1はじめに
本章では、1960年代の鮠国経済の高度成長の1111,発点となり、またその発展 の枠jNlとなった第1次経済開発5カ年計画の展'#'過程を通じて、「国家主導 産業化と対外開放型|}'1発戦略」(iii術フト[1989])として特徴づけられる経済 開発体''illがどのように形成されたかを考察する。従来この第’次5カ年計画 期=60イIさ代前半は、「輸入代替工業化」から「輪,11,指向兀業化」への転換期 として、あるいは「援助依存経済」から「借款依存経済」への転換期と見な されてきているが、このjli云換期のもつ意'氷を鯨'五|経済の,ノ(,在的な発展論理か ら捉え返すためには、lliにそうした開発llUi略のili云換や外部的開発資源の変化 ばかりでなく、この'1柳1に登場した単調政権が長期開発計画にもとづく意識 的な経済発展へ踏みⅡ」,した主体「1り契機と当'1寺の糊玉|経済が置かれた歴史的.
国際的条件との関連を''11いU2[す作業が必要と思われる。
そこで本章の前半では、開発主体としてのrlIzll政権の議場とその下で経済 開発計画の作成と開発行政の統括を担った経済介凹院の成立事情、およびそ の特質を新しい|冊1発体Ilillの成立という)IiM点から考察し、後半では民族主義的 志向性を持ったflI事政椛の開発怠志が節1次絲済'イト1発5カ年計,Iliiにどのよう に反|DII:され、その実行過鯉に孕まれた'''1題がどのような展Illlをたどって新し い開発路線、すなわち'玉|家主導|)ト1発体IIi''一Fでの外資導入.輸出主導型開発路 線へと転換するに至ったかを検討してみたい。
2朴正煕軍軸女権の登場と経済計山機構の改編強化
(1)開発指向型軍事政権の登場第1章第1次絲済|リト1発5カ年計画と経済リト1発体IlilIの成立173 朴正煕少将ら「革命主体勢力」はクーデターiDI後に発表した「革命公約」
の第4項で「絶望と飢餓線上にlWH「ぐ民生苦を早急に解決し、|玉1家自主経済再 建に総力を傾注する」とiilHiい、経済脚建課題を重視する姿勢を示した。それ は一方で当面施策として、疲弊の甚だしかった農家経済を救うための「農漁 村高利債整理法」、「農産物イl11i格維持法」など一連の「重農立法」として具体 化したが、他方、長j01的政策としては経済開発5が|ミ計画の樹立・実施を決 定し、その策定作業を急ピッチで推進した点に示された。
軍事クーデターの中核メンバーのうち約30人の現役軍人によって榊成され た国家再建最高会議(以1,.、最高会議と略す)は、1963年12月の「民政委譲」
による第3共和国の成立まで、肺'五|の最高統泊機関としての機能を果たす。
その権限をみると、①国会の権限代行、②予算案議決権、③大統領権限代行、
④戒厳令をはじめとする行政に関する権限、⑤司法に対する統Iill権、⑥主要 地方自治体首長任命権等、三樅にわたる独裁的権力を保持した。2年7カ月 '''1の軍政はこの最高会議、内|H1そして111央情報部(1960年6)1101-1'11央情報部 法公布)を三大支柱としてル'11排されていくが、新たな経済|リト1兆体Ili'1は、まさ にこうした極度に集椛i1りなilIzMMilii体制の下でその骨格を形成するのである。
軍政期間中、最高会議は16件の予算案を含め実に1583件の法令をIlill定、整備 あるいは改定したが、これは雄|河から5.16諏事クーデターまでの13年間に 国会が扱った立法実績に匹敵するものであった。
内閣首班と長官は般高会議によって任命され、内閣は最高会議の指示と統 制を受ける、とされた。岐高会議の核心構成者が初めからクーデターを謀議 し主導した''1領(''1佐)、大価、M上将、少将級であったのに対し、’八I閣の場 合、大部分の長官はiに}け一デターに直接参力Ⅱしなかった将flliと大領級に よって補任された。つまり技術・運,営階屑である大隊災lliiliないし_'二級部隊の 中堅参謀職にいた領官(佐'1T)級将校が主として上位の権力機構に就き、戦 略・管理層(連隊、mli団、iililIlの折抑官職、野戦軍または平司令部の高級参謀職)
の大領級、将官級将校を支配1、に清くことになったのである。ただし、例外 的に経済企画院長官やIは務部長官、文教部長官、公報部長`iTなどは主に民間 人出身が任命され、とくに経済企画院長官はその設立当初から継続して民間 人が起用された。
174第3篇経済|)ト1発計画と経済政策の股|Ⅱ’
’''二|I政椛は政椛の)i蝋固めとして、戒厳令宣イIjに伴う|玉|会および地方議会 の解散、政党および社会回|体のIIiギ散、言論現Ilill、共》if三ii義嫌疑粉の逮1iIi、不 jE蓄!'イ者の逮lili、紫ノノ'五|狩りなど一illlの捕世をl折行する一方、新たな機関と
して''1央情報部、Tリ処|正|民述11iルMll、j1I1f命特別裁判所、J1|と命検察部、公報部、
援謹庁等を設ii'iし、さらに経済発展のための機UAlとして経済公山院、処設部、
