• 検索結果がありません。

直接的経験と宇宙の脈動

ドキュメント内 「多元的宇宙」の再構成 (ページ 60-65)

第 3 章 多元的宇宙の相貌――経験の連続体から心的な宇宙像へ

第 1 節 直接的経験と宇宙の脈動

ジェイムズは徹底化されたプラグマティズムの見方によって、体系的諸科学の営みに人 間的社会的要素を見る科学論的見地を大きく踏み越え、独自の実在論と宇宙論の提唱に立 ち至った。ジェイムズのヴィジョンにおいては実在そのものの構成が人間的で社会的なの であり、むしろ人間やその営為たる諸科学が、実在そのものの反映だと考えられるのであ る。ジェイムズは共感するベルクソンの思想に仮託しつつ次のように論じる。

概念が生の流れをそれへと分断した、さまざまな部分が、実際の生においては、互 いにとけあっているようにみえる。そこで諸君は、これを生の混乱とよぶのである。

しかしこれらの混乱は、実際にとけあっているのではないのか。経験のどの断片も、

その性質、その持続、そのひろがり、その強度、その緊迫感、その明晰性、その他多 くの側面をそなえていて、これらは、(論理がいうように)孤立して存在することは、

できないのではないか。それらはいりみだれてのみ存在しうるのではないか。(PU

=1961a: 196)

もちろんこういうことは、自己矛盾的にひびく、 、 、。しかし我々が直接的な事実を概念 化し、これに名前を与えるまでは、これらの事実は、ひびくのではなく、端的に、ある、 、 のだから、矛盾は、概念的ないし論証的な形式が、実在の形式とおきかえられた時は じめて生ずるものとしなくてはならない。……概念のことを、ベルクソンのように、

単に実用的なものにすぎないと考えることは、大変むずかしい。それは、我々が誇り にしている精神の状態をすてて、理性の目の前で、ふたたび小さな子供のようにおろ かなものとなることである。しかし、この革命はこのようにむずかしいものではある けれども、私の信ずるところでは、実在をわがものとするのには、ほかの方法はない。

(PU 121=1961a: 208-9)

60

ここで議論は、一人の観察者、一人の経験する者の視点で、経験世界をどのように受け 取ることが最も適切な処置であるかという、いわゆる態度決定の問題を大きく超えていな い。だが最後の一行には、かつて自ら「過剰信仰」(the over-beliefs)(VRE 405=1970: 383)

と称した実在観が、ほとんど確信の形をとって現れている。

人間一人一人の経験的所与をめぐる議論と、実在世界の構成に関する仮説との間を、ジ ェイムズは極めて頻繁に往来する。なぜなら、これら二つの議論はジェイムズにおいては 相同的な関係にあり、それぞれ別次元のものではないからである。二つは単に連続してい るだけでなく、いわば小宇宙と大宇宙の類比関係にある。ジェイムズが「経験のもっとも 小さな脈動の中にも、超越論者が、絶対者だけがもてるといっている、あのきわめて内的 な複雑さが、実現されていることになる」(PU 128=1961a: 216)と、やや奇妙な表現で説 明するとき、彼は各自の経験世界と、そのすべてが流れゆく舞台、すなわち宇宙そのもの との類比関係を念頭に置いているのである。

もっともジェイムズが〈宇宙〉と言うとき、そこで想定されているのは、前章で示して おいた通り、不動の形式を持った全体ではない。宇宙とは主観世界の外部にあり――主観 世界はただそれに随伴して現象する架空のものに過ぎず――、究極の法則的基礎を以て、

永遠にすべての存在者を拘束するといった、伝統的でもあり一般通念でもある宇宙の定義 を、ジェイムズは共有しない。ジェイムズにとって宇宙とは、存在者の未来を決めること もなければ、考究や観察の固定的な参照点ともなり得ない、全的な〈流れ〉そのものであ る。

ともあれ、我々はまず次の三つの文章の中で、〈経験〉という概念が、もはや特定主体の 感覚や知覚には還元できない、剥き出しの〈脈動〉(pulse)――非常に曖昧ながら、さしあ たりはそのように表現する他のないもの――を意味するものに徐々に置き換えられていく 様子を確認しておかなければならない。

実在の真のかたちをもとめて、感覚的な生の、より原始的な流れをのぞきこむとい う原則にたてば、一つの道が開けてくる……。経験の具体的な脈動は、その概念的な 代用品のようには、はっきりした限界の中にとじこめられてはいない。この経験的な 脈動は、お互いの中に連続的に入り込みあっているようにみえる。……「すぎゆく」

瞬間は、すでにのべたように、その内部にもその外部にも「差異のあらわれ」をとも なっている極小の事実である。(PU 127-8=1961a: 214-5)

