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第 1 章 歴史と教育

B. 歴史教育

2. アメリカの歴史教育と歴史教科書

南部諸州での教育に関する平等化はなかなか進まなかった。1863年

1

1

日にリンカ ーン大統領が奴隷解放宣言を発布した後の南北戦争後の再建時代において、とくに南部社 会においては白人と黒人の間には社会的平等の確立が進んでいるかのように思われた。だ が、実際は再建時代の後、必ずしも白人と黒人が共生していたわけではなく、むしろ白人 社会と黒人社会に二分していた。例えば、

1890

年、ルイジアナ州は黒人と白人を鉄道車両 において分離する法案を可決した。そして、これらの人種差別的な法に対して黒人はホー マー・プレッシーという人物を中心に戦おうと決意したのである。1892年に

8

分の

1

の 黒人の血統を持つプレッシーが州際鉄道で白人専用車に乗ったことが咎められなかったた め、プレッシーは自己申告を行い、その結果逮捕されるという結末に至った271。いわゆる プレッシー対ファーガソン事件である272。州立裁判所は、これを人種差別法であるジム・

クロウ法に違反したとしてプレッシーを有罪としたが、プレッシーはこれを「合衆国憲法 修正第

14

条に違反している」と、州判事ファーガソンを告訴した。1896年

5

18

日、

連邦最高裁判所は、修正第

14

条は個人的な差別には当てはまらないとし、プレッシーを 有罪としたのである。これを機に、同年、人種隔離を是認する「分離すれども平等」とい う考え方が認められた273。その結果、白人と黒人の分離は列車のみならず、公共施設全体 の判例となり、教育での分離も行われるようになってしまったのであった274。これらの人 種差別法は、一般的にジム・クロウ法と呼ばれている。

その「分離すれども平等」の考え方は日米戦争が終わった

1945

年以降も継続した。そ して

1954

年、この人種分離政策に対してアメリカ最高裁判所が違憲という決断を下すブ ラウン判決により275、黒人と白人の人種隔離が違憲となったのである276。全米湯職人種地 位向上協会(The National Association for the Advancement of the Colored People、以

NAACP)によって指名されたアフリカ系アメリカ人のオリヴァー・L・ブラウンは娘

リンダが通う黒人学校のモンロー小学校の保護者とともに、子どもたちを最寄りの学校に

271 Zinn Education Project, Plessy v. Ferguson. http://zinnedproject.org/materials/plessy-v-ferguson/

(201511日閲覧)

272 Plessy v. Ferguson, 1896.

273 塚田守『教師の「ライフヒストリー」からみえる現代アメリカ:人種・民族・ジェンダーと教育の視 点から』(東京:福村出版、2008年)、11頁、ハワード・ジン著;岸本和世、荒井雅子訳『爆撃(岩波 ブックレット)(東京:岩波書店、2010年)21頁、Cornell University Law School, Pressy v. Ferguson.

http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/163/537201511日閲覧)

274 椙山正弘『アメリカ教育の変動:アメリカにおける人間形成システム』(東京:福村出版、1997年)、

182頁。

275 Civil Rights Movement Veterans, Brown v Board of Education Decision.

http://www.crmvet.org/tim/timhis55.htm(201511日閲覧)

276 U.S. Supreme Court, Plessy v. Ferguson 163 U.S. 537.

https://supreme.justia.com/cases/federal/us/163/537/case.html(201511日閲覧)、塚田、12頁。

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行かせようと試みた。だが、すべての試みは拒否され、最終的に分離された学校に行かさ れることとなったのである277。地方裁判所は、プレッシー対ファーガソンの判例を用いて、

分離教育を推し進める教育委員会を支持した。三名の判事は、公教育における人種分離の 悪影響を認識していたが、だが、学校は子どもたちを人種別に分離しているだけで、校舎 やカリキュラム、教師などの要素はすべて平等であると主張し、分離教育を否定しなかっ たのである278

この裁判は、このブラウン判決の他、四つの同様の訴訟と合わせて行われた。デラウェ ア州のゲッブハート対ベルトン裁判、バージニア州のデーヴィス対プリンスエドワード郡 学校教育委員会裁判、サウスカロライナ州のブリッグス対エリオット裁判、ワシントン

D.C.のボリング対シャープ裁判であり、すべて NAACP

が金銭および人的な援助を行った

ものであった。1954年

5

17

日、最高裁は、人種分離教育を有効にした

1899

年のカミ ング対リッチモンド群の判決を覆し279、公教育での人種隔離は違憲であると結論付けたの である280

だからと言って、その後すぐに各地で人種統合の教育が開始されたわけではない。だが、

このブラウン判決はアメリカ全土に大きな影響を与えた。特に有名なものは、

1957

年にア ーカンソー州のリトルロック・セントラル高校の事件である。1954年

5

23

日、リトル ロック学校委員会は分離教育撤廃を宣言した。そして、1955 年、2 年後の

1957

年以降、

リトルロック・セントラル高校の人種分離撤廃を決定し、それを受け、

1957

年春、周囲の 高校に通っていた

517

人の黒人から最終的に選抜された、アーネスト・グリーン、エリザ ベス・エックフォード、ジェファーソン・トーマス、テレンス・ロバーツ、カーロッタ・

ウォールズ、ミニジーン・ブラウン、グロリア・レイ、メルバ・パティロ、そしてセルマ・

マザーシェッドの

9

人の学生が秋からリトルロック・セントラル高校に通うことが決定さ れた。だが同年

9

2

日、暴動の予測という名目で、当時の知事オーヴァル・フォーバス は州兵を動員したのである。4日、100名の州兵が配置され、数百人の市民とともに

9

人 の学生の入学を阻止しようと試みた結果、

9

23

日、当時のアイゼンハワー大統領が連邦 法に従うよう、指示をしたのであった281。9月

25

日、陸軍第

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空挺師団に守られなが ら彼らは無事に学校に登校した282。また、翌年

