第 9 章 部活・サークル活動
10.3 臨床系フリークォーター 人工臓器・移植外科
進藤潤一
移植医療の未来
先日、ある医師のHPで「命を大切にすることを考えれば、臓器をあげたりもらったりする行為がいかに異常な行 為であるかわかるでしょう」との一節をみつけた。彼女の姿勢としては、臓器移植に反対という立場から、脳死移植 推進派を厳しく批判し、「彼らの主張は往々にして世論操作的であり、異常な考え方である」と述べている。
臓器移植法が施行されて早3年半が過ぎたが、実際、脳死移植が一体何例行なわれたかというと実際のところほん の十数例に過ぎない。なぜ、このような状況が起こっているのであろうか。それは言うまでもなく、脳死判定や移植 に関する規制が厳しいからである。そしてそれは、日本人固有の死生観や、人生観はもとより、医療にたいする不信 感の高まり、はたまた移植医療に関する国民の理解の乏しさにも影響されたものである。
臓器移植に反対だという人が口にする意見のなかには「臓器移植をしなくても助かる道があるはずだ」とか、「人 の臓器をもらってまで生きたいとは私は思わない」、「他人の体の一部をもらってまで助かりたいという人の気が知れ ない」などといったものがよくあるが、これらの主張には共通するものが1つある。それは何であろうか?答えはこ れらの主張が往々にして肝移植を受ける立場にない人々、即ち健康な第3者から発せられた言葉であるという点であ る。そう考えればこれらの主張が如何に無責任なものであるかが浮き彫りになってくる。彼らは、自分の立場、即ち 1人称の立場で主張をなしているのに過ぎず、実際に移植を受けなければ他に助かる道のない移植患者(2人称)の 気持ちなり、苦しみなりを理解した上で「さて、どうしようか」、という建設的な意見を述べようとはしていないの である。
私は、外科医になりたいと東大医学部の門を叩いた。入学してまもなく現在勉強させていただいている教室の教授 に出会い、移植医療に興味を持つようになった。自分が外科医として、仮に移植医療に携わる立場に立った時、私は どのような立場を取るべきなのか。それは現在もつづく考察の対象である。ここで現在の私の移植医療に対する見解 を述べたいと思う。
医師として、私は患者の命を救うためならばいかなる努力も惜しむべきではない。
我々は現在の医療レベルを維持していく事を求められているのではない。医学はまだまだ不完全で、
わからないことの多い学問である。現在、治療法を移植にしか頼る事のできない疾患の治療法とし て、あらゆる可能性を追求していく事が重要であり、時には新たな治療法を断行する勇気も必要で ある。
医師として、私は患者それぞれの選択権を尊重すべきである。
1つの疾患に対する治療法はいくつあってもよい。それは、患者さんが選択すべきものである。移植 を望むかどうか、移植医療を容認するかどうか、それは患者さんそれぞれに委ねられるべきであっ て、社会全体として患者さんの助かる道を制限すべきではない。移植医療を肯定しない者はそれで よいのである。ただ自分が嫌だからと言ってその主張を他人に強要しないことである。「それでは臓 器売買の社会になってしまうではないか」という意見が出てくるかもしれない。しかし、そうなら ないようにするのが社会の役割である。
アメリカは肝臓だけでも年間4000件もの脳死移植が行なわれており、臓器売買の社会などと皮肉ら れたりするが、実際アメリカ人はそれについてどう考えているのか。以前Stanford大学に研修に行っ た際に、アメリカの移植の現状について、実際に移植をうけた人々や移植医療ネットワークの関係者 とお話をする機会を得た。彼らが話すには、「アメリカではたしかに移植件数は多いが、それは人々 がそれぞれ臓器移植に対する正しい認識と、それにもとづいた意思表示を行なっているためであり、
一般的には臓器の提供は"命の贈り物"として、人が人生の最後になし得る最高の献身的行為として それほど悪い意味には受け止められていない。」ということであった。
60 第10章 FreeQuarter 日本において問題なのは移植医療に関する国民の理解が著しく乏しいことである。これは一般人に 限ったことではない。医学生同士の議論の中でもしばしば移植医療に対する正しい理解のないまま に、「なんとなく嫌だ」などどいう意見を述べる者が少なからずいることに驚かされる。したがって 臓器移植に対する正しい認識をもってもらえるように一般の人々の教育がまず必要である。正しい 理解なしには、その人の考えも偏ったものとなりがちであり、適切な選択ができなくなってしまう。
医師として、私は治療における患者の精神的・肉体的負担の軽減を目指すべきである。
外科手術は侵襲の大きな治療である。とくに臓器移植などは大きな臓器をまるごと置換することを 必要とするため、必然的に侵襲は大きくならざるを得ない。理想的な治療とは、患者さんの精神的・
肉体的負担がなるべく軽くてすむものであろう。胆道閉鎖症の子供が飲み薬を飲んだだけで治って しまうならばそれほどよいことはない。しかし、現実的には、結果として重篤な肝硬変に陥って移 植に踏み切らねば他に助ける術が無いという症例が約3割にみられる。しかし、いざ臓器移植に踏 み切るとしても、そこには多数の障害が待ちうけているのである。生体部分肝移植を行なうとして も、兄弟や両親、子供のHLAがレシピエントとマッチするとも限らないし、他の医学的要因によっ て移植不適応となる場合も少なくない。そうするとWaitingListに登録して移植待ちということに なるが、日本においては依然として脳死ドナーが不足しており、そうなると移植を待っている間に 死亡してしまうということも起こり得る。私が現在研究を行なっている人工肝臓システムはそうし た移植待ちの患者さんの移植までのつなぎの治療を目的としたものである。また同時に、劇症肝炎 などにおける肝機能補助療法として、移植にまでに至らなくとも治療を行なえるようになることが 期待されている。
