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二種類の梯子の交錯――進化過程と精神過程

ドキュメント内 「多元的宇宙」の再構成 (ページ 100-104)

第 4 章 多元的宇宙論のシステム論的解釈――その有効性と限界

第 2 節 精神のシステム論――〈情報〉による組織化の理論

2 二種類の梯子の交錯――進化過程と精神過程

ベイトソンによる定義は、可視的な自然界とともに進展してゆく情報の組織として精神 を捉え直し、心身平行論や二世界説を退ける。しかし、これが二元論から一元論への単純 な移行でないことは、新たに〈情報=差異〉という切り口を設けていることからも明らか である。なぜこのような定義が可能なのか、その根拠は何かと問われれば、ベイトソンは 経験的事実の直視による、と答えるであろう。今そこで働いているものを予断なく見つめ た結果として、精神は見出され、その定義が求められたのである。無論、ここで経験的事 実とは、客観的事実ではない。すべての経験は、今そこに働いている精神(可視の対象と しては感覚器と神経経路を伴うもの)の機能が作り出した主観である。だがそれが独我の 世界でないことは、自らの思考からは生じない、認識の作用においてはじめて与えられる 自分ならぬもの、他なるものが眼前に展開していることで保証される(独我論では、自己 の思考とは異なるものを、その思考の背後に設定し、自己のあずかり知らぬ自己が世界を 構成している、という理屈をひねり出す。これは結局、経験世界の背後に物自体の世界を 措定することと変わりない図式である)。ジェイムズ同様、ベイトソンは臆断を戒め、自他 混淆する経験世界に立脚する。ただ、ジェイムズが半ば現象学的な方法で経験の最小単位 に焦点を絞り込んでいくのに対し、ベイトソンは科学者の視点で経験的事実の蓄積にパタ ーンを見出し、概念を析出するという道筋を行くことである。

そうして見出された精神とは、情報の組織である。情報によって成り、情報のみを取り 交わす組織体の中には、どんな物体も入り込めない。「どれほど大きな精神の中へも、やは り、イメージやそれ自身の知らせという形でしか入り込めないのである」(Bateson 1979:

190=2001: 260)。物体が精神に対してできることは、その特質を処理されるべく差し出す

ことのみである。したがって精神の側を、つまり〈情報〉という概念をまったくの幻想と

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でも考えない限り、宇宙をただ一種類の構造を持つ進化過程と捉えることは不可能と言わ ねばならない。

今われわれは、デジタル的な(つまり名づけの)諸階型とアナログ的な諸階型〔情 報によって組織化する系と、そこに情報を差異としてもたらす系のこと。精神と自然:

引用者注〕とを前にして、両者の合体の理論、相互反応の理論を模索している。直線 的な論理階型の梯子はもう捨て去るべきだ。名づけのプロセス自体が名づけられるの だとすれば、二種類の梯子の交錯を新しいパラダイムとして思考を進めていかなくて はならない。

すなわち、進化過程と精神過程を分析する目的で私が分けた二つのストカスティッ ク・システム〔stochastic system 偶然的要素と選択的プロセスの両方を兼ね備えた 系:引用者注〕を、再度合体させるためには、両者を互い違いに現われるものとして 見なければならない。(Bateson 1979 :185=2001: 252-3)

自然の階層構造と、精神の階層構造の二種の体系が世界――少なくとも人間や他の生物 が存在する、感覚と組織とコミュニケーションの世界――を形成している。ベイトソンは このように結論する。精神と自然とは、決してひとつには融け合わない。にもかかわらず、

二つは絡み合って現に働いているのである。どちらの存在を否定しても、我々は直接に与 えられた経験的について、恣意の取捨選択を行うことになってしまうのである。

さて、前節でジェイムズの多元的宇宙論は、経験世界の可視的な構造と並立する、不可 視の、多重的な内面的次元を含意していると述べた。このこととベイトソンの見地とは、

どのように関連するであろうか。二者の親和性を主張した場合、直ちに次の相違が指摘さ れるはずである。ベイトソンの定義する精神は、彼の言うアナログな進化過程、すなわち 自然界の進化過程の上に発現(創発)したものである。対してジェイムズは、実在の脈動、

すなわち純粋経験という宇宙の究極の構成要素に、すでに精神性は発揮されているものと 見ている。むしろ自然界の進化過程の方が、〈統一への意志〉という、ひとつの心性の連続 的な発露の産物なのである。ジェイムズにとって可視的な秩序は、ベイトソンの語彙を用 いれば、情報を取りまとめて一個の全体を成そうとする、純粋経験の統一力(〈私有化〉の 機能)の反映に他ならない。あるいはパースに倣って、退行し、沈み込んで凝固した精神 と言ってもよい

