第 1 章 徹底的プラグマティズムの帰結――実在論への通路の発見
第 5 節 プラグマティズムから多元的宇宙論へ
パトナムのような批判者に言わせれば、換言 2 は作業仮説としてしか提示できず、ジェ イムズは「我々はそこで起こっていることを差し当たり実在する“かのように”受け取る しかない」という言い方に留めておくべきだった、ということになるかもしれない。だが ジェイムズは端的に真、すなわちそこで新たに生じた観念はそこにまさに実在すると言う ことによって、主知主義や合理主義の前提(認識主体と対象のいずれかの側に完成された 一様の秩序が存在するという考え)を排するに留まらず、〈共通現実〉の措定という、プラ グマティストによっても尚保持されていた大前提をも覆そうとしたのである21。主体各々 の主観的世界が、それ自体は動かないひとつの間主観的な空間に位置を持つという仮定す ら、ジェイムズは容認しなかったのである。上の、換言 2 の観点から次の引用を見てほし い。
この世界の構成要素は、それぞれ一実在なのであるから、縄のたくさんな繊維の ように、非連続的、交叉的であって、ただ縦の方向でしか結合していないように思 われる。この方向を辿ると、それらは多である。発生学者でさえ、彼の研究対象の発達、 、 を辿る場合には、一つ一つの器官の歴史を代る代る調べねばらないのである。して みると、絶対的、 、 、な美的統合などというものは、これまた全くの抽象的理想でしかな い。世界の現象は劇的というよりもむしろ叙事詩的なものなのである。(Prag 71=1957: 109)
経験世界の連続性はただ「基本的な誘導線」(Prag 67=1957: 102)に乗って進むことで のみ、つまり事物の繋がり合いが辿っていける限りでのみ主張することができる。この点 について異議を唱えるプラグマティストはいないであろう。しかしジェイムズはさらに進 んで、宇宙の構成は実際そのようになっている――特定の繋がりのもとで実在性を獲得し た様々な種類のものが、それぞれ異なった仕方でそれぞれに特有の関係を結び、各々異な
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った文脈を紡いでいく、という構成になっている――という考えを、まさにプラグマティ ストの立場から引き出されてくるものとして強く支持し、方法論とともに紹介したのであ る。にもかかわらず、当の本人がそれらの連続性を否定し、折々慎重、 、な、記述、 、 を心掛けたこ とで、そのプラグマティズムの説明は、漱石の評が信じられなくなるほどに回りくどく、
非常にややこしいものになってしまった、というのが『プラグマティズム』として提出さ れた一連の論述の、最も理に適った解釈ではないだろうか。長い引用になるが、次の部分 も同様に、換言2の観点で参照されたい。
広い広い宇宙のなかに、世界のいろいろな部分の大規模な繋り合いができ、またそ の内部に小さな繋り合いが、言論上の小世界ばかりでなく実際活動上の小世界が、無 数にできてくる……このように「体系的な」見地から見ると、世界の統一ということ のプラグマティックな価値は、これらすべての一定の組織体が現実に、実際にたくさ ん存在しているということである。かなり包括的で広汎なものもあろうし、またかな り狭少なものもあるであろうが、とにかくそれらの組織体は互いに上へ上へと重なり 合っていて、宇宙の原素的な部分のどれ一つも全部の組織体から漏れるということは ない。事物と事物との結びつきの途切れている場合も数えればきりのないほどあるで あろうが(なぜというに、このような体系化的な誘導や結合の仕方は遠慮なく異要素 を排除して進むものだからである)、およそ現存するものはことごとく何ら、 、 か、の、仕方で 他のものから影響されているのであって、ただその影響の仕方がうまく指摘できない までの話である。不精確ないい方であるが、一般的にいってみると、すべての事物は とにかく、 、 、 、何、と、か、お互いに結び合いくっつき合っていて、宇宙は網の目のような形か鎖 かの形で実際に存在しているので、これらの形が宇宙を何か連続的な、あるいは「部 分を統合した」ものにしている、といえるのである。どのような誘導力でも、これを 次から次へと追求して行くことができる限りは、世界を一つにする役に立ってくれる のである。だから、つまりそういう意味で、そしてその範囲内でなら、「世界は一で、ある、 、 」 といえるのである。しかしそれだけに、その範囲をはみ出すと、世界は明らかに一で ない、 、 ことになる。……もしわれわれの知性が結合の関係にたいすると同じだけの関心 を分離の関係によせていたとしたら、哲学は世界の不統合を賛美することに同じ程度 の成功をおさめたに違いない。(Prag 67-8=1957: 103-4)
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そしてこのすぐ後で、次の言葉が換言2の妥当性を保証してくれる。「誘導あるいは不誘 導というこれらの体系はすべて世界の因果的統一という一般的な問題に組み入れてよい」