移植医療は必要悪か?私の答えはYESとしておきたい。少なくとも現状においてはそうである。研究をしてみて 始めてわかったことがいくつかある。人体は非常に複雑かつ精密なシステムであり、1つの臓器の異常は、それを含 むシステム全体の異常として捉えるべきであるということ。肝臓という臓器が如何に複雑で精緻な機能をもっている か。生体にまさる人工臓器の開発はいわば自然に対する人類の挑戦であり、それは容易に成し得ることではない。し かし、臓器移植にしか頼らざる現状、それもドナーの慢性的な不足状態にある現在においては、それにとって変わる 治療法の開発は必至である。学生として出来ることは限られているが、将来的には組織工学的手法や、遺伝工学的な 手法と相俟ってより患者さんの負担が少なく、安全かつ的確な治療法を開発することを目指し、現在の研究を継続し ていきたいと思っている。
発表を終えるにあたって
一日目企画責任者 津田尚法
昨年までの医学部五月祭企画発表と異なり、今年一日目の企画発表〜「学ぶ卵」編〜では、何か外に存在する対象 について調べて発表するという形式ではなく、自分たちの紹介、自分たちのしていること、考えていることの発表と いうかたちを取りました。その理由は、医者が出来ていく過程としての、かつ一人一人の個性を持った人間の集まり としての、医学生の存在を社会に向けて示すのは面白いだろうと思ったこと、また、単純に、発表の準備としてのア ンケート調査や各個人からの発表の中で、他の医学部生たちの気付かなかった内面を垣間見ることができるかもしれ ないという好奇心、さらには、発表を聴いていただいた聴衆の皆さまや、それ自身深い関心を持った聴衆の一人とし ての自分たちの中からの、感想・意見として、何か得難いものが得られるのではないかという期待感、などによるも のです。
この冊子作成に至るこれまでの発表の準備の中で、これらの希望の幾つかは満たされてきました。しかし、実際に は、ここに至るまでの過程には幾つかの紆余曲折がありました。M2(4年生)になって臨床講義の授業が始まったば かりか、今年から導入されたコアカリキュラムの為もあって授業の進行速度が極端に速くなり、みんなでゆっくり話 をする気分的余裕が無くなったこと、間欠的に存在する試験のために、その前一週間ほどはさらに難しくなったこと、
また、一部の奇特な有り難い方々を除いて、皆それぞれに自分の関心事に忙しく、行く先も見えず形のある見返りも 少ない五月祭の話にはあまり好んで参加しようとはしなかったこと、などなど(でしょうか?)。責任者となった 自分の進め方に拙いところがあった為かとも思いますが、このような状況下で、「自分たち自身が考えるところ」の 発表にまで至らずに、東大医学部としての自己紹介と、それに纏わる表層的な見解の陳述に終わろうとしていた僕た ちの発表に一喝を与えてくれたのは、はからずも、医学部教育に対する一般的な見解を聴きに行った桐野学部長でし た。この企画の方向性を再考させる貴重な一言を下さった桐野学部長と、企画の早い段階で医学部教育についての深 い考えを語って下さった高本教務部長には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
その、学部長へのインタビューを踏まえて、五月祭が近づいてきたこともあってか徐々に関心を増してくれ始めた 仲間達と企画の方向性について再度議論を加え、もっと自由に、発表者自身の言葉で語っていこうじゃないかと決め たところなのが、今の僕たちです。そのため、この冊子にはまだ発表者からの思いが十分に載っていないところもあ るかもしれません。そもそも、僕たちは今回の企画の主目的は発表を成功させることだと認識してきたので、内容的 な意味での冊子の完成度はこれまであまり追求してきませんでした。このことは、今となっては幾許の後悔の念も含 んではいますが。しかし、その分も含め、発表当日には聞き応えのある発表が出来るように、これから更に内容に磨 きをかけていきたいと思っています。しかも、これは企画責任者としての僕だけの思いではなく、各内容の担当者が、
それぞれの発表内容を踏まえて、原稿を練り直し、自分の思いを加えて発表してくれることと思います。それが、「自 分たち自身が考えるところ」の発表を成功させるただひとつの道であることを、発表者のみんなも分かってくれてい るはずです。とりわけ、当面の試験もなくなり、また五月祭当日までの流れが見えてきたこともあってか、楽しく活 発な雰囲気も出来てきたこの頃となっては。
しかし、上で述べた意味で、まだこの発表がどういう終わり方を見せるか分からない現段階で「発表を終えるにあ たって」という場所に位置したこの文章を書くのは、大いなる矛盾を孕んでいるのですが、いまここで記せることは、
先にも述べたとおり、これから発表当日までさらに練り直しを加えて、より良い、と自分たちの考える発表を作って いくという意志、それのみです。そして、当日の発表を皆様に聴いていただき、内容を受け止めていただいて、次の
「聴衆のみなさまより、意見、感想」の項で、僕たちに返してきていただけると嬉しい、というのが、今の思いであ ります。