• 検索結果がありません。

――“民族学のウィーン学派”の創始者である――のもとでさらに研究をすすめるためにウィー ンに行くことを決意した。1935年に岡は日本にいったん帰国した際、三井高治男爵に、ウィーン、

プラハ、ローマにおける日本研究所への恒常的な財政支援の約束をとりつけた。1938年に岡は新 たに創設されたウィーンの日本研究所の所長に任命された。研究所はナチス・ドイツによるオース トリア併合の一年後、1939年4月に開設された。研究テーマは当然ながら民族学と文化人類学であ り、ドイツに存在していた研究機関がそうであったように、文学研究や宗教研究ではなかった。

 1940年10月に岡は、創設された民族研究所の総務部長に任命されたため、日本に帰国した。戦 後、岡は東京都立大学と明治大学で文化人類学の教授となり、そのあと東京外国語大学アジア・ア フリカ言語文化研究所の初代所長となった(1964-1972)。

 岡が日本に帰国したあと、ウィーン日本研究所はしばらくのあいだ彼の助手であったアレクサン ダー・スラヴィックによって運営された。彼は学者の役割として日本語を学んでいた。村田豊文が 教授として岡の後を継いだが、戦争のために研究所の運営は困難になった。スラヴィックは召集さ れ、村田はウィーンを離れたあと、研究所が使用していた建物は空襲のために損壊し、1944年に 閉鎖された。ただし図書館はすでに幸運にも避難しており、戦争の被害を免れた。

 1947年に日本語コースが再開され、スラヴィックが講師として戻り、日本に特化した民族学の 教授となった。独立機関であった最初の研究所は再開されず、民族学研究所に統合された。1959年 にオーストリアの書記官として日本を訪れていたユリウス・ラーブは独立した日本研究所の創設を 宣言し、それは1965年に開設した。この新しい研究所は1965年9月にスラヴィックを教授として スタートした。1971年のスラヴィックの引退により、ヨゼフ・クライナーが研究所の主任として その後を継いだ。1978年にクライナーがボン大学に転出し、ゼップ・リンハートが後任となった。

リンハートのもとで研究所の方針は文化的社会的な人類学から社会研究へ、そして1990年代から はカルチュラル・スタディーズへとシフトした。

 研究所の研究活動からこうした変化をたどってみよう。1967年から1975年までの主要な研究 テーマはいわゆる「阿蘇プロジェクト」という、阿蘇山にかかわる総合的な研究であった。阿蘇 プロジェクトは伝統的な民族学的で人類学的な研究であり、その射程からいってパイオニア的な フィールドワークであったが、残念なことに、当時の習慣にならって英語ではなく、ドイツ語での み出版されたため、ドイツ語圏以外ではほとんど知られなかった。

 ウィーン日本研究所は1980年代と1990年代にも先駆的な研究を継続していた。1980年代の研究 テーマは「日本の高齢者」であり、当時はまだ高齢化社会が流行の話題になる前に、人口学的な変化 を予見していた。こうした新しい枠組みはスラヴィックとクライナーのもとでの人類学研究から、

リンハートのもとでの社会学的研究への移行を反映していた。1980年代後半には、バブル経済の 頂点で、日本企業の経済力による、ヨーロッパとアメリカに対する危機と脅威がひきおこされ、日 本の経済活動が研究テーマの中心だったとき、ウィーンでは「余暇と遊び」が新しい研究枠組み となった。これは自然に大衆文化の研究を含み、今日では日本研究の主流のひとつとなった。しか し、こうした研究は1990年代初頭には依然として先行世代の研究者からは懐疑的にみられていた。

この余暇と大衆文化についての研究枠組みによって、文化研究は社会研究とともに第二の重要な要 素となった。

 「高齢者」と「余暇と遊び」についての研究は、ウィーン研究所が依然として多くの点で先駆的 であり、その研究が国際的な影響力をもっていることを示していた。しかしとりわけドイツで、

1980年代にウィーンの修了生の何人かが教授となった。この「日本研究のウィーン学派」――とき にこう呼ばれる――は、ドイツだけでなくドイツ語圏を越えて日本研究の様相を変えたのである。