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しかし、ベイトソンが示す精神の特性は、時間的推移の中で捉えられた純粋経験の性格 を非常にうまく説明してくれる。文脈を統合し、安定したひとつの全体であり続けようと する、一個の宇宙――これを、情報の変換と組織化の過程になぞらえれば、ジェイムズの ヴィジョンは一気に一般性を獲得するだろう。また、十分に大きなまとまりであれば、と いう限定つきながら、精神は「外側からの攪乱作用がない限り、それはすべてトートロジ ーに向かって収まっていこうとする傾きをもつ。つまり、様々な観念やプロセスの間に内 部矛盾がない方向へ動いていこうとする」(Bateson 1979: 206=2001: 280)性格を持つと いうベイトソンの説明は、まさに純粋経験の、〈私有化〉による統一の働きを指示するもの である。この上、整合一致の状態を組織し、自己修復によってそれを存続させようとする この特性が、自然界の中で多様な形態をとって現れてくるという観点も――統合と修復の 回路の実際は捉え難いという付言を伴いながら――両者に共通する。「それが窮極的にトー トロジーなのかどうかも、論理の段階がいくつあるのかも、内側にいる私にはわからない。

内側から世界の果てが見えるはずはないのだから」(Bateson 1979: 206-7=2001: 281)。無 数の精神が織り成す宇宙を「多次元球体」(multidimensional sphere)(Bateson 1979:

207=2001: 282)とベイトソンが呼ぶとき、多元的宇宙の全体はそっくり、自己組織化する 情報の宇宙へ融解するものと思われてくる。

これらの共通項によって先述の懸隔は乗り越えられないであろうか。つまり、多元的宇 宙と、ベイトソンの言う「多元的球体」を、統合的に把握することはできないであろうか。

ジェイムズの側において、純粋経験の存在論は撤去可能とは思われない。ならば、原基的 な存在を〈情報〉として、逆に自然を創発とするような観点を、ベイトソンからは引き出 せないであろうか。

理論的枠組みに関する限り(ベイトソン個人の信念や直観にまで踏み込まない限り)、こ の目論見の公算は小さいと判定せざるを得ない。そもそも、ベイトソンの精神についての 考究は、「生ある世界(区切りが引かれ、差異が一つの原因となりうるような世界)とビリ ヤード球や銀河系のような生なき世界(力と衝撃こそが出来事の原因となる世界)との間 の根底的な仕切られ方」(Bateson 1979: 7=2001: 8)についての問いを起点に開始されてい る。元来ベイトソンにおいて、情報と組織形成の世界、結ばれ合うパターンの世界は、エ ネルギーと質料の世界に基礎を持ちながらも、根本的に新しい次元と認識されているので ある。ベイトソンにおける自然界と情報による組織との関係は、ちょうどジェイムズにお ける直接的経験の現れと概念の体系との関係に対応させて考えることができるだろう。ジ

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ェイムズが「概念はその間にある特殊な関係が成立しているところの、新しい秩序に属す る存在である」(PU 122=1961a: 188)と述べるとき、その意味は次のごとくであった。概 念とは事物の写しでもなければ、現実から遊離した幻想でもない、人間によって新たに生 み出された創造物である。道具や機械といった人間の製作物同様に、概念は人の手を介し て事物に働きかける。あるいは、それを抱くものを事物との特定の関係へと導いていく。

そうして現実を動かす確かな実在性を、概念は有しているのである。それが(基本的に)

単独で波及力を持たないのは、ただ、それを作り出した秩序には属していないからに過ぎ ない。概念は、根本的に新奇な実在なのである。

ところで、これまで我々は、部分の総和では説明され得ない特性を持つ、組織された全 体を漠と〈システム〉と呼び、システムがその部分や成立以前の秩序にはない機能を発現 させることを折々〈創発〉などと呼んできた。ここで一度、若干議論を遡って、これらの 概念がいかなる事態や状況を指示するものなのか、正確に規定しておく必要があるだろう。

ラズローは、あたかもこれら二つの概念によって、宇宙の全体的構造を、粗雑であるにし ても描き切ることが可能と見ているようであった。ベイトソンは、恐らく、仮にこれらの 概念を導入しても、情報による組織化の成立以後の、論理階型のもつれ合う世界は極めて 解きほぐし難く、全体の把握などは覚束ないと答えたはずである。局所的な地図、一般的 な構造の見取り図を描くことはできても、「その地図の後に何が続くのか、その地図を包摂 するさらに大きく難しい問題とは何かが、私には分からない」(Bateson 1979: 214)。

彼らの見地が我々に改めて教えてくれることのひとつは、ジェイムズのヴィジョンにあ る種の葛藤が存在していることである。そこには、想像的飛躍によって一挙に一般性へ向 かおうとする傾向、すなわちラズロー的な一元的把握を目指す性格と、世界のありのまま の複雑さに留まろうとする傾向、すなわちベイトソン的な多元的把握を堅持しようとする 性格の、両方がともに同等の強度で内在している。これがときに、学究者あるいはプラグ マティストの一人として慎重であろうとする姿勢と、一人の思想家として想像力の限り実 相に迫ろうとする姿勢とになって、しばしばひとつの論述の中で交互に現れていたのであ る。

〈システム〉と〈創発〉の連続という図式のみでは、この二方向を合流させることはで きない。ベイトソンの言う〈情報〉は、「分析の対象であるシステム内部においても、深く、

意味深く進行しているプロセス」(Bateson 1979: 184=2001: 252)であり、外の目にはま るでシステムをはみ出し、滲み出して進行する、実体のない謎めいた過程と映る。情報は、

ドキュメント内 「多元的宇宙」の再構成 (ページ 100-104)