第 2 章 教科書の記述の変遷
第 1 節 硫黄島の戦いと原爆投下
A. 硫黄島の戦い
1. 概要
1-1. 栗林忠道と硫黄島での戦闘準備
2006
年、アメリカ人の映画監督クリント・イーストウッドによって、硫黄島の戦いを日 米双方の視点から描いた戦争映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』が公開さ れた。映画に出てくる栗林忠道の手紙は、彼が生前に書いた手紙をまとめた『「玉砕総指揮 官」の絵手紙』に基づいている373。この映画は二部作であり、『父親たちの星条旗』はア メリカの側から、『硫黄島からの手紙』は日本側からの視点で描かれている。どちらが悪で どちらが正義、ということではなく、双方の視点から戦争で命を落とした人々に敬意を表371 Library of Congress, American Marines Raising American Flag on Mount Suribachi, Iwo Jima, 1945. http://www.loc.gov/pictures/item/96515062/(2014年12月12日閲覧)。
372 小笠原村『硫黄島』http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline/ioutou/development.html(2014年 12月25日閲覧)。
373 栗林忠道;吉田津由子編『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(東京:小学館、2002年)。
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す映画ということで、人々の注目を集めることに成功した374。
硫黄島は、小笠原諸島の南端に位置する島である。マリアナ諸島のサイパン島と東京の
間約
2,500km
の中間に位置する小笠原諸島に属し、その位置のために、軍事的に重要な意味を持つ島であった375。1891年
9
月9
日、政府は「東京府管下小笠原島南南西沖北緯二 十四度零分ヨリ同二十五度三十分東経百四十一度零分ヨリ同百四十一度三十分ノ間ニ散在 スル三島嶼ヲ小笠原島ノ所属トシ其中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ其南ニ在ルモノヲ南硫 黄島其北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス」と述べた「島嶼所属名称ノ件」を発布し376、硫黄 島を正式に日本領土として編入した。硫黄島は、戦前は島民には「いおうとう」と呼ばれていた。だが
1871
年12
月、全国の 灯台設置状況を示すために書かれた地図には”Iwo Sima(いおうしま)”と書かれており、明治政府はこれを引き継ぐ形で洋式灯台等の設置を進めた377。明治政府はこれに倣って
「いおうじま」と書いた海図を作成し、アメリカはこの海図に従って硫黄島を”Iwo Jima”
と呼んだのである。また、アメリカでは太平洋の島々における作戦戦闘名称は基本的 に”Battle of Saipan”、”Battle of Guam”などのように、通常”Tou”(島)が付かないが、
硫黄島の戦いのみ、作戦戦闘名に”Tou”(島)が付けられ、それも”Tou”(島)ではなく”Jima”
と誤記された。そして、硫黄島の戦いが激戦であったことから、”Iwo Jima”という名称が 広く普及したのである378。1968 年に施政権が日本に返還された際、国土地理院発行の地 図では島の名前が「いおうとう」に戻された。だが、
1982
年の地形図改訂の際、小笠原村 は東京都に島の名前を「いおうじま」として報告したため、地形図でも「いおうじま」が 通称となった。また、海上自衛隊と航空自衛隊が、返還後もしばらくの間、アメリカ軍と 同居する都合上、共通の基地名Iwo Jima Base
を使用し、アメリカ軍から引き継いだ後も その基地名称を変更しなかったため、「いおうじま」という名称が馴染んだとも言える379。 だが、硫黄島は本来「いおうとう」であるという島民やその子孫からの要望を受け、2007 年3
月、小笠原村議会では島の名称を「いおうとう」にするという「硫黄島の呼称に関す る決議案」を成立させ、国土地理院に提出したのである。これを受け、国土地理院と海上 保安庁海洋情報部で構成される「地名等の統一に関する連絡協議会」が検討を続け、同年6
月18
日の協議会で正式に名称が「いおうとう」と変更された380。これに対して、アメ リカでは硫黄島は日米戦争中に激戦が行われた”Iwo Jima”であるというイメージが強い374 『父親たちの星条旗”Flags of Our Fathers”』 クリント・イーストウッド監督(アメリカ、2006年)、
『硫黄島からの手紙”Letters from Iwo Jima”』クリント・イーストウッド監督(アメリカ、2006年)。
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/letter/index.html (2014年12月12日閲覧)。
375 近現代史編纂会編『図解 特攻のすべて』(東京:山川出版社、2013年)、86頁。
376 明治24年勅令第190号(1891年9月10日に発布)。
377 国立公文書館 公文付属の図・九号 各所灯台設置箇所絵図 本館2A-030-03・附A00009100。
378 武市銀治郎『硫黄島:極限の戦場に刻まれた日本人の魂』(東京:大村書店、2001年)、12頁。
379 前掲書。
380 国土交通省 国土地理院『硫黄島の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」へ変更』
http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2007-0618.html (2014年10月6日閲覧)、USA Today. Japan changes name of Iwo Jima. June 20, 2007.
