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平安宮造営以前の遺跡

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 30-45)

第 2 章 平安宮跡の立地と造営以前の遺跡

Ⅱ 平安宮造営以前の遺跡

1  宮域の下層遺跡

 平安宮域において造営以前の遺跡として周知されているものには、聚楽遺跡と二条城北遺跡が ある

註1

。前者は、宮域の南東部に位置する古墳時代後期を中心とした集落遺跡である。後者は、宮 域の東部から左京二条二坊域に位置する縄文時代から弥生時代の遺物散布地とされている。

これまで当研究所が平安宮跡を対象として行った 1,560 余件の調査のうち、造営以前の遺構・

遺物を検出した調査は 29 件あり、研究所以外の機関による調査では 3 件が確認されている ( 図 5)。

これら宮域内の調査については、第 2 項で個別に調査成果を述べる。

 また、宮造営以前の遺構・遺物を考えて行く上では、後世の遺跡である平安宮跡の範囲で下層 遺跡を括ってしまうわけには行かない。そこで第 3 項では、対象とする範囲をやや拡げ、平安宮 跡周辺部の調査で検出した遺構・遺物についても検討を加える。

図 5 下層遺跡調査位置図 (1:10,000)

400m

 2 下層遺跡の調査

 本項では、宮域内の調査で検出した造営以前の遺構・遺物について、当研究所の調査を中心に 取り上げ、各調査ごとに記述して行くことにする。各調査の概要については、後述する各章に示 してあるのでここでは触れない。図 5 中に示した番号と文中の調査番号は符合しており、各調査 における遺構名は、既報告の調査についてはその報告書に、未報告の調査については付章での呼 称に従うことにする。また、文中で特に記述

しない限り、遺構の規模は検出面での規模を 示す。

 調査 1 (14 文 167-7) 昭和52年(1977)、

内裏跡中央南寄りで行った発掘調査 ( 内裏調 査 10) である。現地表下 1.0 ~ 1.1m において 厚さ 0.15 ~ 0.2m の黒灰色泥砂層を検出した。

 黒灰色泥砂層から飛鳥時代の須恵器杯身、

奈良時代の土師器杯・須恵器杯蓋などが出土 し、飛鳥時代から奈良時代にかけての遺物包 含層が当該地周辺に広がるものと考えられる。

 調 査 2 (33  文 175-4)  昭 和53年(1978) に太政官跡の西端で行った発掘調査 ( 太政官 調査 3) である。この調査では調査区の中央 部で、古墳時代の溝を 1 条検出した。

 溝は幅 3.7m 前後、深さ 0.9m、北東から南

1 淡茶褐色粘土 2 黄褐色粘土

3 淡灰色粘土 4 暗赤褐色砂礫 5 淡青灰色砂礫

1

2

3 4 5

古墳代溝

A’

A

A’

A

1m

4m

図6 調査2 調査区実測図(1:200)(1:50)

図 7 調査 2 溝出土土器 (6・8・9 土師器 1 ~ 5・7・10 須恵器 )(1:4)

―13―

西方向に延長し、5m 分確認した。断面形は V 字状を呈し、中央部は 0.4 ~ 0.5m の幅でさらに深 くなる。埋土は下層が砂礫層、上層が粘土層である。遺物 ( 図 7) は、下層の砂礫層から土師器 甕 (8・9)・高杯・ミニチュア土器 (6)、須恵器杯身・有蓋高杯 (1)・高杯脚 (2)・器台 (10)・甕 などが、上層の粘土層から土師器甕、須恵器杯身 (4・5)・無蓋高杯 (3)・甕 (7) などが出土した。

出土遺物から、この溝は 5 世紀末ごろに掘削され、7 世紀初頭までには廃絶していたと考えられる。

 調査 3 (34 付章 2)  昭和58年(1978) に造 酒司跡西部で行った発 掘調査 ( 造酒司跡調査 5) である。平安時代以 前の溝 3 条 (SD7・8・9) を検出した。

