な し ど
方、 l立
も 同 時 じ 間 よ の う 継 な
起に従う︿できごと﹀
の こ
の
ことは
﹃源家長日記﹄にも言い得ることである ︒こちらは︑後鳥
X3
4MY畠マ
ι N Jぞリ
' e ‑
一‑ s
' y
ト羽院の盛事を﹃新古今和歌集﹄の編纂を中心に︑これもやはり︑座標を時間軸に定めた︿公的 な 記 憶
﹀の記念碑
J4
‑Aトワlル(物語内容﹀を過去の時間の中に固定された線分の
︿記
憶﹀である︒
と言える︒これらは﹃建礼門院右京大夫集﹄と同じよう
に ︑
ような︿できごと﹀と見なす記録である ︒多くの旅日記は
4aトヲ
' L W
自分の身の上に起きた︿できごと﹀を︿物語内容
﹀と して
︑
︿で きご と ﹀
の記
録
である
︒時間軸に沿
って
継起する
一人称で語ら
れる
エ クリ チュ
l
ル ︒しかしそれは
い
まだ
﹁作り物語﹄と同じではないのか︒
﹃大鏡﹄における翁の諮りや︑﹃
竹取物語﹄における﹁くらもちの皇子﹄
の﹂蓬莱の宝の枝の体験談を思うべきであるフィクションであるかノンフィクションであるかは問﹁︒
わな い
︒
それ
は
︿記憶﹀の所有者
│
│語り手の問題である︒
しか し︑ もう 一
種類の︿記憶)があり得たはずだ ︒前節でも触れ
た知 の
︿記
憶﹀
であ る
︒後世の読者たちに高
い評
価を受けた章段とはうらはらに
︑ ﹃
徒然草﹄には有職や故実に関わる記事が多い︒
﹁箱のくくりかたに緒付くること︑何方に付け侍ベきぞ﹂と︑ある有職の人に尋ね申侍
しか ば︑
﹁
軸に付
け ︑
表紙に付くること
︑両
説な
れば
︑
いす
れも難なしロ文箱は多く右に付く︒手箱には︑軸に付くるも常
のこと也﹂と仰せられ侍きロ(第九五段)
大巨大饗は︑さるべき所を申開けて行ふ︑常のことなり ︒字治の左大臣殿は︑東三条殿にて行はる ︒内裏
にて あり ける を︑
申されけるに
より
て︑
他所へ行幸ありけり︒させる
こと
のよせなけれども︑如院の御所
など借り申︑故実なりとぞ︒(第一五六段)
工れ
らの
﹁口
伝
﹄のありかたが藤原実兼や中原師元 ︑高階仲
行と
異なるのは︑伝授の場の性格︑維の教えであ
るかが不明であるか不定であることである︒
﹁ 有
職の人﹂
でな くと も︑
﹁横川行宣法印が申侍しは﹂
( 第 九九段)
のよ
うに
︑
縦徒であることもある
L .
それを知っていたのが﹁文五郎﹄という老いた衛士であるぱあい
( 第
一
O
二段)
という場合すらある ︒また有職故実という限定それ自体も暖昧で︑﹃富家語﹄には
仰せ
て云
はく
︑
﹁京極殿は中二日ありて湯を召す﹂と ︒仰せて云は
く ︑
﹁大殿は濯を二郎な
r
召ししなり﹂と
(﹃
富家
語﹄
七O
新日本古典文学大
系)
仰せて云は
く ︑
﹁物を食して後︑袖などをもって口を拭ふは︑つきなき事なり﹂と故殿の仰せられしなり﹂
と
(
同
五
といった類の
﹁伝
授
﹂もあり得た︒であれば︑﹃徒然草﹄における次のような記述も︑知の
( 記
憶)として有職
故実の知識と同列に位置づけることが可能であろう q
甲香
は︑
ほら貝の様なるが︑小さくて︑口のほどの細長にさし出でたる員の蓋なり ︒武蔵国金沢といふ浦
にありしを︑所の物は︑
﹁ へ
たなりと申侍﹂とぞ言ひし ︒
( 第 三四
段)
.47.
