難民言説には必然的に包摂される支配構造が存在する。それは、難民審査に伴う避 けられない行為、つまり、ある国家で国民が受けている待遇について、別の国家が判 断を下すという行為から生じる。だが、「難民を生みだす国」と「難民を受入れる国」
というカテゴリーは、現実には必ずしも排他的な関係にあるわけではない。たとえば、
カナダのガイドラインにも引用される「ウォード事例」(Canada v. Ward)は、アイ ルランドからの難民要求である。アイルランドはこの事例では「難民を生み出す国」
であるが、別の事例では「難民を受入れる国」でもある。難民の大多数が南から南へ の移動である、つまり南諸国が「難民を生みだす国」になり、かつ「難民を受入れる 国」にもなっていることも同様の例である。だが、カナダ、アメリカ合州国、オース トラリア、ニュージーランド、西ヨーロッパ諸国といった西洋諸国は、自らを難民受 入れ側であると位置づけ、難民を生みだすような政府ではないと、自らの優位性を示 している(Macklin, 1995: 264)。「難民を生みだす国」と「難民を受入れる国」の間 に互換性がなく、両者の関係が固定的化されたとき、支配関係が形成される。そして
「難民を生みだす国」からやって来た女性たちを支援するのは、「難民受入れ側」を自 負する国々の女性、フェミニストたちである。
セリナ・ロマニー(Celina Romany)102は次のように言う。「女性は国際法の場で 典型的なよそ者(alien)である。よそ者であるとは、他者、、
であり、アウトサイダ、、、、、、
ーで あることだ。女性たちは自分の国のなかでよそ者、、、
であり、国際社会を構成する排他的 な国家クラブにおいてもよそ者、、、
である」(強調は原文どおり)(Romany, 1993: 87)。
彼女が言いたいのは、女性は自国においても国際社会においても疎外され、差別され ていることである。女性差別の存在しない国はない。地球上のあらゆる国に女性差別 が存在するという状況のなかで、ある国の迫害から逃れてきた女性の庇護が認定され るよう、別の国の女性が支援している。「迫害から逃れてきた女性」も「それを支援す る女性」も、それぞれが女性差別を受けているという点で共通性を持つ。だが、難民 審査という行為が両者に分裂をもたらす。「支援する女性」が難民審査を受けることは まずない。女性たちが難民に値するかを審査するのは、受入国側がつくった基準によ る。「迫害から逃れてきた女性」と「それを支援する女性」という二つのカテゴリーが 固定化されるとき、女性が二分化される。
102セリナ・ロマニーは、ニュー・ヨーク市立大学、ロー・スクールの教授である。
「迫害から逃れてきた女性」を「支援する女性」が陥りやすい危険がある。以下に 述べる二つの危険は、マックリンによる指摘である。両方の女性の関係性を的確に表 している。一つは、欧米諸国のフェミニストにとって文化的に馴染みのない、理解し がたい習慣は迫害として目に映りやすい。もう一つは、自分たちが経験したことのな い、自分たちの理解を超えた他者の「迫害」に直面すると、自身の社会にあるさまざ まな差別に対する危機感が薄れて、自分たちの社会を理想化してしまう(Macklin,
1995: 265)。この二つの危険の可能性を内包する「支援する側の女性」が、「迫害から
逃れてきた女性」と対等の立場ではなく、支配する側に立つ時、どのような事態が起 きるだろうか。一つ目の危険が顕著に現れる例は、ヴェールおよび女性割礼習慣であ る。それらの習慣を支持する女性たちが存在するにもかかわらず、欧米の女性たちは その習慣を許すことのできない「迫害」、「虐待」と捉える。自分たちとの「違い」が 視覚的に最もわかりやすいのがヴェール着用である。
二つ目の危険は、自分たちの理解を超えた「未知」の「迫害」に直面した時の衝撃 が大きいほど起こりやすい。その衝撃が、理解しがたい「迫害」を強要する社会への 敵視を生み、そのような「迫害」は自分たちの社会にはないと考えることで自分たち の社会の理想化を生む。だが、その理想化は幻想に過ぎない。自分たちの社会は理想 的なものであると信じることが、自分たちの社会に厳然とある差別構造と闘う力を弱 めるという結果、つまりフェミニストの弱体化を招く。
受入国側のフェミニストたちは、ロマニーの言うように、自国においても国際社会 においても疎外され、差別されているのだが、「苛酷な差別の社会に生きる女性」と、
「理想社会に生きる女性」という女性の二分化、「難民を生みだす国」と「難民受入国」