 SD7 は 幅 1.5m、 深 さ 0.3m、北東から南西方 向に延長する溝で、調 査区内では約 23m 分を 確認した。SD8 は幅 1.2

~ 1.6m、深さ 0.3m、同 様に北東から南西に延 長する溝で約 20m 分を 検出した。南西部では

南方に方向を変え、SD7 と重複する。SD7・8 は両者とも、断面形が扁平な U 字状を呈する。下層 には黒ボク層が堆積しており、上層は砂礫で埋まっている。SD9 は幅 0.8m 前後、深さ 0.2m、北 東から南西へ蛇行する溝で、延長 24m 分を検出した。断面形は V 字状に近い形態を示し、砂礫に よって埋没している。これら 3 条の溝は、いずれも土師器・須恵器の小片がわずかに出土したに 過ぎず時期を限定しがたいが、平安時代以前の遺構と考えられる。

 また、平安時代の造酒司西面築地の内溝と考えられる SD4 の底面はかなり凹凸状を呈しており、

その凹部堆積土からは古墳時代から奈良時代の遺物が出土している。

 調査 4 (119 付章 15 図版 90) 昭和55年(1980)、中務省跡で行った発掘調査 ( 中務省調査 4) である。この調査では、古墳時代後期の土壙 3 基 (SK25・26・29) を検出した。

 SK25 は 東 西 1.3m 以 上、 南 北 1.2m 以 上、 深 さ 0.06m の土壙で、大半は調査区外に広がる。

SK26 は平面形が長楕円形を呈し、東西 0.8m、南 北 1.6m、深さ 0.06m 前後の土壙である。SK29 は 東西 1.7m 以上、南北 2.9m 以上、深さ 0.2m の土

SD7

SD8 SD4

SD9

Y=-23,670 Y=-23,660 Y=-23,650

X=-109,110

X=-109,120

X=-109,130

10m

図8 調査3 調査区平面図(1:400) 

SK26

SK25

SK29

3m

図9 調査4 調査区平面図(1:200)

壙である。( 図版 90-3)。SK29 からは図 10 に示した土師器甕 (3)、

須恵器杯身 (1)・高杯 (2)・壷など 6 世紀後半の土器および鉄 製品が出土している。

 調査 5 (81 ~ 83・89 付章 32) 昭和59年(1979)、朝堂院・

太政官・中務省跡一帯と左京二条二坊域でガス管敷設替工事に 伴い行った立会調査である。朝堂院域および太政官 - 中務省間 で古墳時代後期の溝を各々 1 条検出した。

 千本通から一筋西の通り、丸太町通から約 200m 南の地点で、

溝状遺構と考えられる土層を確認した ( 調査 5-1)。浄福寺通 と丸太町通の交差点から南へ約 70m の地点で、現地表下 0.7m で平安 時代の太政官 - 中務省間の道路敷を検出しているが、道路敷下面で 幅 2.5m の溝状遺構の埋土と考えられる茶褐色砂土を検出した ( 調査 5-2)。遺物 ( 図 11) は 5-1 地点では須恵器杯身 (1) が、5-2 地点で須 恵器 (2) が出土している。

 調査 6 (235 付章 18 図版 94) 昭和56年(1981)、丸太町通の千本通 以東、松屋町通以西で 7 箇所の調査区 (1 区~ 7 区 ) を設けて行った発掘 調査である。2 区は中務省跡のほぼ中央、4 区は中務省跡の東辺、7 区は 大膳職跡と大炊寮跡間の境界にあたる。

 2 区 ( 調査 6-2) では、竪穴住居の北 西辺と北東辺の一部を検出した。床面 までの深さは 0.1m、床土として淡茶褐 色砂泥を厚さ 0.1m 前後入れる。北西辺 は約 5m あり、方形の住居であろう。主 柱穴は三箇所検出しており、柱間は北 - 西 間 が 3.0m、 北 - 東 間 が 2.3m あ る。

壁溝は北西辺の一部と北東辺で検出し、

幅 0.2m 前後ある。出土遺物には土師器 甕・須恵器甕小片などがある。

 4 区 ( 調査 6-4) では、幅 3.0m、深さ 0.5m の北東から南西方向に延長する溝を 7m 分検出した。

最下層の暗灰褐色砂礫から土師器・須恵器小片が出土した。

 7 区 ( 調査 6-7) では、平安時代の東西方向を示す溝の下層に暗褐色砂泥混礫層が広がること を確認、同層からは弥生時代後期から古墳時代前期の土器片が出土した。周辺に遺物包含層が広 がるものと考えられる。

