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第 3 章 歴史研究の進展とグローバル化

A. 国際的・社会的背景と研究史

1. 硫黄島の戦いと沖縄戦

1-1. 硫黄島における戦後和解の進展

硫黄島の戦いは、日米双方に大きな損害をもたらした戦いであったが、近年に至って、

かつて敵同士として戦った双方の兵士が集まって式典を毎年行っているという点で、非常 に稀有な例と言える。

アメリカでは、この摺鉢山で掲げられた「硫黄島の星条旗」と呼ばれる写真が硫黄島の 戦いのシンボルとなっている825。この写真は

1945

2

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日、ジョー・ローゼンター ルによって撮影されたもので、

2

度目に行われた星条旗掲揚の様子を写したものである826。 摺鉢山制圧を知らせるために最初に掲揚された星条旗の大きさは

135cm×70cm

で、ロイ

825 Library of Congress, American Marines raising American flag on Mount Suribachi, Iwo Jima, 1945 taken by Joe Rosenthal. Call number: LOT 8949.

826 National Archives. “Flag raising on Iwo Jima.” Joe Rosenthal, Associated Press, February 23, 11945. 80-G-413988.

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ス・ロウェリー軍曹が撮影していた827。攻撃開始から

5

日目であるこの日、アメリカ軍の

死傷者は

5,000

人を超えており、この戦況は全米各紙によってアメリカ人に伝えられてい

た。星条旗が摺鉢山に掲げられた時、アメリカ兵の士気は著しく上がったと言われている。

10

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分に旗が揚がった時は、船と島のある沖合から、喝采とサイレン、口笛が聞こえ た828

だが、この時の旗が小さすぎるとのことで、次により大きな

245cm×140cm

の星条旗を 改めて掲揚し、正式な記念写真が撮影されたのである。その写真には

5

人のアメリカ海兵 隊員、マイク・ストランク軍曹(ペンシルバニア州中部の炭鉱の町出身、チェコスロバキ ア移民の息子)、ハーロン・ブロック伍長(テキサス州南端部出身)、レイニー・ギャグノ ン一等兵(ニューハンプシャー州グリーンマウンテン地方出身、先祖はフランス系カナダ 人)、フランクリン・スースリー一等兵(ケンタッキー州出身の登山家)、アイラ・ヘイズ 一等兵(アリゾナ州出身のピマー・インディアン)と、海軍兵であるジョン・ブラッドリ ー二等薬剤兵曹(ウィスコンシン州の農業地帯出身)が写真に写った。この写真は

1945

年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞した829。また、この

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人の出身がアメリカの 各地に散らばっており、アメリカ人の異なった先祖を代表していたことも、この写真が広 くアメリカ国民の精神を高揚させたきっかけとなった830

1951

年、彫刻家フェリックス・ド・ウェルトンによって、ジョー・ローゼンタールが撮 影した摺鉢山での写真をもとに、世界一背の高いブロンズ像が設計され、

1954

年に記念碑 が完成した831。写真に写っている

6

人のうち、生存していた

3

人がモデルとなり、亡くな っていた

3

人については写真に写った頭の位置をヒントに記念碑が設計された832。この記 念碑がアーリントン国立共同墓地近くに海兵隊戦争記念碑として設置されたのは、2004 年になってからのことである833。ローゼンタールの写真に写った

6

人の兵士の出身はアメ リカ各地に広がっており、移民やインディアンの子孫など、その先祖にも多様性があった

834。生還した兵士、アイラ・ヘイズはインディアンを先祖に持っていたこともあり、戦後 差別を受けたこともあったという。だが戦後、時を経て、そのように差別を受けていた

827 National Archives. First Iwo Jima Flag Raising [Feb. 1947-Feb, 1949]. Library of Congress. First flag set atop Mt. Suribachi taken by Louis R. Lowery. Call Number: NYWTS -

SUBJ/GEOG—War—European II—Battles—Iwo Jima.

828 Robert D. Eldridge, Iwo Jima and the Bonin Islands in U.S.-Japan Relations: American Strategy, Japanese Territory, and the Islanders in-between (Quantico; Virginia: Marine Corps University Press), p. 98.