 この時期に日本研究の一般的な状況は大きく変化していた。1980年代まで、ドイツ語圏での日

本研究のテーマはいまだ文学と宗教研究、そして前近代日本であった。私は覚えているが、ドイツ の何人かの高齢の教授たちはウィーンの研究をひどく軽蔑していた。1990年代には、しかし、ド イツの大学での一般的な研究は前近代日本と文学研究から社会的な文化的な研究にシフトした。

1980年代までウィーン研究所はドイツ語圏で唯一社会研究をしていたが、今日では社会研究やカ ルチュラル・スタディーズを主要なテーマにしていない研究機関はほとんどない。

 私が1980年代に研究をはじめたころ、このパラダイム変化が進行中であり、「ジャパノロジスト」

と「ジャパニスト」が激しい議論を応酬していたことを覚えている。それはそれぞれ社会研究と、

文学および言語研究を主張しているもの同士の議論だったといえよう。

 私の個人的な展開は日本研究のこうした変化を反映している。ウィーンで訓練を積み、修士論文 と博士論文ではオーソドックスな社会学的研究である日本におけるエイズと「薬害エイズ」として 知られる血友病患者の HIV 感染を扱った。私はまたアカデミズムで浸透していた潮流に影響を受 けた――たとえばジェンダー、ポストコロニアル研究など1990年代に主導されたいくつかの「展 開 turn」、図像あるいは言語論的展開から絵画とヴィジュアルへの展開。後者はとくに私の後半の 研究の発展――日本のヴィジュアル文化へ、日本映画と映画史への関心のシフト――において重要 であった。

 1990年代に、ヴィジュアル、知覚、イメージ、そして技術と主体性についての役割の考察が混 乱のうちにまきこまれ、それらは日本研究でも重要なテーマとなった。この時期は、学的立場がポ スト構造主義的、情報とメディア世代、ポスト産業化社会、ポストモダニズム、ポストコロニアリ ズム、そしてグローバリゼーションとして強調される差異によって特徴づけられる。それは何より も、ヴィジュアル・テクノロジーと社会的機能とその意義によって、社会空間が新たに飽和する程 度をもって、定義される。学際的な研究は不可欠となった。映画研究は価値ある方法論的なヒント を私に提供してくれたし、空間性についての問題にかかわる都市研究もそうであった。私は日本研 究から出発し、映画研究の下地はなかったので、映画テキストの分析よりも映画と映画の受容の研 究に関心があった。すなわち、映画はどのように語り、どう作製され、観客の前に配分されて提示 され、そしてどう受容されるのか、といったことである。

 個人的に重要な問題は、理論と実践がどのように一致すべきかということであった。アカデミズ ムでの仕事とは別に、私はいつも日本の映画番組のプログラマーや映画祭のキュレーター、字幕の 翻訳者、テレビとラジオの番組の協力者やプランナー、そしてときに批評家、といった実践的な時 間での仕事を楽しんできた。私は授業とおなじように、字幕を入れることや映画祭の機能のについ ての研究のなかで理論と実践の結合をめざしてきたのである。

2. 現状――問題と課題  

 2000年に日本研究所は、中国研究所と、あらたに創設されたコリア研究所を含む東アジア研究 所に統合された。さらに、東アジアの経済と社会プログラムが2008年に創設された。この統合は 自ら望んだものではないが、経費抑制をうたい文句にした大学の決定による。これはまたポスト 冷戦の、国家からトランスナショナルへ、地域からグローバルへのシフトを反映したものである。

2000年にはまた EU 諸国が、ヨーロッパの大学の景観を平準化された構造に調和させようとする方 針をボローニャで採択した。2003年にはいわゆるボローニャ構造はウィーンの東アジア研究所に も施行された。新たに三年間の学士プログラムが導入され、2年間の修士と2年間の博士プログラ ムで修了とする。この新しい学士プログラムによって、政府は大学の高い中退率と、第3期教育の 卒業者率を改善することをめざしていた。1990年代から卒業生数が増加する一方で、第3期教育の