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ため、この名称の改正にはアメリカから反対の声明が提出された381。だが日本では、2007 年
9
月発行の地形図、そして海上保安庁が発行する海図においても、「いおうとう」が正 式な名称となった。一方、アメリカ海兵隊の公式ウェブサイトには、硫黄島は「いおうじ ま」として記載されている382。アメリカが硫黄島を攻略した最大の目的は、アメリカ軍の爆撃機がマリアナ諸島の基地 を発進して日本本土を空襲するための中継基地および護衛戦闘機の基地の確保であり、言 い換えれば、常時最新鋭の長距離爆撃機であり、唯一高度
1
万メートルの高さを飛べるB-29
の中継基地として、また、護衛戦闘機の基地として硫黄島の滑走路を使用するためで あった383。アメリカが日本本土に空襲を行うためには、まず基地となる硫黄島を入手する 必要があったのである。1944年11
月末に、アメリカは南マリアナ諸島の陸軍航空基地を 完成させ、B-29 による東京爆撃を可能としていた384。だが、それまでサイパンを飛び立 ったB-29
は、東京までの約2,500km
を、戦闘機の護衛なしに飛ばなければならなかった。そして、それだけの距離を飛び、尚且つ十分な燃料を維持するためには、搭載する爆弾の 量を減らさなければならず、また、B-29の故障や被弾の際、不時着する場所がなかった。
万が一の場合は太平洋に不時着する他、方法がなかったのである。また、その長距離のた めに、戦闘機はマリアナ諸島と日本を往復するだけの技術を有しておらず、
B-29
を護衛す ることができなかった385。硫黄島に設置された日本のレーダーが、アメリカの爆撃機の接 近を感知して本土に警報を発令し、硫黄島から飛び立った日本の戦闘機がB-29
に攻撃を してくる可能性が考えられたのである386。硫黄島には日本軍の飛行場があったため、既に 日本軍は日本の本土に向かうアメリカ軍の戦闘機を迎撃し、レーダーでアメリカ軍を捉え て本土と無線連絡を取り、迎撃を促していたのである387。これらの問題を一挙に解決する ために、アメリカは硫黄島を手に入れようと考えたのであった。日本にとっては、硫黄島を失うということは本土防衛のための拠点を失うということを 意味した。アメリカが硫黄島を奪取すれば、アメリカの日本本土への攻撃が可能となって しまう388。つまり、硫黄島がアメリカの手に渡れば、多くの日本人の命が失われることに なるのである。さらに、これまでにマリアナ諸島などで激戦が繰り広げられてきたが、硫 黄島を奪われてしまえば、それは歴史上初めて、従来の日本の国土の一部を失うことを意 味したため、日本は何としてもこの島を守らなければならなかったのである。なお、一般
381 産経新聞『「イオウジマを返せ」「歴史書き換えだ」硫黄島の呼称変更でアメリカ激怒』2007年6月 22日。
382 The Official Website of the United States Marine Corps. Reunion of Honor.
http://www.hqmc.marines.mil/News/NewsArticleDisplay/tabid/3488/Article/160978/reunion-of-hon or.aspx(2014年10月24日閲覧)。
383 講談社編『20世紀全記録:Chronick 1900-1990』(東京:講談社、1991年)、658頁、留守晴夫『常 諸子の先頭に在り:陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』(東京:慧文社、2006年)、14頁。