829 The New York Times. A Photographer Says He Was Glad to Join the Marines. March 21, 1981.

830 武市銀治郎『硫黄島:極限の戦場に刻まれた日本人の魂』(東京:大村書店、2001年)、26-27頁。

831 “History of the Flag-Raising on Iwo Jima,” United States Marine Corps http://www.montney.com/marine/iwo.htm(2015328日閲覧)

832 “U.S.M.C War Memorial,” The National Park Service.

http://web.archive.org/web/19990420153547/http://www.nps.gov/gwmp/usmc.htm(2015328 日閲覧)

833 “Collections of the National Museum of the Marine Corps,” National Museum of the Marine Corps.

http://www.usmcmuseum.org/Museum_Collections.asp(2015328日閲覧)、東京大学教養学部 歴史学部会編『史料学入門』(東京:岩波書店、2006年)、209頁。

834 武市、26-27頁。

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WASP

以外の兵士たちがアメリカに貢献した人物の一部を占めていたという事実を明ら かにしたのである。実際に、

2011

年に出されたテキサス州のアメリカ史のカリキュラムに は、「日米戦争中の従軍経験は、アメリカの人種やジェンダーへの見方にどのような変化を 与えたか」という設問が書かれている835。確かに前述のように、日米戦争中は多くの黒人 がアメリカのために貢献した。だが、黒人以外にも、摺鉢山に星条旗を掲げた兵士たちの ような祖先を持つ者や、日系人強制収容の被害を受けた日系人もいる。アメリカが日米戦 争後しばらくして、様々な人種やジェンダーの問題を内部から提起されることとなるにつ れ、戦争をめぐる集団的な認識も変化を迫られたのである。

また、ロイス・ロウェリーの写真とジョー・ローゼンタールの写真の

2

枚を比較し、ロ ーゼンタールの写真がより好まれるのは、兵士たちの個人の顔が見えず、さらに兵士たち の協力体制が読み取れるという点が大きな理由であると言えるだろう836。戦後の日本のよ うに、占領軍の脱軍国主義政策の下で戦争は二度と起こしてはならぬと考える傾向が国民 的に広く見られる国家にとっては、戦争の象徴となる写真は何であれ好ましく思われなか ったが、アメリカのように対ソ冷戦下で朝鮮戦争とヴェトナム戦争に国民を動員する必要 があった国家においては、摺鉢山の星条旗の写真のような象徴化の画像資料は、国民を戦 争へと鼓舞する上で重要なものであった。実際に、アメリカの首都ワシントン

D.C.のナシ

ョナル・モールには、アメリカ史における重要な出来事として、日米戦争や朝鮮戦争、ヴ ェトナム戦争などのモニュメントが設置されており、日米戦争を勝利へと導いた勇敢な大 統領として、フランクリン・

D

・ローズヴェルト大統領のモニュメントも設置されている837。 よって、戦争をめぐる認識や価値観について考察する際には、戦争そのものをどのように 考えるか、という点が非常に重要になる、ということが分かる。

硫黄島は戦後

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年間、アメリカの管理下にあった。1968年、硫黄島を含む小笠原諸島 は日本に返還され、日本の自衛隊はアメリカ軍の滑走路を少しずらした位置に新しい滑走 路を整備した。その際にできるだけ多くの遺骨を回収したが、既にアメリカが滑走路など を建設していたこともあり、まだ数多くの遺骨が未回収のままである838。本格的な遺骨の 収集作業は

1965

年から開始され、その作業は今でも継続されている。現在は、戦時中元 山飛行場と呼ばれていた場所に自衛隊の飛行場があるが、日本に返還された後、硫黄島は 住民の定住が困難とされ、一般住民は居住しておらず、立ち入りも厳しく制限されている

839。戦後、硫黄島が日本人にとって身近な島にならなかったことは、戦後、硫黄島の戦い に日本人があまり関心を寄せなかった要因の一つであると考えられる。

1953

6

27

日には生還者と遺族が中心となり、「①硫黄島及びその周辺における日

835 Keith A. Erekson, Bridging the Gap between K-12 and College Readiness Standards in Texas:

Recommendations for U.S. History. November 2011, p. 34.

