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平安宮の復原

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 148-153)

第 4 章 考 察

Ⅰ 平安宮の復原

 第 3 章で各官衙における平安時代の出土遺構を網羅し、ある程度の復原を試みた。ここでは新 たな知見を得た朝堂院と豊楽院、内裏などについて現状での復原案・復原図を示していきたい。

 復原にあたっては宮中軸線と宮南面築地心からの位置を基本とするが、ここでいう宮中軸線と は条坊復原における朱雀大路中心線の延長ラインを、宮南面築地心とは二条大路北築地心をいう。

 なお、宮の造営に際しては計画位置と実際の施工位置に誤差があったことが想定できるので、

検出遺構から得られる数値が端数を含む場合は本来が整数値であった可能性も考えられる。また、

九条家本および陽明文庫本などの「宮城図」には官衙や建物の規模を表す丈数や間数が書き込ま れており、これらの数値も考慮しながら復原していく。

 1 朝堂院

 大極殿院、朝堂域 ( 朝堂十二堂を囲む空間 )、朝集堂域 ( 朝集堂を囲む空間 ) に区別する。

 (1) 大極殿院 北面回廊、東軒廊、大極殿の遺構を検出した。

 北面回廊は南縁・北縁を確認し、幅は 4 丈である。その南北心は宮南面築地心から北へ 597.25m(200 丈 ) に位置する。中御門大路宮内延長心から北へ 17 丈分張り出している。

 東軒廊は南縁・北縁を確認した。その心 ( 大極殿南北心 ) は宮南面築地心から北へ 543.50 m (182 丈 ) に位置し、北面回廊心から南へ 18 丈に位置する。

大極殿は南端を検出しており、その位置は宮南面築地心から北へ 528.00 m (177 丈 ) にある。

検出位置が宮中軸線上にあることから、大極殿の南縁というよりは中央階段の南縁と考えられる。

このため、大極殿基壇の南縁はさらに 1 丈分北と考えられ、南北心から南 4 丈の位置となる。こ れより大極殿の南北幅は 8 丈になる。

 大極殿院南北幅は、朝堂域の北面回廊が宮南面築地心から北に 162 丈 8 尺の位置にあることか ら、37 丈 2 尺の数値が得られる。この数値から大極殿院北面回廊心 - 東軒廊の数値を引けば 19 丈 2 尺となる。柱間 1 間 12 尺で割れば 16 間分となり、指図記載の「十六間」とも矛盾しない。

 小安殿および大極殿院東・西面回廊に関しては考古学的には全く手掛かりを得ていない。この ため、指図や従来の研究 ( 分 293) などに頼らざるを得ない。それらにおける妥当な数値は大極 殿院東西幅 42 丈 4 尺、小安殿の南北幅 4 丈 2 尺、大極殿北縁から小安殿南縁までの距離 4 丈で ある。この数値は北面回廊の位置、大極殿の南中央階段の位置、大極殿心の位置などから考えて も矛盾することがないため、ここでもこの数値を採用する。

 (2) 朝堂域 東面・北面・南面回廊、宣政門、朝堂十二堂では延禄堂、修式堂、承光堂、明礼 堂、暉章堂跡の一部を確認した。

 東面回廊基壇幅は 11.60 ~ 11.80m で 4 丈の規模と考えられる。また、東面回廊心は計算上で

は宮中軸線より東へ 96.73m(32 丈 4 尺 ) となる。北面回廊の位置は北雨落溝南肩 ( 基壇北縁 ) が 宮南面築地心から北へ 491.85m(164 丈 4 尺 ) にある。宣政門基壇は東縁・西縁を検出し、その位 置は西縁が宮中軸線から東へ 90.76m(30 丈 4 尺 ) に、東縁が 103.7m(34 丈 6 尺 ) にある。

 東面回廊心は宮中軸線から 32 丈 4 尺 と調査成果ではなっているが、指図の 記述にある北面回廊東西柱間などを考 慮に入れると 32 丈という数値が妥当で あり、東・西面回廊心々間は 64 丈とす る。宣政門の基壇西縁は東面回廊西縁 と同位置にある。東縁は回廊東縁より 2 尺東に出る。

  延 禄 堂 の 東 西 基 壇 縁 は 宮 中 軸 線 か ら 西 へ そ れ ぞ れ 58.90m(19 丈 7 尺 )、

76.50m(25 丈 6 尺 ) である。明礼堂も東 西縁を確認しており、その位置はそれ ぞ れ 宮 中 軸 線 か ら 東 へ 76.95m(25 丈 8 尺 )、59.25m(19 丈 9 尺 ) の位置にある。