384 冨永謙吾編著『定本・太平洋戦争』(東京:国書刊行会、1986年)、279頁。
385 近現代史編纂会編、86頁。
386 梯久美子『散るぞ悲しき:硫黄島総指揮官・栗林忠道』(東京:新潮社、2005年)、47頁。
387 越村敏雄著、吉川清美編『硫黄島の兵隊』(東京:朝日新聞社、2006年)、13頁。
388 William V. Pratt. “What makes Iwo Jima worth the price” Newsweek. April 2, 1945.
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住民はサイパン陥落後、将兵および軍属(軍人以外の軍関係の者)の一部の住人を除いて、
本土あるいは父島への疎開を余儀なくされ、島にはいなかった。そのため、戦闘中、硫黄 島に住む一般住民が戦闘に巻き込まれるということはなかった389。これはのちに述べる沖 縄戦とは大きく異なる点である。
硫黄島の戦いについて考える時、栗林忠道陸軍中将(戦死後、大将に昇進)を避けて通 ることはできない。彼はアメリカやカナダに駐在した経験を持ち、陸軍では知米派として 知られた390。彼は
1944
年6
月8
日、硫黄島に向かって出発した。そこで、島を見て回り、地形とその自然条件を学んでから作戦を立て始めたのである。摂氏
60
度になることもあ る地熱や地中から吹き出す硫黄ガスの存在を知り、アメリカ軍を迎え撃つための作戦を練 り始めた。また、硫黄島には飲み水を手に入れるための川がなく、兵士たちは飲料水不足 に頭を悩ませた391。井戸を掘っても硫黄や鉱物が混じっており、雨が滅多に降らない中、僅かな雨水を蓄えてもボウフラが湧くという不衛生なもので、下痢患者が続出したとされ る392。そして、どれだけ喉が渇いても、1日に与えられる水は半リットルのみだった393。 来る戦闘に向け、栗林は二つの決断をした。まず、アメリカ軍が上陸する前に海岸に備 え付けた砲台から上陸用舟艇に向けて猛射するという従来の水際作戦は効果がないとして、
採用しなかった394。この水際作戦は、上陸してくる敵を水際で阻止する戦術である395。ま ず、水際作戦には主に三つの利点がある。まず、近付いてくる船艇を海岸から射撃しやす い。船艇は通常、密集しており、また、上陸用の船艇は十分な火力が装備できていない。
そのため、迎え撃つ側が有利になるのである。次に、上陸してきた部隊を逐次狙い撃ちに できる。一度に上陸できる兵士の数は限られており、それを順番に撃破することができる。
最後に、上陸した部隊が十分な戦闘能力を発揮する前に攻撃できるという点である。上陸 直後しばらくは、迎え撃つ側が有利になる。そのため、水際で敵を倒せば、大きな効果が 期待できるのである396。だが、アメリカは十分な航空戦力を有し、上陸前に徹底的な爆撃 を行っていた。その総体的な攻撃力は水際でも弱くなることがなかったのである。このこ とを見抜き、栗林は早い段階から水際作戦を断念した。そこで彼は、アメリカ軍を上陸さ せ、地下に掘った陣地に潜んで徹底抗戦を行おうと考えたのである397。そして、敵の上陸
389 防衛庁防衛研修所戦史室『沖繩方面海軍作戦』(東京:朝雲新聞社、1968年)、235頁。
390 近現代史編纂会編、86頁、永沢道雄『特攻総決算:なぜ特攻隊だったのか』(東京:光人社、2004年)、 169頁。
391 産經新聞社編『あの戦争:太平洋戦争全記録』(東京:ホーム社、2001年)、90頁。
392 近現代史編纂会編、87頁。
393 国立国会図書館『実録太平洋戦争5』(東京:中央公論社、1960年)、11-12頁。
394 防衛庁防衛研修所戦史室『沖繩方面海軍作戦』、235頁、ピーター・ヤング原著;戦史刊行会編訳『日 米戦争通史:全作戦図と戦況』(東京:原書房、1981年)、360頁、歴史教科書教材研究会編『アジア 各地での戦争:歴史史料体系第14巻』(東京:学校図書出版、2001年)、470頁。
395 山口明穂編『旺文社国語辞典』(東京:旺文社、2013年)、1418頁。
396 沖縄県公文書館 (00048-002) JA0106 0000D383J 51. Monograph No. 51 (Army): Iwo Jima and Ryukyu Islands Air Operations Record (in Japanese)(「硫黄島及南西諸島方面航空作戦記録」(昭和 21年8月調製、昭和24年4月複製、第一復員局))。
397 梯(2005年)、77頁。