めなもみといふ草あり︒くちはみにさ﹀れたる人︑彼草を探みて付けぬれば︑すなわち癒ゆとなむa見知
りてを
くべ
し︒
(第
九六
段)
これらの背後に見て取れるのは ︑実兼・師元・仲行等よりはかなり聞かれた言談の場(第三章参照)である︒
」
れらが︑著名な﹁高名の木登り﹂
( 第 一
O
九段)の章段における﹁あやしの下鵬﹂の教訓や仁和寺の法師たちの失敗談と併置して諮られる ︒
﹃徒然草﹄というテクストがどのような事情で︑どのような状況で書かれたかという︑歴史的││テクスト外
コンテクストは推測の域を出ない︒しかし
︑こ
こで今一度想起されなければならないのは︑前にあげた﹃中右記﹄
に記録された老いた匡房の姿である︒来る人ごとに話を聞いて﹁世間雑事﹂を記録し︑その中には多くの﹁僻事﹂
や﹁
人上
﹂が混ざっていたこと︒そして︑﹁不見不知︑暗以﹂それを記録したのだと︒
この真偽の不明な伝説は︑
知の
︿ 記
憶﹀がエクリチュ1
ル化
され
る︑
ひとつの範型を示しているのではないか ︒このようなエクリチュ
l
ルに
おい
ては
︑
︿ 記
憶﹀
は︿
でき
ごと
﹀
︿場﹀に依存する ︒それぞれの物語場で語られた
知
σ コ
て
持ち
て 私さ i立 れ 分
〈 節
物1さ
語:れ
内F た
容ん主
に 憶な の
え要:
素1に
〉 依 と 存
て るし す
。 コ
で は な く
︿ 記
憶 ﹀
(想
起の
場﹀
にお
いて
︑
(﹃
大鏡
﹄の
翁の
よう
に)
﹁うかべたて
︿想起﹀の現在からの
能かもしれない!ーがなされることもある
︒各軒町新の内
部が階層化され︑語り手はその内部において
︿説
明)
││今は話末評語と言い換えることも可
︿そ
のと
き・
そ こ
﹀ と︿
い ま
・こ
こ﹀
を行
き来
する
︒
であ
れば︑次のような記述も可能になろう︒
その物に付きて︑その物を費し損ふ物︑かならずあり︒体に乱あり ︒家に鼠あり ︒国に賊あり ︒小人に財
あり
︒君子に仁義あり ︒僧に法あり ︒
(第
九七
段)
改て益なきことは︑改ぬを力とするなり ︒
( 第
一 二
七段)
︿想起)する語り手自身が教示者となる揚合である 白冒頭文においてテクヌトを構造化し︑
︿物語﹀であることが言明されている以上 ︑
それ
が語
り手
︿我
﹀
。〉
︿想起の場﹀
の
この
教示
││
︿説
明﹀
』立
︿想起の場)においてな
されたことは確かだ︒
しか
し︑
その
︿想
起 ﹀
の現
在
│1
l知
の
︿記憶﹀そのものの位相は不明のままといわなけれ
ばならない︒
それ
は︑
﹁或有僻事︑或有虚事﹂かもしれないし︑準かな過去に下された判断なのかもしれないの
だ︒後世多くの読者に注目された﹁花はさかりに︑月はくまなきをのみ︑見るものかは
︒ :
﹂( 第一 三七 段)
など
も︑
これらの記述と同じような位相の不明な(想起の場﹀
AV dp
h︐ ト
︿記憶の要素
﹀を挟んで︑自らの
の知
の
︿記憶﹀と言えるだろう ︒
それらの知の︿記憶﹀を記した︿記憶﹀や伝聞の︿記憶﹀が語られる︒そ
ほとんどが﹃徒然草﹄において初出の記録鮮だ ︒それらは︿我﹀が過去において
4'Pトリlh記憶﹀と括ることができよう白
﹃徒 然草
﹄は
︿個の記憶﹀という︿物語内容﹀を︿個﹀
れら
は︑
︿見聞きした)︿
個の
において語ろうとする︑
私的なエクリチュ
I
ルだ
︒﹃源家長日記﹄がそうであったように︑宮仕え︑歌壇の動きなど︑ オ