農村振興庁、鉄jii庁、労働庁および約1o旧の公社を設置し、行政・符1111の機 '1Mとして調達11皇、企IIIln統Ilill官室、行政符JIll局を設笹した。
11叩政権はまた不Jli公務員終I1l1の州=|で3万3000人の官僚を罷免し(この 数字は当時の企公務fiの10%以」:に?11る)、軍の'''''11管I1lリi#の将校約500人を連 絡団の名で政111:の各Wlj虚に派過した。これらの将校はいくつかの部幽では長 官の秘書室を柵成してその部脳と力嫡会議との述絡機能を果たしたが、大部 分の部虚では公務fWfI1Ilによって空),Ii1jとなっていた局長と課奨lIMiに任命され、
iil[接「Iりな膳,腎機能を遂行した。こうした軍人}11,身稀の旭)UはjijuIill二}I、Tlj長な ど地力政府の甘長と政府梓fM1企業の経営lllliについても|両|様であった。
iに'1政権の||}|発意欲は、このようにさまざまな経済|#1発機柵を幣備し、軍 部官M1iを行政機榊や政府企業に送り込んだ点によく示されているが、さらに 注'二'すべきは新たに'五|家運営の拙い丁・となった彼らがその膨大な行政轡邸を 能率的に遂1丁するために、陸iliが50イ'1代末に米|噸にから導入して施イ『してい た企画Ilill度(ルトe迎'1Mr計画IIi'|皮)を政府行政および各道庁・ソウル巾行政のな かに導入した点である。それまでの政務次官Ili'|度に代わるものとして設けら れたこの制度により|人Ⅱ#1首lリl;の~|〈に企111Ⅱ統制官が殻かれ、|塵IMr1m1統Ilill'1割の 金LIl武准将がそれにイ[命された。また経済企IIljl院をはじめとする''1央行政部 腿には局長と次官の'''1の階級をもつ企画調整官が置かれ、企、11訳l整官は長官、
次官の参謀としての([務を与えられた。内閣首jjlliilh:凧の企画統Ili'1宮は各部虚 の企1111調整官を機能il<」に統Ili'Iすることになった。政府には企回訓il懸委員会が 柵成され、企1m|統Ilill官が委止i災に、絲済企1Ilil院の企画調整官がMll委員」ji;に なった。こうした唾|家企mIlill度の設立によって、行政部稗の政策と企lIljiを国 家'三|標に照らして辮査、評I111i、洲離し、zll業計画と予算編成を結びつける符 JJ1l迎営方式が作I)111,された(翅錫俊[1968]、内ⅡM:画統Ilill向室[1962])。
この企画IIil1度の導入は、第1次絲済||}|苑5カイIi計1111の策定およびそれと関
第1章第1次経済開発5カ年計画と経済開発体IIil]の成立175 連しての経済企画院の新設と並んで、軍事政権下の二大行政改革と呼ばれた が、経済開発計画の樹立が最高会議の督励の下で民IHI人技術官僚や学者が参 画して行われたのに対し、この企凹Ilill度の導入は内閣首班(宋堯讃)の主導 下でもっぱら軍人たちによって推進された。このIlill度がその後の開発行政に どれほど有効であったかの評{1111は別にして、その動機や導入過程の経緯から して、これは単に行政の能率化を|=|指しただけでなく、軍事革命政府が国家 経済運営にあたって民間の専門技術官僚の協力を必須としながらも、そのイ ニシアティブを軍隊式の企画・統制という通路で確保しようとした努力の現 れであり、独自の開発意志がそこにこめられていたといえよう。
(2)「超官庁」としての経済企画院の新設
国家自主経済再建を掲げた軍事政権は、経済開発計画の樹立作業と並行し て経済行政組織の改編に着手し、経済企画院(EPB)を新設した。経済企凹 院は1961年7月22H政府iMl織法の改正にもとづき「|玉|民経済の復興開発に関 する総合的な計画の樹鑿立とその実施にともなう管理および調整に関する事務 を処理」するために、建設部の総合計画局、物動計凹局、財務部の予算局、
内務部の統計局を吸収して4局19課で発足した。この建設部というのは、従 来の復興部をクーデター直後の機構改編で建設部に改称したものであるが、
改編2カ月足らずで再びそれを経済企画院として拡大強化したのは、「長期 経済開発計画のより強力な統括機構」を作る必要からだった。
経済企脚院はその組織的系譜をたどれば、政府樹臺立後の企画虚(1948.7)、
朝鮮戦争後の復興部(1955.8)などの経済計画機構を受け継ぐものである が、前二者に比べその行政的権限ははるかに強大である。それは経済企画院 が予算編成権を有し、その長官が副総理であるという開発行政上の強められ た権限や地位にもとづく。こうした権限や地位は軍事政椛下で断行された行 政改革の結果であり、その意味で経済企剛院の新設は軍事政権の開発意志を 機構的に体現したものであり、新しい経済開発体制の成立を画するものとし て復興部とは歴史的な不連続性が認められる。しかし経済計画機構という側 面では、経済企画院は復興部とその傘下機関である産業開発委員会に負うと ころが大きく、連続性が強いといえる。それは一つには第1次経済開発5力