シンガポール国立大学 語学教育研究センター 所長補佐 日本語プログラム 主任講師 ウォーカー 泉
はじめに
シンガポールは人口500万人足らず、面積は日本の淡路島を若干上回る程度という小国である が、その中に非常に多くの日本語学習者がいる。2009年現在は18,000人を超えると推定されてお り、人口に対する学習者密度が韓国に次いで世界第2位となっている。こういった日本語学習熱の 背景には、1965年にシンガポールが建国されて以来、日本が経済発展に多大に貢献してきたこと から、 政府が国策として日本語教育を推進してきたという歴史がある。まず、1978年に教育省語学 センターが設立され、成績トップ10%の中高生を対象に日本語教育が始まった。さらに、大学や ポリテクニックにも次々と日本語コースが開設され、民間教育機関の増加も伴い、学習者が急増し た。1990年代に入ってからは、日本の景気低迷で一時停滞するものの、日本のドラマやアニメと いったポップカルチャーの多大な影響を受け、学習者数が再び伸び始めた。シンガポールの日本語 教育は、このように経済的、文化的な影響を受けながら発展してきたのである。本発表では、そう いったシンガポール全体の日本語教育の特徴を概観した後、シンガポール国立大学における取り組 みについて報告した。
シンガポールの日本語教育の特徴
シンガポールの日本語教育の特徴としてまず挙げられることは、各教育機関における日本語コー スの規模が大きいということである。教育省語学センターの1,600人を始め、南洋工科大学2,000 人、タマセクポリテクニック2,000人、シンガポール国立大学1,400人など、1,000名以上の学習者 を対象に日本語教育が行われている。第二の特徴としては、学習者が日本語を英語と母語(中国 語、マレー語、タミール語)に続く第三言語として学習しているという点が挙げられる。そのため、
習った表現を積極的に使おうとする一方で、日本語も容易に学べるものであると誤解していたり、
安易にコードスウィッチングをしてしまったりするという傾向が見られる。第三には、特徴という よりも問題であると捉えるべきであるが、学習者の大半が初級レベルに留まっているという点が挙 げられる。これは、初級以上のコースを設置している教育機関がわずかしかない、中等教育レベル では成績優秀者のみを対象とした教育に限定されているため長期的な学習者が育ちにくい、成人学 習者が多い、などということが主な要因であると考えられる。初級レベル以上の学習者を育てるた めには、当然のことながら、各教育機関が日本語教育の意義を認め、より長期的なコースを開設す る必要がある。また、限られた時間により質の高い教育を提供するための理論や方法を模索してい く必要もある。このような課題に取り組むべく、2001年に「シンガポール日本語教師の会」が設 立された。教師間のネットワークの構築や、教育セミナーの開催、大使館や日系企業、地元の日本 人コミュニティと連携した日本語関連行事の実施などといった活動を行っている。シンガポールの 日本語教育は、こういった活動と、日本とシンガポールの安定した関係に支えられながら、更に発 展していくものと思われる。
シンガポール国立大学の日本語教育
シンガポール国立大学では、1981年に54名の学習者を対象に日本語教育が開始されて以来、学 習者数が急増し、現在、年間約1,400名が日本語を履修している。常勤13名、非常勤15名の教員が その指導にあたるという点では、おそらく海外では最大級の規模を持つ日本語教育機関である。ま た、シンガポールで唯一、中上級レベル以上のコースを開設している高等教育機関でもある。そ の母体である語学教育研究センター http://www.fas.nus.edu.sg/cls/ では、12言語が教えられ、
各言語の教員たちがお互いの情報や問題を共有しあいながらさまざまな活動を行っている。例え ば、セミナーやワークショップを開催したり、教員同士が授業を見学しあうピア・レビュー制度を 確立するなど、教師の能力開発に努めている。また、言語教育国際大会「CLaSIC」 http://www.