延禄堂および明礼堂の南北規模は、指 図から修式堂・暉章堂の北縁から永寧 堂・康楽堂の南縁までと同じと考えら れ、21 丈 3 尺となる。

 修式堂は北縁を確認しており、その位 置は宮南面築地心から北へ 303.80m(101 丈 8 尺 ) となる。

  承 光 堂 は 東 縁 と 北 縁 を 検 出 し て お り、その位置は東縁が宮中軸線から東 へ 77.70m(26 丈 )、北縁は宮南面築地心 か ら 北 へ 354.30m(118 丈 7 尺 ) の 位 置 にある。南北については承光堂および 修式堂の基壇北縁が明らかとなってお り、この南北間は 16 丈 9 尺である。指 図によれば、修式堂北縁は延禄堂・暉 章堂・明礼堂の北縁と一致し、承光堂 -明礼堂間は「四丈」とするため、承光

堂の南北幅は 12 丈 9 尺となるが、ここ  図 135 朝堂院復原図

―131―

では 13 丈の数値となる。

 暉章堂は東縁を検出しており、宮中軸線より東へ 49.25m(16 丈 5 尺 ) の位置にある。暉章堂の基壇西縁 は未検出であるが、指図には内側四堂の内側基壇間の 距離を「十一丈三尺」と記している。この半分 5 丈 6 尺 5 寸が基壇西縁の位置となる。ただし、ここでは 5 丈 6 尺の値を採用する。基壇東西幅は 11 丈とする。

 含章堂・含嘉堂は承光堂および顕章堂と規模は同じ である。

 最北の昌福堂・延休堂は棟方向の違いはあるが、内

側の四堂と同じ規模を有することが指図より考えられ、南北幅は 11 丈となる。

 朝堂十二堂の配置についてまとめると、これらは宮中軸線をはさみ左右対称であったとされる。

外側八堂は、建物の東西幅は 6 丈、その位置は宮中軸線から内側が 20 丈、外側が 26 丈である。

堂の外側から回廊まで 4 丈となる。次に、暉章堂の基壇東縁成果から内側四堂と外側八堂の空間 は 3 丈 4 尺となる。また、昌福堂・延休堂の基壇北縁 - 龍尾壇間には「七丈三尺」の書き込があり、

龍尾壇の位置は宮南面築地心から 158 丈北に位置する。指図の朝堂域の東面回廊北端にある「二 間」という数値は東面回廊がはじまる最初の柱からのものといえ、北面回廊心からは柱間 4 間分、

4 丈 8 尺南が龍尾壇の位置となる。

 朝堂域の南面回廊は未検出であるため不明であるが、指図における宣政門南 - 南面回廊間の柱 間数「三十三間」から、柱間 1 間の 12 尺とすれば 39 丈 6 尺の数値を得ることができる。ただし、

この位置に回廊心を求めると、延禄堂および明礼堂の南縁から南面回廊北縁までの距離が 2 丈と なり狭過ぎる嫌いがある。この「三十三間」の記載は南面回廊北柱筋に至るまでのものと想定でき、

回廊心には 2 間分が不足する。このため宣政門南 - 南面回廊間は 35 間、42 丈となろう。したがっ て、朝堂南面回廊心は宮南面築地心から北へ 74 丈の位置になる。南面回廊幅は東面回廊と同様 の規模と考えられ、4 丈とすると、回廊北縁と延禄堂・明礼堂南縁の空間は 4 丈 4 尺になる。

 (3) 朝集堂域 朝集堂域では築地、回廊、建物遺構は未検出である。このため指図に頼るが、

朝集堂は朝堂北二・三堂と同規模に表わされていることから東西 6 丈、南北 13 丈とする。朝堂 南面回廊南縁と朝集堂北縁との間は「六丈」の書き込みがある。朝集堂南縁から朝集堂南面築地 までは「七丈八尺」の書き込みがある。

 朝集堂を囲む施設は東西面と南面の一部が回廊ではなく築地として描かれる。ただし、内裏や 豊楽院の指図では築地は一本線で表わされているが、ここは二本線で表わされている。通常の築 地ではなく、特殊な築地になっているのではないだろうか。指図では、南東隅に「六尺」の記述 が見えるが、これは垣半ととられる。なぜならば、九条家本の指図では大極殿院北面回廊東縁に「二 丈五尺五寸」と記されており、この数値は回廊北東隅対角線の何らかの寸法の半分と考えられる ためである

