第 3 章 多元的宇宙の相貌――経験の連続体から心的な宇宙像へ
第 3 節 大小様々の意識――実在の階層的秩序
『多元的宇宙』の結語において注目すべき論点は以下のように整理できる。①宗教的経 験(神秘体験)は、人間を超えたより大きな精神や、より深い領域の現れである。②心理 学、病理学、心霊学的研究、宗教的経験の事実が、このことを強く支持する証拠を提出し ている。これらに対する主知主義的な反論は、彼らの独断的前提が暴かれたことによって すでに無効である。③直接的経験に寄り添う哲学は、有神論を導く。ただしそれが想定す る神は、それ自身外的な環境を持つ、有限な神である。④哲学とは、宇宙が自分自身につ いて考える営みである。⑤以上の考えを総合した立場は、多元論であると同時に、〈汎心論〉
である。
順を追って確認していく。①及び②については、上に見た内容を大きくは超えない。よ り深い領域、そして「超人的な生命への信仰を強く支持する」(PU 140=1961a: 234)具体 的事実とは、主に『心理学原理』(1890)と『宗教的経験の諸相』(1901)で例示された様々 な意識状態や宗教的経験――とりわけ、〈より高いもの〉(a more)との接触や合一の感覚 に関する報告や記録――を指しているが、その詳細に立ち入れば本論は逸脱を免れない6。 そこで今確認の必要な観点は③以降である。まずは③の、有限な神という考えについて見 ていきたい。
この考えは、ジェイムズのフェヒナーへの共感の、第二の理由となっている。フェヒナ ーの思想は、宇宙全体を統合する意識だけでなく、地球の魂や星の魂といった部分的で有 限な統一力の存在にも言及する、「明らかに多神論的」(PU 140 =1961a: 235)なものであ った。ジェイムズの見るところでは、むしろこの巨大ではあるが有限な精神の統合体とい う仮説こそがフェヒナーの積極的な主張であり、一切を包み込む魂という仮定は、単に包 み込むということがいつまでも続くわけにはいかないという、いわゆる無限後退を回避す るための「怠惰な要請」(PU 132=1961a: 224)によるものでしかない。フェヒナーが宇宙 的意識を〈神〉という言葉で示そうとするときにも、「彼の神は一神論の普通の神となり、
絶対的に全体化された、すべてをつつみこむもの、ではなくなるのである」(PU 133=1961a:
225)。
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徹底化された経験論は、日常的な経験と宗教的経験の両方で現出するものを、ともに予 断を以て退けず、真剣に取り扱うことによって、「神と我々との親近性をそこなわない」(PU 144=1961a: 242)フェヒナーのような思想を、すなわち、神と我々とが密な関係にありな がら、独自の生を持って共存可能な構図を提出する。
ジェイムズがここでフェヒナーに仮託しながら展開している考えの中には、事物の段階 的な統一、あるいは宇宙の階層的秩序とも言うべき構図と、今日の情報工学や生物学で言 うところの、〈創発〉(emergence)の概念に連なる発想が現れている。創発とは、要素的部 分の集合として見られる全体の中に、要素の単純な総和としては説明できない性質が出現 する事態を指しているが、端的に個別の要素から複雑なシステムが出現する様を表すと考 えてよいだろう。ジェイムズはこのような現象について、『多元的宇宙論』の先の章におい て、水素と酸素の化合を例に説明していた。水素の二原子と酸素の一原子とが接近して
H-O-Hの形で結びつくとき、
それらはまわり、 、 、 の、物体、 、 に、いま、 、 まで、 、 と、は、ちがった、 、 、 、 よう、 、 に、作用、 、 する、 、 よう、 、 に、なる、 、 。それら は、今は、我々の皮膚をぬらし、砂糖をとかし、火を消す等々のことをするが、以前 の位置においてはこういうことをやらなかったのである。……HとOのことを別々に かたるものは、なおいるであろう。しかもそれらがいまは新しい位置H-O-Hにおいて 作用するということだけには注意しながら。(PU 86=1961a: 141)
ここで注目したいのは、この説明がそのまま、高次と低次の意識の関係を理解するため に用いられている点である。
いわゆる精神的な化合物はより高いタイプの単一の心理的反応なのである。複合物 の形式自身が何か新しいものなのである。アルファベットそれ自体の意識がそれぞれ の文字の二六の意識以上のものではない、ということはできない。何故ならば、これ らの意識は二六の各個別々の意識、つまりほかの文字なし、 、 のただ一つの文字の意識で あるが、一方それらの総和は、すべての文字をその仲間とともに意識する単一の意識 だからである。(PU 86=141-2)
水という化合物の中で水素や酸素が融解することなく存在し続けるように、ひとつの文
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章の中で個々のアルファベットがそれぞれひとつの文字であり続けるように、より高い意 識の中でも複数の意識は独自の生を保つことができる。汎神論が説くように全体のみが実 在なのではなく、唯物論が説くように部分のみが実在なのでもない。全体と部分との共在 が、観察事実の教える実在の存在様式であると、ジェイムズは主張しているわけである。