www.tfn.org/site/DocServer/Bridging_the_Gap.pdf?docID=2921 (2015623日閲覧)

836 Johns Hopkins Universityの学生との対談より(2015117日)

837 筆者は20138月、12月にナショナル・モールを訪問。

838 The Japan Times. Map of Iwojima’s underground bunkers found in U.S. May 5, 2012.

839 上坂冬子『硫黄島いまだ玉砕せず』(東京:文藝春秋、1993年)、24頁。

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米戦没者に対する慰霊事業、②硫黄島及びその周辺における日米戦没者の遺家族に対する 慰問及び援護事業、③太平洋諸国民間に友情と理解の機縁を促進し以って本地域における 平和維持を増進せんとする事業840」という三つの目的を掲げて、硫黄島協会が設立された。

同協会は遺骨の収集や慰霊事業に取り組み、

1960

年代に入ってからは、硫黄島の戦いで亡 くなった兵士の遺族を募り、本格的な慰霊巡拝が開始されている。日本は摺鉢山の山頂に、

慰霊を目的として記念碑を建立した。硫黄島の戦いにおいて亡くなった日本兵の出身地は 全国に渡っているため、各都道府県から持ち寄った黒い御影石で日本地図が描かれている

841

硫黄島の戦いが行われてから

40

年経った

1985

2

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日、かつて敵味方として戦っ た日米の兵士たちが集まる、「名誉の再会」と名付けられたイベントが行われた842。双方 の戦死者を共に弔い、平和を誓い合うことが目的であり、凄惨な戦いの当事者同士が戦場 となった場所で合同式典を開催する例は世界中にもあまり例がない。まず、ロバート・ホ スキンス元少佐が開会宣言を述べ、日本側からは硫黄島協会の阿部武雄が挨拶をした。そ のあとは駐日アメリカ大使館の軍事書記官で日本史研究を行っていたノーマン・ヘーステ ィング、横田基地のジョセフ・タングウェイ司令官を初め、この式典を実現させるために 協力した日米の主な人々が次々と紹介された843。アメリカ側のメインスピーカーとして硫 黄島再訪の一切を取り仕切ったワルター・リドロン元大佐は戦争の愚かさを説いた。それ に対して日本側は、硫黄島協会副会長の森本一善が、この日米合同の式典こそが両国兵士 の友情の証であり、平和な未来を約束するものだと述べた844

この時に建立された碑文には、「硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾つての日米軍人は本日茲 に、平和と友好の裡に同じ砂浜の上に再会す。我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て 戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つけして之を繰り返 すことのないよう祈る次第である」という文章とともに、アメリカ海兵隊第三、第四、第五 師団協会と日本の硫黄島協会の名前が含まれている。このイベントでは、最初は日米それ ぞれのグループに分かれていた兵士やその家族が、式典終了後にはどちらからともなく歩 み寄り、次第に力強く握手が交わされ、肩を抱き合った。今でも脚に弾丸が入ったままだ と言う者がいたが、そんな中であっても「きっとそれは俺の撃った弾だ」と冗談を言う者 もいれば、「顔に大やけどをして米軍に助け出されたから、俺の鼻はメイド・イン・USA だ」と笑う日本兵もいたと言う。もちろん、全員が最初から喜んで式典に参加したわけで はない。一人の元海兵隊員は、戦闘後、かつての戦友に「頼むから俺たちをあんな狂った 島々にこれ以上行かせないで欲しいと神に祈った」と述べた845。また、かつて海兵隊第四

840 武市、29頁。

841 梯久美子『散るぞ悲しき:硫黄島総指揮官・栗林忠道』(東京:新潮社、2005年)、161頁。

842 National Public Radio. Iwo Jima Anniversary Marked by Tension. March 15, 1995.

843 上坂、205-206頁。

844 前掲書、206頁。

845 Ronald H. Spector. Eagle against the Sun: the American War with Japan (New York: Free Press, 1985), pp. 502-503.

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