fas.nus.edu.sg/cls/clasic2010/ の開催や学術雑誌「e-FLT」 http://e-flt.nus.edu.sg/ の刊行など を通して、世界の外国語教育への貢献にも力を入れている。
その中でも日本語は学生に最も人気が高く、毎学期、全外国語履修者の3分の1近くが日本語を 履修している。主な学習動機は日本のドラマやアニメ、マンガ、ポップソングなど、いわゆるポッ プカルチャーによるものであり、その目的も、そういったメディアが日本語で理解できるようにな るためであるという学習者が多い。専攻もさまざまであるが、動機や目的に関わらず、学習意欲は 旺盛で非常に熱心に勉強している。その点では恵まれているが、以下のような課題も抱えている。
第一に、日本への留学、日系企業への就職機会が増えており、その要請に応えなければならない が、日本語は一般教養選択科目として位置づけられているため授業時間数が限られており、到達 度を上げることが難しいということである。日本語能力試験を一つのめやすにすると、当センター の日本語授業時間数は一学期約75時間であるため、1年続けても150時間(4級)、2年続けても300 時間(3級)にしか到達できず、多くの日系企業が求める2級合格者は増えてきたものの、留学に 必要な1級には及ばないのが現状である。第二に、シンガポールには2万人以上の日本人が居住し ているが、棲み分け傾向が強く、学習者が母語話者と接触する機会が非常に限られている。そのた め、できる限り母語話者との交流機会などを作りたいものではあるが、学習者数が多いだけに、そ れも容易ではない。第三に、学習負担が大きいわりには単位数が低い、成績競争が激しい、などの 理由から、初級レベルで日本語学習を辞めてしまう学生が大半であるという点があげられる。こう いった状況を少しでも改善するためには、より質の高い授業を行い、学習者が日本語学習の意義を 実感できるような教育を実践する必要がある。そこで、筆者は、ここ数年、以下のような取り組み をしてきた。
認知的アプローチによる日本語教育
シンガポール国立大学では、「学習者主体」という理念が重視されている。「学習者主体」とは、
学習は教師による知識の受け渡しではなく、学習者が主体的に獲得していくものであり、教育はそ れを支援することである、ということを意味する。そこで、日本語教育においても、学ぶとはどの ような知の働きであるのかということを重視し、それを解明しつつある認知科学などの示唆を生か した教育を行っている。本稿「認知的アプローチ」と呼び、主な教授活動とその理念について述べる。
まず、当プログラムにおける学習者にとっての日本語学習は、第三言語であることから、第一、
第二言語の知識や経験を生かせるような教育を心がけている。例えば、一週間の授業は週2時間の 講義と5時間の演習で構成されているが、講義は共通言語である英語を用いて行っている。そし て、教師が一方的に説明するのではなく、学内のインターネットを用いて予め質問や資料を提示す ることにより、講義の時間は、学習者が予め立てた仮説を検証したり、疑問を明らかにしたりする ためのディスカッションの場となるよう努めている。また、インターネットや映像メディアを活用
し、実際の言語使用や非言語行動、日本文化や日本事情の理解を深めつつ、学習者がそれらを学習 リソースとして自律的に活用できるようになるような活動も取り入れている。
次に、週5時間の演習授業においては、言語処理理論などからの示唆を取り入れた活動を行って いる。例えば、学習者は語彙学習や基本的なドリルは授業前にやっておくこととし、下位技能の熟 達を図ってから授業に参加することにより、授業ではできる限りコミュニカティブな活動が行える ようにしている。また、パフォーマティブ・エクササイズという応用会話練習を行い、言語をコン テキストの中で運用しながら、自然なイントネーションやあいづち、待遇表現、非言語行動など
「言語」を「行為」として包括的に習得できるような活動を行っている。その概要は以下の通りで ある。( )には関連する認知理論を記す。
(1) 学習者は、授業前に基礎練習を十分に行い、モデル会話を暗記するまで練習し、談話の基本 パターンを十分 に習熟してから授業に参加する(「下位技能の習熟」や学習目標項目の「チャ ンク化」、「自動化」により、より高次レベルの処理が可能となる)。
(2) 教師は、さまざまなコンテキストを与え、モデル会話をシステマティックに応用、拡大する
(言語の習得は意味ある文脈の中で繰り返し行われる「リハーサル」、「徐々に複雑さを増す条 件付け」により、無理なく習得が進む)。
(3) 教師は、熟達者としてのさまざまな役割を担う。例えば、会話の相手になって自然な談話の 構築を支援したり、非言語行動を含めたモデルを提示したり、適切にフィードバックを与え ることにより、適切な言語行為とはどういうものであるのか、学習者の理解や技能と目標言 語のそれとのギャップは何かなどといった点に「気づき」を促す(行為の習得は、「熟達者」
との共同作業により習得が進む)。
(4) 学習の進度に合わせて、教師主導(クラス全体)から学習者中心(ペア・グループ活動)の 活動へ移行する。学習者はペアやグループで状況に合った会話を作り、それを全体の前で発 表し、フィードバックを受ける(発表など、成功を強く望む活動は、「能動的モニタリング」
を活性化させる)。
以上が、パフォーマティブ・エクササイズの概要である。当プログラムでは、こういった練習を 重ねる一方で、二年次以上のコースでは、母語話者との交流をプロジェクトワークとしてカリキュ ラムに統合している。そして、その機会を学習者の動機づけや、自律学習、実際場面での言語使用 の機会として最大限に活用できるよう、交流の前後にもさまざまな活動を組入れている。たとえ ば、交流前には、自己紹介文、大学紹介文、招待状、交流後には、お礼の手紙や感想文の読解や作 文という具合である。また、交流時には、キャンパス案内、座談会、スピーチなどといったコミュ ニケーション活動や、談話的側面や待遇 / 語用的側面に注意を向けることによって「気づき」を促 す「観察タスク」などを行っている。
シンガポール国立大学日本語プログラムでは、以上のような教授活動を行っているが、規模が大 きいだけに、一貫した教育を実践することは容易ではない。しかし、ここ数年、学習者の到達度が かなり伸びてきたこと、そして、学びの実態がより理解できるようになってきたことから、以下の ように考察される。
学習の主体は学習者であるという前提で教育を行うのであれば、学習者の認知メカニズムを理解 し、それをカリキュラムの開発、教育実践などに生かしていくことが大切なのではなかろうか。そ して、そういった認知的アプローチを通して得た知見は、言語とその習得という極めて複雑な認知 メカニズムの解明にも貢献できるのではなかろうか。