フィ
シャルJPモ
gt
︿公的な記億てあ
るいは年次や日時の判明する︿で
きご
と﹀
の記
録は
︑
﹃徒然草﹄においては一切削り取られている ︒
た だ
︑
︿想起
の場
﹀で生起する動的な(記憶﹀が語られるだけだ ︒
︿記憶の要素
﹀を行きつ一一戻
り
つし
て
しかもそれぞれの︿記憶﹀は位相を異にする ︒異なる位相
‑49‑ の
このテクユトは綴られている ︒
﹃発心集﹄の語り手はその序文の中で.﹁
はか なく 見る 事︑
聞
く事を註し集めつつ
しのびに座の右に置ける
事あり ︒﹂とその著述の内情を明かした︒
を︿想起の場﹀で編纂したのだという︒ つまり個人的なそして物質化された見聞きした︿記憶)があり︑
︿記憶の要素
﹀
を
そ れ
しか
し︑
それは集積された
一 つ
の時間で輪切りに
され た平 面に 並置 し︑
そこから選択がなされる作業だ︒物質化された︿記憶﹀は同一平面上に並置されたとき︑
すでに
︿できごと﹀
問機
に固
定さ
れ︑
その動態を失ってしまわないか︒
それ
はす
でに
︑
﹁暗記録﹂されたテクス
トではない︒
これ
に対
して
︑
﹃徒然草﹄は異なる位相のままの記憶を︑その動態のままにおいて示そうと試みた︒この意味
において︑少なくとも﹃徒然草﹄における雑纂という考え方は︑︿記
憶 ﹀
の位相差の問題として.類纂とは違う
レベルで
捉え返さなければならない︒このテクストは時間軸に固定された︿できごと)
レ シ
︿物語﹀なのだ︒
の﹀︿物語で
はな
く
︿ 想
起﹀
の
動態によってしか捉えられない
︿ 記
憶﹀
の
O
﹃枕草子﹄をつぎて書きたる物
広く︿記憶﹀を記すエタリチュ
l
ルがあり得た ︒イ 完
ドヲ
(物語内容)についていうな l 'tw
ら ︑
︿集団
の記
憶﹀から︿個
の記
憶
へ ︑
担い手についていうなら︿集団﹀の中
の不
特定な語り手から︿個﹀としての︿我﹀へ︒中世に至るその
流れ
は︑
エク リチ ュ
l
ルにおける︿我﹀の獲得の歴史として
跡づけられるのではないか︒そしてそれは和歌
とは
別の発生論的な経過をたどった仮名散文の︑負性の克服の流れとして提えかえすことができよう︒これは精神史
の問 題と 無縁 では ない
︒
イ
71‑ aト4W
﹃徒然草﹄の︿物語内
容)は︑中宮定子を中心とする後宮
への オマ
l
ジュであり待た﹃枕草 子﹄ のよ うに
︑
ヨ
4 F 4 hvイシ可シ
の記念
・顕彰行為にすらなり得ない︑雑多で私的な︿記憶﹀群
だ ロ
集
団の記憶﹀︿飼の記憶﹀を︿個﹀において語
る︑負性を負った︿想起﹀
のエ クリ チュ
1ル @
このテクス
トが読者を持
つの
は︑番かれてからおよそ百年後の正
徹を待たなければならなかったn
その聞は︑秘されていたのか︑
﹁ 反
古 ﹂
のように顧みられなかったのか︒
その
理由
は︑
テタスト自身の内に求められなければならない︒﹁枕草子をつぎて書きたる物﹂というその正徹の印象
は︑あるいは正しいのかもしれない︒
しか
し︑
︿記
憶﹀
のエ クリ チュ
ー
ルという観点からみるとき︑
ふたつのテ
クストの問を埋めるものはあまりにも多かったのではないのか ︒それを一
人称 での
︿記憶﹀
のエ クリ チュ
l
ルと
して の
﹁日記﹂から追跡してみた ︒細かい検討はさらに加えられなければならないが︑
一応 の
見通しを述
べ た
︒
‑51 ‑