 調査 7 (300 文 214-2) 昭和57年(1982)、朝堂院跡東端で行った発掘調査 ( 朝堂院調査 8) である。調査区は近世以降の土取りによりほぼ全域が削平を受け、遺構の遺存状況は良好ではな

1 1

7 4 5 3 6

2 1 暗褐色泥砂 2 茶灰色泥砂 3 褐色泥砂 4 褐色泥砂+砂礫

5 灰褐色砂礫 6 茶褐色泥砂 7 暗灰褐色泥礫 竪穴住居

Y=-23,050 Y=-23,046

X=-109,237 X=-109,242

Y=-22,909 Y=-22,905 Y=-22,901

A A’

H:42.50m

A’

A

2区

4区

2m

4m

図12 調査6 2・4区実測図(1:200、1:100) 図 10 調査 4 SK29 出土土器 (1:4)

図 11 調査 5 出土土器 (1:4)

―15―

かった。調査区北半で部分的に古墳時代後期の溝状遺構 (SX1) を 検出した。

 SX1 は幅 3.0m、深さ 0.5m で、ほぼ北から南へ延長する。断面 形は扁平な U 字状を呈し、約 18m 分を検出した。遺物 ( 図 14) に は、土師器高杯・甕、須恵器杯身 (1)・壷 (2)・甕 (3) などがある。

 調 査 8 (489  文 236-1)   昭和54年(1984)、大極殿院跡 北端で行った発掘調査 ( 朝堂院 調査 24) である。調査では大極 殿院北面回廊の基壇北縁を検出

した。基壇の現地保存のため下層遺構は調 査できなかったが、基壇の構築状況を確認 する目的で撹乱壙を利用して南北方向の 断ち割りを行った。その結果、断割断面で 基壇下層に古墳時代後期の溝を確認した。

 溝は南肩部以北が検出でき、幅 2.8m 以上、深さ 1.23m 以上の比較的規模の大きな溝である ( 図 15-4 ~ 8)。溝は平面では確認できなかったが、延長方向は断面の状況などから東西に近い方向 であると考えられる。出土遺物には土師器・須恵器がある。

 調査 9 (471 文 235-2) 昭和58年(1983)、民部省跡の南西部で行った発掘調査 ( 民部省調査 2) である。弥生時代中期、古墳時代前・後期の遺物包含層と古墳時代後期の土壙 1 基 (SK60) を 検出した。

 SK60 は東西・南北ともに幅 1.1m 前後の台形に近 い平面形を呈する土壙で、深さは 0.2m ある。遺物 ( 図 16) は土師器甕 (1・2)、須恵器杯身 (3) などが出土 している。

 調査 10 (581 文 244-5) 昭和54年(1984)、内 裏内郭回廊跡の南面中央に位置す

る承明門跡で行った発掘調査 ( 内 裏調査 11) である。調査区南半で 承明門跡を検出したため、下層遺 構については北半部での部分的 な調査となった。奈良時代の竪 穴住居 1 戸 ( 竪穴 88)、土壙 2 基 (SK79・93) の ほ か、 遺 構 保 存 の ため掘削できず詳細は不明である

H:40.20m

W E

1 5

6 7 23

4

1 黒褐色砂礫 2 黒褐色泥砂 3 黒褐色砂礫 4 黄褐色粘土

5 砂礫 6 黒褐色泥砂 7 黒褐色砂泥

2m

図13 調査7 SX1断面図(1:100)

9 6 7

2 8 11 12 10

1 4 3

5 1 盛土 2 平安後期整地層 3 基壇裏込め層 4 黒褐色砂泥 5 黒色砂泥 6 黒褐色砂泥

7 オリーブ黒色砂泥 8 黒褐色砂泥 9 黒褐色砂泥 10 暗褐色泥砂 11 黒褐色砂泥 12 暗褐色微砂 H:45.00m

S N

2m

図15 調査8 古墳時代溝断面図(1:100)

