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脈動の舞台――実在の基底的次元

ドキュメント内 「多元的宇宙」の再構成 (ページ 65-72)

第 3 章 多元的宇宙の相貌――経験の連続体から心的な宇宙像へ

第 2 節 脈動の舞台――実在の基底的次元

ジェイムズは、実在とは我々の直接的経験に類比的な生ける脈動であり、宇宙とは意識 の流れに類比的な生けるひとつの過程であると考える。しかし、そうであるとすれば、こ こにひとつの疑問が生じてくる。まず、ジェイムズの主張を全面的に受け入れて、実在世 界の全体が、我々の経験世界の相似形であるとしよう。我々の経験は、少なくともある特 定の位置を持つと考えられる意識の流れによって文脈づけられている。つまり個々の経験 の脈動の下地が、確かな位置において与えられていることによって、可能となっている。

同様の状況が実在そのものの推移においても考えられるのだとしたら、その流れの基体は 一体どこに求められるのであろうか。我々の経験が単なる感覚経験の集積ではなく、意識 の流れという、ひとつの文脈を保った何らかの基体(それが厳密にどのような広がりを持 ち、どこに中心を持つものであるかは、差し当たり問題ではない)が存在することによっ てはじめて生成する出来事であるように、実在の全体も何らかの基底を持つ、脈動という

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関係交錯地点の集積以上のものでなければ、全体の連続性は確保できないのではないか。

それどころか、仮に一切の基底的次元が否定されるとなれば、そもそも個々の〈文脈〉自 体が成立不可能となるのではないだろうか。

文脈は、一面において過去あるいは歴史の拘束力と捉えることができる。一様でその都 度確定的な共通現実が常に存在し続けるならば、歴史はあらゆる存在者が投げ出されるひ とつの環境に刻まれ、その拘束の下での存在者の諸活動が、歴史のその先を紡いでいく。

ジェイムズの考える宇宙は、そうした基体となるべき環境を持たず、底が抜けているよう に見える。このような宇宙では、すべての文脈は明日にも霧散しかねない、不安定な性格 のものとなってしまうのではないか。我々のような経験主体ないし意識の流れすらも、い つ虚無に沈むとも分からない幽霊のようなものにしてしまうのではないだろうか。

同じことを、次のようにも提起できる。生ける脈動とは、一体何ものの脈動なのか。ヒ ュームは因果関係を人間という一個の観察者の、認識上の習慣によって成立するものに過 ぎないとしたが、ヒュームにおいてはどんなに経験世界が分断されようと、習慣の基体が 今ここの瞬間に定位できる形で存在していた(そのことが、経験主体と環境という二世界 の維持、あるいは端的に主客二元論の維持として批判された)。一方、ジェイムズが法則的 事実を生ける脈動の習慣と捉えるときには、我々はそれを一体何ものの身に具わった習慣 と考えればよいのか分からない。基体の存在しない習慣など存在し得るのか。

あらゆる存在者の個別の意識が全体として文脈を担っている、としてこの議論を打ち切 ることもできよう。実際、個々の意識の流れと、それらが取り結ぶ関係は実在するという、

汎心論的見方と関係論的見方の合成において、宇宙論の構図は完成しているというのがジ ェイムズの最終見解であると考えることも不可能ではない。あるいは、我々は動的な流れ を経験の向こうに見出して、そこに満足すべきだというのがジェイムズの立場だと解する こともできよう。確かに、各所の記述には、実在世界の全体に関する把握をいさぎよく断 念し、あくまで個別の具体的経験に寄り添って、眼前に展開する、与えられたままの動的 な経験世界に専念せよという提言にとれる部分がある。

プラグマティックに解釈すると、多元論、すなわち、宇宙は多者である、とする教 説は、単に、実在のさまざまな部分は、外的、 、関係づけられて 、 、 、 、 いる、 、 かも、 、 しれない、 、 、 、 、と いうことをいっているにすぎない。多元論的な見解によれば、我々が考えうるすべて のものは、どんなに広大でかつ包括的なものであろうとも、ほんものの「外的な」環

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境をもっているのである。事物は、さまざまのあり方において、お互いに「一緒に」

いる、しかしすべてのものをつつんだり、すべてのものを支配したりするものは、な いのである。どんな文章にも「と、そうして」ということばがついてまわっているの である。いつも何かがぬけている。宇宙のいかなる場所においても、すべてをつつむ ものをえようとしてなされた最良のこころみについてもさえ、「まだすっかりではない」