文293

。また、『延喜式』左右京職の京程では築地規模は垣半としている。そのため築地規 写真 8 朝堂院北東隅部の書き込み ( 陽明文庫 )

模は 1 丈 2 尺と考え、築地東・西外縁が朝堂東・西面回廊心に、築地内縁が内側柱列に一致する。

結果、朝集堂南縁から築地南縁までは 9 丈となり、朝堂域の南面回廊心から 30 丈の位置となる。

また、この位置は宮南面築地心から北へ 44 丈のところにあり、冷泉小路北築地延長心と一致する。

 東西に関しては宮中軸線から朝集堂内側まで「廿丈八尺」の記載がある。朝集堂の東西幅が 6 丈であることから朝集堂外側から築地までは 4 丈の空間となる。

 応天門は朝集堂域南面回廊心にあることから、位置は宮南面築地心から北へ 44 丈にあり、朝 集堂を囲む築地南縁の延長と同一となる。応天門からは「十間」分東西に回廊がのび、さらにそ こから「八間」分南にのび栖鳳楼・翔鸞楼へとつながっていた。

 以上が考古学的な成果と指図や従来の研究成果などを根拠にした朝堂院の復原である。推測を も含めたものであるが現状の案とする。

 最後に、平城宮跡では大極殿院で 3:4 という比率の利用が報告されている

註 1

。平安宮跡の場合 は宮東西幅 (384 丈 ) と朝堂院東西幅 (64 丈 ) の関係が 6:1 という比率を示し、平城宮跡と同様 であることは指摘されているが

文293

、3:4 の比率は報告されていない。大極殿院内にこの比率をあ てはめることはできないが、大極殿院北心から龍尾壇に至る距離と宮中軸線から朝堂域の東・西 面回廊心までの間の距離は 24 丈:32 丈で、3:4 の比率になることが指摘できる。

 2 豊楽院

 豊楽院では、豊楽殿、豊楽殿より東に延びる廊・栖霞楼、北廊、東面築地内溝を検出し、豊楽 院北部の様相が明らかとなりつつある。

 豊楽殿の東西心は宮中軸線から西へ 206.90m(69 丈 3 尺 )、基壇西縁の延石抜取跡心は宮中軸 線から西へ 229.88m(77 丈 )、基壇北縁は宮南面築地心から北へ 471.93m(158 丈 1 尺 ) に位置す る。東に延びる廊の北縁および栖霞楼北縁はほぼ同じ東西線上にあり、宮南面築地心から北へ 469.90m(157 丈 4 尺 ) にある。東面築地内溝心は宮中軸線から西へ 124.91m(41 丈 9 尺 ) にある。

豊楽院の東西幅は、東西築地心が内溝心から 1 丈東と考えられるため 57 丈とする。豊楽殿の 規模は東西幅 15 丈 3 尺、南北幅 7 丈 6 尺である。豊楽殿から東に延びる廊北縁の延石は、栖霞 楼に推定できる延石とほぼ同位置で検出したことから、造営当初は北面廊のみが存在し、のちに 栖霞楼が造られた可能性がある。廊の北縁位置は豊楽殿北庇柱列から北へ 6 尺にある。廊幅が 4 丈であるなら、廊心は豊楽殿身舎北側柱列と一致する。

 3 内裏

 内裏関係では内郭西面回廊、内郭東面回廊、承明門の位置が確認されている。このほかに、外 郭西面築地、蔵人町屋東・南雨落溝、登華殿東雨落溝および蘭林坊で溝を検出している。

 内郭西面回廊は東西基壇縁を検出しており、その基壇幅は 10.50m(3 丈 5 尺 ) である。回廊心 は宮中軸線から東へ 102.77m(34 丈 4 尺 ) の位置にある。また、内郭西面回廊の東雨落溝は宮中 軸線から東へ 107.93m(36 丈 2 尺 ) にある。内郭東面回廊は西縁地覆石を検出しており、その位 置は宮中軸線から東へ 265.70m(89 丈 ) である。

 内郭南面中央にある承明門では北雨落溝および門心の北延長線上で一列に並ぶ地鎮め遺構を検

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