61

実在を全くすてて、観念的な体系を採用するのでないかぎり、同一者をその他者か らきりはなすことはできない。ただ一つの特定の実例において直接に与えられるもの は、常にプールされたものであり、その間に脈絡のあるものであり暗い点をもたず無 知な点ももたないものである。もし我々が、実在を感覚的にかつ十分小さな脈動にお いてとらえるなら、実在の要素のどの一つも、それのとなりにある要素の視点からみ おとされてはいない――そうして我々は、実在を脈動においてとらえなくてはならな い……。(PU 128-9=1961a: 216-7)

現在ただ今の内的な生の脈動の中には、少しばかりの過去と少しばかりの未来と自 分自身の身体や、他の人びとや、我々がそれについて話そうとしている高貴さや、地 球の地理や歴史の方向や、真理とあやまちや、善と悪や、そのほかのさまざまなもの、

についての少しばかりの意識が、直接現存しているのである。諸君の内的生活の脈動 は、ぼんやりとかつ無意識的にではあろうが、これらのすべてのことを知っており、

それらと連続し、それらに属しており、またそれらはこの脈動に属しているのである。

諸君は今あげたこれらのすべてのものの中から一つをとりたてて、これと諸君の脈動 と同一視することはできない。何故ならば脈動を、これらの方向のうちのどの一つに 向かって発展させても、そこに向かって脈動が発展していくところのものは、脈動を ふりかえって、「これこそが、私のもともとの胚芽だったのだ」というだろうからであ る。(PU 129=1961a: 218)

重なり合い、混じり合い、ひとつの形式に固定化されることのない、生ける流れの脈動 こそが「経験の本当の単位」(PU 131=1961a: 219)であると、ジェイムズは言う。脈動と は、主に『根本的経験論』(1910)の中で主客未分離な「純粋経験」(pure experience)と 呼ばれるものに他ならないが、これに関する詳細な分析は本論の道行きにおいては多元的 宇宙の大雑把な構図を踏まえなければ困難であるため、さしあたっては諸文脈――〈文脈〉

もまた説明の必要な概念であるが、同様にしばらく保留する――の交錯、ないし結節点で あると理解して先へ進むことにしたい。精神と物質、主観的なものと客観的なものといっ た区別は、複数の文脈が交差するこの結節点において、それらの関係の仕方に即して、は じめて生成される。さて、概念によって把握された恒常的性質や体系的秩序は、こうした

62

生ける脈動から抽象された「主知主義的なフィクション」(PU 131=1961a: 219)であり、

動態を無理矢理釘づけにすることで得られた静物画のようなものでしかない。真の経験の 単位たる生の脈動は「完全に統御するには、あまりにも具体的なもの」(PU 110=1961a: 184)

であって、それを釘づけにするような方法は「実在を解釈するどころか、実在の内部を、

全く否定するのである」(PU 110=1961a: 184)。概念の方法に絶対的な信を置くことは、我々 が実際に経験することや意識することの具体的な内容すべてをまったく仮構のものと断じ、

本来粗雑な地図でしかないものを真理と仰ぐことに等しい。「概念は、その概念の定義の 中にふくまれていないすべてのものを、その概念の示す実在からうばうものである」(PU

52=1961a: 83)。そして、概念の示すところにしたがって推論された〈自己完結的な全体〉

という宇宙の姿もまた、その内にあるすべての部分から固有の意味と場所を奪い取ってし まう。内面は外形に、部分は全体に還元される。

概念と論理への腐心を批判しながら、ジェイムズは実在論の提示に向かって一気に突き 進んでいく。単一の全体に、あるいは同じことであるが、永久に不滅であるような根本原 理にあらゆる経験を基礎付けることは、ソクラテス及びプラトン以降、現代まで引き続い ている倒錯である。確かに、名前を与え、分類することによって、経験的所与ははるかに 能率よく取り扱われるようになる。抽象は我々の視野を拡大し、事物との直接的な接触を 超えて思索することを可能にする。しかし多くの哲学者は、概念が提供してくれる理路整 然とした地図に幻惑され、「具体的な世界は、単に概念が腐敗し堕落したものにすぎない」

(PU 99=1961a: 164)と考えるようになってしまった。こうして経験的所与の取捨選択 が正当化される。それは概念の定義が汲み尽せないもの、論理的に把握されないものの独 断的な排除である。我々にとって最も具体的なものであるはずの各自の内面性や直接的経 験を否定するこのような選り好みは、現代の一元論的観念論や体系的諸科学に引き継がれ て存続している。これこそは「役に立つやり方がまず方法になり、次に習慣になり、最後 には本来の目的を否定してしまう暴君になる」(PU 99 =1961a: 165)ということの最たる 例なのである。このような事態が呼び起こす具体的経験の否定を、我々は直視し、疑問視 すべきである。そもそも辻褄の合った理屈が我々を安心させるということ以外に、概念と 論理の網の目から漏れるものの排除を正当化する根拠が存在するのであろうか。断じて否 である、とジェイムズは主張する。実在の合理性という無根拠な前提の他にはどこにも、

我々の直接の経験を見かけだけのものとする根拠は見出せない。

ドキュメント内 「多元的宇宙」の再構成 (ページ 60-65)