確な遺構の検出例は少ない。今回の調査予定地は比 較的広い調査面積であるため、遺構の検出が期待できた。調査の結果、平安時代と江戸時代に属 する遺構を検出した。

 遺構 調査区の基本的な層序は、現地表から旧児童院造成時の積土層が 0.7 ~ 1.0m、積土層 下に近世以降の旧耕作土層と考えられる黒褐色砂泥層が 0.3 ~ 0.5m、旧耕作土層下に地山の黄 褐色粘土層・黄褐色砂礫層が堆積している。各遺構は地山の上面で検出した。

 検出した遺構は大半が江戸時代に属し、土取穴・井戸・溝などである。

 平安時代に属する遺構には溝と土壙がある。調査区西端部は東より一段高く、その段上で東西 方向の溝 6 を検出した。溝 6 は幅が 1.5 ~ 1.8m、深さ 0.3 ~ 0.45m あり、埋土は上層が暗茶褐 色砂泥層、下層が茶褐色砂泥層である。その段差の東側は削平され、溝 6 は連続しない。土壙 62・69・80 は平安時代前期に属する土壙である。平面形は楕円形を呈し、検出面での規模は径 2.0 ~ 3.0m、深さ 0.2 ~ 0.4m ある。土壙 47 は東側が調査区外に延び規模が不明であるが、検出 面での規模は深さ 0.4 ~ 0.5m あり、平安時代の瓦が多量に出土した。

 遺物 遺物は整理箱で 340 箱出土した。もっとも多い遺構は平安時代の瓦で、次に平安時代の 土器類や江戸時代の土器類がある。平安時代の瓦は調査区全域から出土し、土壙 47 からまとまっ て出土した ( 図 157)。搬入瓦として平城宮式 (1・2) があり、他に平安時代前期の芝本瓦窯 (3・

11)、同中期の栗栖野瓦窯 (5)、同後期の播磨魚橋瓦窯 (13) などの軒瓦がある。平安時代の土器 には土師器・須恵器・黒色土器・緑釉陶器・灰釉陶器などがある。

 小結 調査区は太政官の南西部に位置し、文殿が想定できる地点であるが、建物遺構は検出で きなかった。ただし東西方向の溝 6 は何らかの区画を示す溝の可能性がある。平安時代の遺物包 含層はみられず、堆積状況からみて一帯が近世以後に大規模な削平を受けたと推測される。瓦の 出土量は多く、近辺に瓦葺き建物があったことは疑いない。

土壙80 土壙62 溝6

土壙47 土壙69

10m

図156 付章16 調査区平面図(1:300)

図 156 付章 16 調査区平面図 (1:4)

―155―

 17 朝堂院跡 (174)

 経過 中京区聚楽廻東町 7 に所在する二条保育園で園舎改築が計画された。当該地は平安宮朝 堂院の龍尾壇、延休堂に近接しており、それらに伴う遺構、遺物の検出が予想された。このため 発掘調査を実施することになり、昭和55年(1980)9 月 25 日から 10 月 22 日にかけて調査を実施 した。調査区は東西 19m、南北 9m の範囲に設定し、調査面積は 181 ㎡である。

 遺構 調査では江戸時代に属する土壙、溝、柱穴などを検出した。土壙は調査区西側で検出した。

平面形は不定形を呈し、東西長約 3m、南北長約 3m、深さ約 0.5m ある。平安時代に属する多量の 瓦を包含するが、下層で江戸時代初期に属する土師器皿片が出土しており、江戸時代初期の土壙 と判明した。溝は調査区東側で検出した。北東から南西方向を示し、幅約 4m、深さ約 1.2m ある。

地形的に判断して人工的な開削溝と考えられ、出土遺物からは、江戸時代後期に埋没したとみら れる。柱穴は溝の東肩付近に集中して検出したが、建物としてまとまるものではない。

 遺物 遺物には平安時代のものと江戸時代のものがある。大半は平安時代の瓦類であり、平安 時代前期から中期に属する。土器類は、土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器がある。瓦類は、

丸・平瓦が主体であるが、軒丸・軒平瓦、鬼瓦、鴟尾、緑釉瓦などが 100 点以上ある。江戸時代 の遺物は少量で、陶器・磁器、瓦などがある。

 小結 土壙は聚楽土採取のための土取穴と考えられ、埋め戻し時に不要な瓦類などを投棄した ものと想定できる。

 今回の調査では朝堂院に伴う遺構は検出できなかったが、出土瓦は朝堂院に葺かれたものであ り、朝堂院の研究に新たな資料を提示できたと考えている。

土壙

土壙

敷地境界

10m

図158 付章17 調査区平面図(1:200)

 18 中務省 - 大炊寮跡 (235 図版 93・94)

 経過 丸太町通の土屋町通から松屋町通間で上下水道工事が行われることになり、7 箇所の竪 坑部分について調査区を設定し発掘調査することになった。調査区は西側から順次 1 区、2 区と 命名した。調査は 2・4・6 区を同時に開始し、次いで 1・5・7・3 区の順に実施した。調査は昭 和51年(1981) 5 月 31 日に開始し、同年 7 月 12 日に終了した。調査区の合計面積は約 250 ㎡である。

調査区設定地点は中務省跡から大炊寮跡におよぶ。中務省跡ではこれまでに建物や溝などが多数 検出され、主水司では東面築地に伴うと考えられる遺構が検出されるなど、調査対象地域の遺存 状態は良好であることが知られる。

 遺構 1 区は中務省の被官である内舎人の西半域に該当する。

 この調査では瓦溜と東西方向の柱列を 3 条検出した。北側の柱列の柱穴は平面形が方形を呈し、

一辺約 0.8m ある。南側の柱列の柱穴は平面形が方形ないし円形を呈し、長軸約 0.5m ある。柱列 1・2 の柱間は共に 2.8m、柱列間は 3.0m ある。柱列 3 の柱間は 2.7m ある。これらの柱列は内舎 人に伴う建物の柱列と考えられる。

 瓦溜は調査区南東隅で検出した。北肩口は削平を受け、東・南へは調査区外へ広がる。検出面 での規模は現存東西幅 2.2m、同

南 北 幅 2.4m、 深 さ 0.4m あ る。

平安時代に属する瓦が多量に出 土した。

 2 区は内舎人 - 監物間東寄り に該当する。

 調査では平安時代の溝 1 条と 古墳時代後期の竪穴住居を検出 した。

 平安時代の溝は、南北方向を 示しており、南は削平を受け、

北 は 調 査 区 外 へ 延 長 す る。 検 出面での規模は北端幅 0.5m、南端幅 0.9m、深さ 0.1m ある。検出位置から 溝は監物西面築地の内溝になると思わ れる。

 竪穴住居は北隅を検出、壁溝と主柱 穴三箇所を確認した。検出面での規模 は、現存幅 4.9m、壁溝幅 0.2m ある。

主柱穴間の柱間はそれぞれ 3m、2.2m ある。床面に密着した状態で土師器

瓦溜

柱列2 柱列3 柱列1

Y=-23,110 Y=-23,105

X=-109,235

4m

図159 付章18 1区平面図(1:100)

竪穴住居 ()

Y=-23,050 Y=-23,045

X=-109,237

4m

図160 付章18 2区平面図(1:100)

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 170-200)

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