(Prag 68=1957: 104)。
確かにプラグマティズムの紹介者となる以前から、ジェイムズは客観的な共通現実を措 定する考えとは相容れない実在観の持ち主であった22。『宗教的経験の諸相』では「他の実 在のなかに効果を生み出すものは、それ自身一つの実在と呼ばれなければならない」(VRE 406=1970: 383)として、決して共有される次元に降りてくることのない個人の意識生活や 神秘体験にも独自の実在性を認めていた。『信ずる意志』では、個人の内的関心がその目に 映る世界を左右するだけでなく、事実の世界の明日をも決定すると述べている。「信念はみ ずからを真実なものにする。願望が思考の父であったように思考はまさしく事実の父とな る」(WB 84=1961b: 135-6)。同様な見方は、1902年からジェイムズが世を去る1910年ま で続けられたH. ベルクソンとの交流の中にも散見される(Perry 1996: 338-51)。「真の経 験論が真の形而上学である」(Bergson 1955: 196)とベルクソンが言うとき、その念頭に は恐らくジェイムズが置かれていただろう23。
こうした点を鑑みて、勢い、我々はジェイムズによるプラグマティズムの拡張を、多元 的な世界観の投影による方法論の歪曲と解釈してしまいたくなる。しかしこれまで論じて きたように、それは投影による歪曲ではなく、たとえ投影がなされたにしても〈発見〉で あったと見ることが可能であり、また妥当であると思われるのである。
発見とは、プラグマティズムにはそれが突き詰められたときにはむしろ、〈すべての主体 は関係を持ちつつも、同一の宇宙ないし同一の次元に存在しているのではないかもしれな い〉という仮定を強く支持する傾きがあることであった。そしてジェイムズは、その傾き をあえて修正しまいとしたのだと言うことができる。
最後にもうひとつだけ補足しておこう。数多くの留保と迂遠な表現の中で、この発見が 背後に押し込まれてしまったことは、これまで論じてきた通りである。それを招いた慎重 さは、主にはプラグマティズムを普及させるべく、純粋な方法論として世に送り出そうと いう意図に基づいていたが、もうひとつ、実在世界の多元的な存在様式は、あくまで〈仮 定〉である限りにおいて、あくまでひとつの学説としての資格においては、共通現実の措 定を完全に打ち負かすことはできないという理解にも基づいていた。それはただ、プラグ マティズムに則って誘われる根本的経験論の中で、共通現実を上回る蓋然性を主張できる に過ぎないものであるというのが、一研究者としてのジェイムズの見解だったのである。
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「あらゆる真理は……人類の遺産と人間的係数に影響されている」(MT 214)、だから宇宙 の全体像に関わる判断も、われわれが全体そのものでもない限り、最終的には個々人の〈信 念〉に委ねられている。そのことを、ジェイムズは常に意識しながら進んでいったのだっ た。このことはプラグマティズムの立場では次のように説明されている。一切の予断を排 すれば、「われわれは、事物が一部は結合され、一部は分離されている常識の世界に踏みと どまらねばならない」(Prag 79=1957: 121)、そして、
プラグマティズムは、事物間の統一と不統一の均衡がどうあるか、まさにそのこと を経験が最後的に見届けるのを待つのであるから、明らかに多元論の側につかざるを えない。いつかは唯一の認識者、唯一の起源、そして考えられるあらゆる仕方で固く 結ばれた宇宙によって固められた全的統一でさえが、あらゆる仮説のうちいちばん尤 もな仮説となる日が来るかもしれないことをプラグマティズムは承認するのである。
(Prag 79=1957: 121)
標準的な解釈であればここで、一人の学術研究の徒として、あるいは一人のプラグマテ ィストとしての主張と、ジェイムズ自ら「過剰信仰」と呼んだ彼自身の直観との複雑なも つれこそが、『プラグマティズム』の読みにくさを生み出した、だからジェイムズは少なく ともここでは独自的な見地をきっぱり切り捨てるべきであった、と言うだろう。しかしこ のもつれは、ジェイムズにとってはプラグマティズムの不可避な性格であった。それを解 きほどくことは、予断、独断を移植することに他ならなかったからである。
さて、こうしてプラグマティズムを巻き込んで、少なくとも統一的な秩序の仮定と同等 の、あるいは、一元論は「理性の産物であるよりは意志の産物であるようにみえる」(PU 67=1961a: 110)という観点からして、思慮深く落ち着いた眼にはそれ以上と映ることが期 待される〈もっともらしさ〉を獲得するに至った多元的宇宙の描像とは、より具体的には どのような宇宙観であるのか。そして今、我々がそれを論じることにどのような意義があ るのか。果たしてそれは現代を生きる我々に、何かしら新鮮で有意義な視点をもたらして くれるものであるのだろうか。次章ではこれを詳細に検討するための予備的作業として、
似て非なる複数世界の教説を取り上げ、ジェイムズの宇宙論と対比させてみようと思う。