1958

5

27

日は初の黒人学生として、

277 PBS Newshour, Brown v. Board of Education. May 12, 2004.

http://www.pbs.org/newshour/bb/law-jan-june04-brown_05-12/(201511日閲覧)

278 University of Missouri-Kansas City, Brown et. al.v. Board of Education of Topeka et al.

http://law2.umkc.edu/faculty/projects/ftrials/conlaw/brown.html(201511日閲覧)

279 Legal Professionals, Coming v. Board of Education of Richmond Country, 175 U.S. 528 (1899).

http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=175&invol=528 (201511 閲覧)

280 Cornell University Law School, Brown v. Board of Education of Topeka.

http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/347/483(201511日閲覧)

281 Time, The Nation: Retreat from Newport. September 23, 1957.

http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,893684,00.html(201511日閲覧)

282 Tony A. Freyer, Politics and Law in the Little Rock Crisis, 1954-1957. “The Arkansas Historical Quarterly” Vol. 116, No. 2, Summer 2007., Herb Boyd. Little Rock Nine Paved the Way. “New York Amsterdam News” Vol. 98, Issue 40, September 27, 2007. P. 28.

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ジェファーソン・トーマスは同校を卒業したのである283。そして、14年経った

1972

年、

リトルロックではすべての高校で、人種の融合政策が開始されるようになった。つまり、

公教育の「分離すれども平等」が違憲と認められた

1954

年から、実に

18

年経って初めて、

少なくともアーカンソーでは融合教育が現実となったと言えるのである。

1909

年に設立された

NAACP

は、日米戦争後には教育界で用いられる教科書にも大き な影響を及ぼした。第

3

章にて後述するが、

1962

年、

NAACP

はレイドロー・ブラザーズ 出版の歴史教科書を、「奴隷制度を肯定的に記述している」と批判した。そして、市内の学 校から教科書の回収をデトロイト市教育委員会に要求したのである284。長い間、NAACP や市民権運動グループは教科書の人種的偏見を批判していたが、効果が薄かったため、今 回このような事件が起こったと言える。NAACPの要求を受け、デトロイト市は教科書の 回収を決定し、他に使用しているすべての教科書にも人種差別の印象を与える記述がない かどうか点検を開始した。そして、ニューアーク市の教科書協議会もこの訴訟に倣い、こ の運動は他の都市にも急速に広まっていったのであるこのようにして、アメリカは多人 種・多文化から構成されているにも関わらず、教科書には白人の視点が重視されている点 が人々に認識されるようになった。NAACPによる指摘がなされる前は気配りさえされな かったこの点は、

1960

年代末には教育界の常識となり、徐々に多人種の視点が教科書の中 に表現されるようになったのである285

1950

年代から

1960

年代にかけて、黒人たちが公民権の適用と人種差別の撤廃を求めて、

大規模な大衆運動、市民権運動が行われ、リンドン・ジョンソン政権下の

1964

年、市民 権法が正式に成立した286。それにより、憲法修正第

14

条が禁止している公的機関による 差別だけではなく、個人が個人に行う差別の禁止が法的に認められたのである287。これに より、プレッシー対ファーガソン判決の際に、最高裁は「個人が行う差別は憲法修正

14

条には適用しない」としたが、公民権法はこの最高裁の言い分を完全に覆すものであった と言える。今まで差別を受けてきたマイノリティの人々に対し、機会の平等が保障される ようになったが、それだけでは足りないという見解の下、積極的な差別是正措置、すなわ ちアファーマティブ・アクションも実施されるようになった。一般的にアファーマティブ・

アクションは、1965 年、ジョンソン大統領による「行政命令

11246

号」によって開始さ れたと言われることが多いが、実際、最初のものはケネディ大統領の「行政命令

10925」

で、連邦政府との契約者には人種・信条・皮膚の色・出身国にかかわりなく従業員が平等

283 CNN, ‘Little Rock Nine’ member Jefferson Thomas dead at 67.

http://edition.cnn.com/2010/US/09/06/obit.thomas.little.rock.9/index.html?hpt=T1(201511 日閲覧)

284 Frances FitzGerald. America revised: history schoolbooks in the twentieth century (Boston: Little, Brown, 1979), pp. 38-39.

285 FitzGerald, p. 39.

286 Federal Employment and Labor Laws, Civil Rights Act of 1964 – CRA – Title VII – Equal Employment Opportunities – 42 US Code Chapter 21.

http://finduslaw.com/civil-rights-act-1964-cra-title-vii-equal-employment-opportunities-42-us-code-chapter-21(201511日閲覧)

287 塚田、12頁。

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