しかし、この類推がまったく妥当であるとすれば、我々の個別の意識は、神と呼ばれるよ うな高次の意識を形作る〈器官〉としても働いているということになりはしないか。
ここに④が導かれてくる。「哲学者は、彼が説明している宇宙の中に、彼自身とりこまれ ている」(PU 143=1961a: 249)、「哲学者は、存在の水かさをまし、自分の性格をそれにつ け加えるのである。哲学者は、我々が出会ったすべてのもの、我々を存在せしめているす べてのもの、の部分なのである」(PU 143=1961a: 240-1)という言葉は、別段宇宙的な意 識を持ち出すことなしに、我々のあらゆる思惟や行為の結果は実在性を持ち、各々が関わ る文脈を方向付け、ちょうど複雑系科学で言うバタフライ効果のごとく、その影響は実在 世界全体の動向に伝播していくという主張として理解できる7。しかし、「哲学は、宇宙の 本質的な部分であって、宇宙が自分自身のことをどう考えているかをあらわすものである。
哲学は、実に、宇宙の宇宙自身に対するもっとも重要な反応の一つである」(PU 143=1961a:
240)という一節は、高次と低次の意識という観点を離れては、不可解で無用な比喩としか 解釈できない。
再度論点を整理しよう。ここでジェイムズが提案しているのは、第一には汎心論的な体 系(panpsychic system)を多元論的に考えることである。汎心論を「多元論的に考えると きには、神は絶対者ではなく、彼自身、部分だということになるから、神の機能は、ほか の小さな部分の機能に全く似ていなくはない、――したがって、我々の機能に似ている、
とすることができる。神は我々と同様、環境を持ち、時間の中にあり、歴史をつくりだし ている」(PU 143-4=1961a: 241)。経験論的態度の徹底化によって導かれてくる、我々と神 の意識に関するこのような見地が、『宗教的経験の諸相』において語られた次の〈過剰信仰〉
に直結することは明らかである。
私が身に着けた教育全体から確信するにいたったことは、私たちの現在の意識の 世界は、存在している多くの意識の世界のうちの一つにすぎないこと、そして、こ れら別の世界は、私たちの生活に対しても或る意味をもつような経験を含んでいる に相違ないこと、そして、大体においてそのような世界の経験とはどこまでも別個
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のものではあるけれども、或る点において両者は連続し、それによってより高いエ ネルギーがしみ込んでくる、ということである。……確かに、現実の世界は、自然 科学が認めているのとは違った性質のものである、――よりいっそう複雑にできて いるのである。このようにして、客観的意識からも主観的意識からも、私は私の述 べたような過剰信仰に達せざるをえない。個人個人が、この地上においてそれぞれ 自分自身の貧弱な過剰信仰に対して忠実であることが、やがて神ご自身の大いなる 事業に対してそれだけいっそう忠実であることになって、現実に神のお役に立つこ とになるかもしれないのである。(VRE 408=1970: 下 387-8)
提案の第二は、上の確信にも現れている通り、我々の各自の意識を、巨大な何ものかの 意識の部分として、それも全体と総合浸透し、相互進化する部分であると考えることであ る。このことは、第一の提案と合わせて考えられるとき、進化する複数の階層構造を示唆 するものとして現れてくる。すなわち、複数の独自な意識を部分として持つ巨大な意識も また、一段と大きな意識の中に生きる複数の意識のひとつである――それ自身の規模の水 準における外的環境の中で生きている――こと、そして、それぞれの部分と全体とが有機 的に連関することで、文脈や経験の現にある形が可能とされていることが、強く示唆され ることになる。
こうしてジェイムズの言わんとするところを再構成していくと、次の結論が導かれてく る。多元的宇宙の描像は、まさにこの、心的で多元的な、複数の相互進化する階層構造を 提示するものである。
このような発想は、今日では非線型的な仕組みを持つ動的な体系の自己組織化や相互連 関のあり様を活写しようとする、システム論的な見地に特有のものである。『システム哲学 序説』の著者、伊藤重行によれば、I. プリコジン、E. ヤンツ、ホワイトヘッドらに代表さ れる「全体と部分の相互浸透によって、ダイナミックで複雑な存在物を形成するという進 化論的、過程論的全体論」(伊藤 1988: 3)は、機械でも有機体でもない〈システム〉の観 点を導き、「複雑な存在を多様なものとして、またそのことに価値ありとする見方を確立す る」(伊藤 1988: 4)という。ここで述べられていることは、そのまま多元的宇宙の解説と しても通用するであろう。ジェイムズの記述中には、システム論の概念によってより簡潔 に説明のできそうな主張をいくつも見いだすことができる。たとえば、〈情報〉、〈創発〉、〈全 体子〉、〈自己組織化〉、〈自己安定性〉といった概念を用いれば、多元的宇宙論は心的特性