竪穴88

SK79 SK93

Y=-23,050

X=-109,044 X=-109,056

4m

図17 調査10 調査区平面図(1:200) 図 14 調査 7 SX1 出土土器 (1:4)

  図 16 調査 9 SK60 出土土器 (1:4)

が 竪 穴 住 居 と 考 え ら れ る 落 込 を 三 箇 所 で 確認している

註 2

 竪穴 88 は東西 3.6m、

南 北 3.3m の 隅 丸 方 形 を 呈 し、 深 さ は 0.6m

前後と比較的遺存状況は良好であった。主柱穴は 4 箇所、柱間は東西 1.85m、南北 1.8m である。北 壁上端中央には煙道の痕跡があり、その下方の壁面と床面が焼けて赤変していることから、当箇所 にカマドが想定できる。遺物 ( 図 18) には土師器杯・甕 (3)、須恵器杯身 (2)・杯蓋 (1) などがあ り、多くは覆土から出土した。SK79 は調査区西端で検出した径 1.2m、深さ 0.2m の円形の土壙である。

SK93 は竪穴 88 の北で検出した。北半は撹乱により削平を受けるが、東西 0.7m、南北 0.5m 以上、深 さ 0.4m の楕円形の土壙である。これら土壙からは土師器・須恵器の破片が少量出土している。

 調査 11 (608 文 244-1) 昭和60年(1985)、宮域西端、右近衛府跡西端で行った発掘調査 ( 西 方調査 1) である。調査区の西半部で奈良時代の溝 1

条 (SD34) を検出した。幅 1.8m、深さ 0.65m、東方へ 緩やかな弧を描いて北から南へ延長する溝である。溝 底部で、土師器杯が 1 点出土している。

 調査 12 (684 文 244-3) 昭和60年(1985)、朝堂 院東軒廊跡北端で行った発掘調査 ( 朝堂院調査 27) で ある。調査区の西端で飛鳥時代もしくは奈良時代と考 えられる土壙 2 基 (SK35・37) を検出した。SK35 は南

北 1.0m、東西 0.4m 以上の円形の土壙で、深さは 0.2m ある。SK37 は南北 0.4m、東西 0.3m の楕 円形の土壙で、深さは 0.1 ~ 0.15m ある。いずれも埋土は黒褐色土で土師器細片が出土した。

 調査 13 (822 文 255-1) 昭和62年(1987)、中和院 - 大極殿院跡間で行った発掘調査 ( 内裏 調査 19) である。調査区のほぼ全域で飛鳥時代には埋没したと考えられる溝

註 3

を検出した。溝は調 査区の東寄りで東肩口を検出したものの、調査区南壁沿いに設けた東西方向の断ち割りによる土 層観察にとどめた。図 20 に示し

た断面図は溝の方向に直交しな いが、幅 10m 以上、深さ 2m の規 模を有する溝である。溝の方向 は北西から南東方向に延長し、

溝の西肩口は調査区内では検出 していない。この溝は調査 8 に 示した溝と同様、比較的規模の 大きな溝で、規模や埋土の状態

SD34

Y=-23,825 Y=-23,820 Y=-23,815 X=-108,680X=-108,685

4m

図19 調査11 調査区平面図(1:200)

1 暗褐色泥砂 2 暗褐色砂泥 3 褐色砂泥 4 褐色泥砂 5 黒褐色泥砂 6 褐色泥砂 7 黒褐色砂泥 8 黄褐色粘土 9 黒褐色砂泥 10 黒褐色泥砂 11 暗褐色砂泥 12 黒褐色泥砂 13 黒褐色泥土

1 2

4 3 6 5

7 8 9

10

11 12 13

Y=-23,212 Y=-23,208 Y=-23,204

X=-109,116

H:43.40m

4m

図20 調査13 調査区実測図(1:200) 図 18 調査 10 竪穴住居 88 出土土器 (1:4)

ドキュメント内 陽明文庫本 宮城図 カラー図版1 (ページ 30-45)

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