• 検索結果がありません。

地形断面からみた省庁の占地

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 157-160)

第 4 章 考 察

Ⅲ 地形断面からみた省庁の占地

―139―

 2 東面断面

 図 140 に示した東面断面は、大極殿の中心を東と西に延長したもので、京内東西大路である中 御門大路の宮内延長道路のほぼ中心線にあたり、東は大宮大路に面して待賢門が、西は西大宮大 路に面して藻壁門が存在する。大極殿院の東側は、中務省の北側、西院・主水司と西雅院の間、

大膳職と東雅院の間を通り待賢門に至る。また、西側では豊楽院の北側、典薬寮と造酒司の間、

左馬寮と内匠寮の間を通り藻壁門に至る。

 現地表面が比較的平坦であるのに対して、地山上面はかなり起伏が著しいことがわかる。距離 と標高の比率を変えているため、かなり凹凸が強調されているが、いくつかの小規模な尾根状を 呈する地形と谷状を呈する地形の存在が指摘できる。尾根状地形の標高は 43m 前後にあり、谷状 地形の標高は 42.5m から 41m とさまざまである。

 まず、図示した大極殿院の範囲では、大極殿院の東西両側には谷状の凹地が存在しており、正 殿である大極殿はその間の高まりに立地していることがわかる。

 次に、大極殿院から東に目を転ずれば、大極殿院の東側の凹地から東へ徐々に高まり、中務省 の北側にあたる地域となる。この高まりは東へ緩やかに低くなり、西院・主水司と西雅院の間に あたる地域が最も低くなって、大膳職と東雅院の間に当たる地域でやや高くなる。宮域を出てさ らに東行すると、堀川西岸の自然堤防で一旦高まり、堀川に向かって急激に下がるものと思われ る。

 一方、大極殿院の西には、尾根状地形があり、豊楽院の北側地域にあたる。豊楽院の正殿であ る豊楽殿は、この高まり上に立地している。豊楽院の西部から西の造酒司 - 典薬寮の東半部はこ の東西断面では最も深い谷状地形があり、その西半部から内匠寮 - 左馬寮の東部には高まりがみ られる。そのさらに西については、東側と同様に西堀川 ( 紙屋川 ) 東岸の自然堤防の高まりがあ り、西堀川に向かって急激に下がるものと想定できる。

 以上、大極殿院の東西両側は中御門大路の延長道路であるが、その断面は道路に面して南北に 占地する各省庁の地形を少なからず表しているものと考えられる。

 3 まとめ

 最後に南北と東西それぞれの断面図から読み取れたことを記してまとめに代えたい。

図 140 平安宮地形断面図 ( 上線は現地表面、下線は地山上面 )

まず、南北断面については図に示されたように、この軸線上に占地する省庁は、内膳司・采女町 が比較的急斜面に立地するほかは、いずれも比較的平坦面に立地している。また、傾斜の変換点 とした箇所は、ほぼ各省庁の間に位置することがわかる。

 たとえば、大極殿院と朝堂院の関係をみれば、大極殿院北端の昭慶門から大極殿の南まで平坦 面があり、龍尾壇を介して朝堂院域へ達する。この地点付近に変換点が認められる。この龍尾壇 の南には小平坦面があり、約 0.5m の段差をもって次の緩やかな傾斜面へ移行する。朝堂院域は 北半が緩やかな傾斜、南半は平坦面を形成しており、会昌門付近に変換点がみられ、緩やかな傾 斜で南端の応天門へと続く。龍尾壇の南でみられる小平坦面は、東西第一堂までの空間を示すも のであろう。資料がさらに増加すれば、ほかの省庁においても同様の小平坦面が明らかとなり、

造成工事の実体が把握できるものと思われる。

 一方、東西断面については、大極殿院は高まりの上に立地していることが明らかであり、その 東西両側の断面に示された高まりは、ほぼその道路の南北に占地する豊楽殿や各省庁の位置と一 致していることが指摘できる。つまり、豊楽殿や各省庁はそれなりに高まった地形の上に立地し ており、谷状地形はおおむねそれらの間に存在しているといえる。なお、第 2 章第 2 節で述べた 平安宮造営以前の遺跡のうち、大極殿院の東側の地域は竪穴住居をはじめとする古墳時代後期の 集落域にあたり、この集落は緩やかに南東へ傾斜する範囲に立地していることがわかる。

 図 140 の基となった図 4 は、平安宮内の 1,500 件を越える調査成果による地山標高を基に作成 された等高線図であり、比較的平安宮造営時に近い地形を示すものと考えられる。しかし、平安 宮の造営も含め、それ以降に深く地山が掘削された場合には、等高線の乱れとして如実に現れて くる。少なくとも、近世には宮域の北東部に聚楽第が、同南東部に二条城が造営されており、ま た宮内で多くみられる地山 ( 黄褐色系粘土のいわゆる聚楽土 ) は壁土に適することから深く採土 されている箇所もある。聚楽第および二条城には大規模な堀が開削されており、等高線に少なか らずその影響が現れていることは、第 2 章第 1 節に述べたとおりである。

 以上、地形断面図の検討を通して宮内諸省庁の占地について述べた。今後調査を重ねることで 地山標高の資料が増加すれば、さらにきめ細かな旧地形の復原が可能になることは確実で、小規 模な調査の継続が平安宮の立地・構造を理解するうえでいかに重要であるかを強調して、本節の まとめとしたい。

―141―

付章 未報告調査の概要

 当研究所では、昭和51年(1976) の設立以来、平安宮跡における調査を継続してきた。その調 査成果については、文化庁国庫補助事業による調査報告書である『平安京跡発掘調査概報』、同

『京都市内遺跡試掘立会調査概報』、『京都市内遺跡立会調査概報』、当研究所の年次報告書である

『京都市埋蔵文化財調査概要』、ならびに当研究所の節目にあたる設立 5・10 周年には『平安京跡 発掘資料選』を刊行し、逐次報告を行ってきた。

 しかし、一部ではあるが当研究所の刊行物に収録されなかった未報告の調査事例がある。そ れらは、当研究所の年次報告が未刊行な昭和51年(1976) ~昭和55年(1980) 度の調査、ならびに 平成5年(1993) 度以降の調査のうち文化庁国庫補助事業によらない調査で、発掘調査 20 件、試 掘・立会調査 25 件がある。この章では、これらを発掘調査、試掘・立会調査に分け、年度順に その概要を示すこととした。

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 157-160)

関連したドキュメント