の二分化のなかで、いずれも後者、すなわち支配する側にいる。フェミニストたちが この位置に立つために生じる問題は三つある。一つ目の問題は、ジェンダー迫害の原 因はすべて女性難民の出身国の「务った」文化にあるとフェミニストたちが考える傾 向が生じることである。1990年代に主張された難民法に対する多くのフェミニズムか らの批評は、常に「第三世界の文化」と考えられるものの全否定に依存して、女性難 民の利益を図るよう議論を発展させようとする傾向があった(Spijkerboer, 2000: 9)。
「第三世界の文化」の全否定は「第三世界文化」の攻撃に向かい、そして女性難民を 含むその文化を代表する人々にも向かう。
二つ目の問題は、フェミニストたちは「第三世界の文化」を捨てさる者だけを受入 れようとすることである。これは「第三世界の文化」の全否定により起きる。第3節 で述べたオーキンの主張に端的に現れているように、「よそ者」の「遅れた文化」の信 奉者や犠牲者たちの流入により自分たちの文化がとり崩される危険を感じる彼女たち は、自分たちの築きあげた文化、権利にとって脅威と感じる者は排除しようとする。
三つ目の問題は、「第三世界の文化」の全否定が、「遅れた文化」を持つ「よそ者」
排除の正当化をひき起こすことである。フェミニストたちが女性難民の利益を図ろう
として組みたてた議論が、このような経過を経て、第三世界からの移民はその文化的 差異ゆえに、受入国の国民的統一への脅威を引きおこす者であるという排除のレトリ ックへと連なり、反移民右派政党と政治家たちの思想と合流する。
次に、「理想社会に生きる女性」かつ「難民受入国」という立ち位置にいる、フェミ ニスト法学者たちのネイション像がどのようなものかを考察する。その考察に先立ち、
ネイションとは何かをさまざまな論者の意見を元に考えたい。ニラ・ユヴァル=デイ ヴィス(Nira Yuval-Davis)によれば、ヨーロッパ近代の国民国家(nation-state)
とは、「ネイション」の境界と、「その国に住む人々」の境界とが完全に一致すること を前提に成り立つ。だが、事実上その前提はどこにおいても虚構であり、この虚構が ナショナリストのイデオロギーの基盤となっている。ある国や社会に住んではいるが、
そこでヘゲモニーを握るネイションの一員でないと考えられている、もしくは自身を そう考えている人々は常に存在するし、パレスチナ人のように国家を持たないネイシ ョンや、クルド人のようにいくつかの国家に分けられたネイションという言い方にそ れが表れている。ネイションは決して均一なものではない。その均一でないネイショ ンのなかで、ある集団がヘゲモニーを握ることが自然なことのように見えるのは、「ネ イション」の境界と「その国に住む人々」の境界とが完全に一致するという虚構があ るからだ。そして、その自然さという外観をうまく使って、ヘゲモニー集団は、マイ ノリティを「正常な者」から「逸脱者」へと仕立てあげ、重要な権力手段から排除す る。ナショナリズムと人種主義は本来的につながっているとユヴァル=デイヴィスは 言う(Yuval-Davis, 1997: 11)。
国民国家とは、均質のネイションでまとまる一元的構造という幻想に基づくが、現 実には異なる機構と主体がセットになった、「特定の歴史的政治的危機の産物」である
(Waylen,1996: 16)。歴史のなかで形成されたものであるので、個人の単位で見れば、
複数のネイション・アイデンティティを有する者がいることにもなる。スコットラン ド人でイギリス人、キクユ人でケニア人、スリランカ人でタミール人、アメリカ人で ユダヤ人でポーランド人、シンガポール人で中国人、西インド人でイギリス人でアフ リカ人などなど、人がアイデンティティとして抱くネイションのレベルはさまざまで ある。本論文で扱うネイションは、難民審査という行為の主体である国家という単位 に対応すると考えられるネイションであって、つまりさまざまなネイションのなかの ひとつでしかない。いずれのレベルのネイションについても言えることだが、それは 歴史のなかで、さまざまな政治的対立を経て鍛造された、「共有の同一経験を想像する 文化的表現のシステム」であり、単なる「精神性の幻影(phantasmagoria)ではな く、歴史的、制度的な実践である」(McClintock,1993: 61)。さて、歴史に応じてそれ ぞれの国家が持つネイションの概念はといえば、ヨーロッパ諸国を見ても当然ながら 一様ではない。たとえば、ドイツではネイションを、血統を分けもつ者たちと理解し、
ドイツ人とはドイツ民族性を持つ人々と考える傾向が強い。それに対し、フランスで