といわなくてはならない。多元的な世界は、こういうわけで、帝国や王国よりは、連 邦共和国に似ているのである。どんなに沢山のものがあつめられようとも、ある意識 ないしは行動の能動的な中心の中に、どんなに多くのものがあらわれようとも、何か ほかのものが、いつも欠けていて、統一のなかに入らないでいるのである。(PU 145=1961a: 243-4)

ここで「多元的な世界」を、我々の所与である経験世界のことと解釈し、個別の経験を 超越した環境、つまり宇宙そのものを指して言われた言葉ではないと受け取れば、ローテ ィのような反体系主義のプラグマティストとも調和的な見解となるだろう。しかし、ここ で注意すべき点は、こうした言い方はあくまで一人の経験する者のプラグマティックな見 地から、いわばプラグマティストとしての立場から、多元論ないし多元的な宇宙観の権利 を擁護しようとするところに現れたものだということである。但し書きやはっきりとした 線引きがないために、またときにひとつの文章の中で混じり合っているために非常に分か りにくくなっているが、ジェイムズは自分自身の仮説の提示とは独立に、我々の〈合理性 の感覚〉(sense of rationality)に適う選択肢の中で、「多元論は一元論と全く対等な仮説で ある」(PU 148=1961a: 248)ということを示そうとしている。ジェイムズの積極的な仮説 は、こうした権利保障の努力の際に見られるような、世界に投げ出されてある一個の視点 を超越したところに語り出されてくる。にわかに〈事物〉や〈実在〉、それらの〈全体〉を 俯瞰する視座が現れるときにこそ、ジェイムズ自身の仮説である多元的宇宙論が開陳され ているのである。

もっとも、そうした文章の中においても、優先的に提示されるのは、前節で確認したこ とに加え、上記引用の内容ともほぼ重複する、非線的な連続の可能性であり、連続性その ものを可能にする条件ではない。ジェイムズは何を置いてもまず、多元的宇宙が過去の経 験論のように、実在を散逸させてしまうような性格のものではないことを強調しようとす る。

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……各個形〔each-form 事物がそれぞれ独自の秩序において存在している様。単一 の全体に回収し尽くすことのできない、多元的な存在様式:引用者注〕においては、

事物は、直接には(すなわち、本質的には)つながっていない事物とも、中間にたつ 事物によってつながれることができる。可能な結合についても、常に、これと同じこ とがいえる。この可能な結合は、それがどのような、中間的な、現実的経路にいきあ たるかによって、その運命を左右される。……。

もし各個形が、現象の時間的形式であるのと同様、実在の永遠な形式であるとして みても、我々は整合的な世界をもっているのであって、多くの絶対主義者がいうよう に非整合性の具体化をえるのではない。我々の「多元的な宇宙」は依然として「宇宙」

である、何故ならばすべての部分は、ほかのどんなに遠い部分とも、現実的ないし直 接的にではないにせよ、可能的に、ないしは間接的にむすばれているからである。(PU 146=1961a: 246-7)

未完結で、いくつもの非連続を含んだ連続体というものが存在し得る、そしてそれはひ とつながりの〈宇宙〉であると言うことができる、とジェイムズは主張する。しかし、仮 にそれが事実であるとしても、我々はさらに次のように問いたいのである。共有される環 境の存在しない中で、各個形はいかにしてそのまとまりを形成し得たのか。あるいは、ひ とつの文脈たることを実現し得たのか。そして、それらがせめぎ合い、結び合う中で、法 則的事実のような、強固な文脈と見られるものはどのように位置づけられ、説明されるの か。これらの疑問に答えられないならば、ジェイムズの述べることは宇宙論的考察として は非常に中途半端なものと言わざるを得ない。すべてを経験の脈動が取り結ぶ関係に、も しくは各個形と言われるものの力関係に還元することで十分とするならば、ジェイムズの 宇宙像は実質的にはネオ・プラグマティストが立ち止まる、 、 、 、 、構図とほとんど見分けのつかな いものになる。ジェイムズは本当にそこで満足したのであろうか。『根本的経験論』には、

次のような一節がある。「それらの経験がいったいいかにしてそれ、 、 自身、 、生じさせる、 、 、 、 、、 あるいは、なぜ、 、 そういう経験のもつ性格や関係が現にいま現れているとおりのものになっ ているのか、こういう問題については、私たちは理解の端緒さえ掴むことはできない」(ERE

66=1998: 117)。果たして、ジェイムズはこれ以上考えを進めることはなかったのであろう

か。

ドキュメント内 「多元的宇宙」の再構成 (ページ 65-72)