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第 2 章 教科書の記述の変遷

第 2 節 原爆投下

C. 原爆投下

原爆投下は、現在でも論争を巻き起こすテーマである。日本で「第二次世界大戦」と聞 けば、真っ先に原爆投下を思い起こす人も多いだろう。

なぜそこまで原爆が重視されるのだろうか。それはやはり、多くの民間人を無差別に殺 傷し、今でも多くの傷跡を残しているからであろう。そもそも第二次世界大戦の戦死者に おける民間人の割合は全体の

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割を占めており613、だからこそ、今でも歴史認識をめぐる 論争が絶えない。原爆投下はまさしく民間人を無差別に殺傷する「戦略爆撃」の一環であ り、さらに、命は助かったものの、後遺症やその後の社会的偏見、差別に苦しむ者も多い ため、日本人にとって、原爆は未だに癒えぬ傷として残っているのである。

原爆について知るためには、戦略爆撃について知らなければならない。戦前の日本は近 代化を遂げていたが、1923 年

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日の関東大震災によって未曾有の被害を受けた。こ の被害により、日本は海外諸国に対し、日本家屋は木と紙でできており、如何に火に弱い か、ということを周辺諸国に知らせる結果となった614。そして、そこから学んだ連合国は、

1945

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日から

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日未明の東京大空襲により、火災兵器による戦闘を開始したので あり、同年

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月の原爆投下はその延長線上に位置するのである615。ただし、一般市民を巻 き込む戦略爆撃は、まず日本軍によって中国人に対して行われたということを忘れてはな らない616

1. 概要

1-1. 原爆投下と被害

近年、原爆投下に関する多くの史料が開示され、様々な議論が進んでいる。歴史家サミ ュエル・ウォーカーによれば、以下の

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点が明らかになっている。①原爆を使用せず、上 陸作戦も展開せず、比較的短期間に戦争を終結させる他の選択肢が存在したこと、②トル ーマンや主要な側近たちは、日本が非常に弱体化しているので上陸作戦以前に戦争が終結 すると信じており、彼らは上陸作戦を不可避とは考えていなかったこと、③日本への上陸 作戦が必要であるという最悪の場合ですら、

1945

年の夏の時点で、軍事政策立案者たちは アメリカ兵の死亡者数は、トルーマンや側近たちが戦後に主張した何十万人よりずっと少

613 荒井信一『空爆の歴史:終わらない大量虐殺(岩波新書)(東京:岩波書店、2008年)、73頁。

614 Ronald Shaffer, Wings of Judgment: American Bombing in World War II (New York: Oxford University Press, 1988), pp. 107-108、半藤一利『昭和史:1926-1945年』(東京:平凡社、2006年) 445頁。

615 Shaffer, p. 107.

616 前田哲男『戦略爆撃の思想:ゲルニカ、重慶、広島』(東京:凱風社、2006年)

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ないと予測していたこと、である617

硫黄島と沖縄において多くの死傷者数を出したアメリカは、本土上陸作戦の実行を懸念 するようになった。日本の敗北は必然的なものと見えたが、本土上陸作戦によって大東亜 共栄圏の崩壊が確実であったとしても、勝利の代償は計り知れないものと考えられたから である618。硫黄島や沖縄での勝利はアメリカが想定していた以上の時間がかかり、予想以 上の死傷者数を出した。特に片道分の燃料のみを積載し、十分な訓練も受けずに自爆した 神風特攻隊のパイロットたちに日本が依存していたことは、日本が弱体化していたことと 同時に、国民の戦意がなお衰えていない事実をあからさまに表していたのであった。当時 の日本国内では「最後まで戦い抜く姿勢」が重視されて軍は「皇土決戦」を叫び、和平論 者は臆病者と呼ばれていたのであった619

1938

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日、ドイツからアメリカに亡命したアルバート・アインシュタインは、

レオ・シラードの依頼で当時のアメリカ合衆国大統領であるフランクリン・ローズベルト への手紙に署名し、ドイツが核兵器を製造しようとしているということを知らせた620。そ の脅威を防ぐために、1939 年

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月の欧州の第二次世界大戦の勃発とともに、ドイツより 先に爆弾を手にしようと、アメリカは研究を開始した621。アメリカの計画は米国陸軍工兵 隊が管轄しており、原爆を製造する工兵管区がニューヨークに設置されたため、「マンハッ タン計画」と呼ばれるようになっていった。もともとドイツに対する脅威から開発が始ま った原爆であったが、1944年

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日のハイド・パーク協定で、ローズヴェルト大統領 とイギリスのチャーチル首相は、「熟考を重ねた結果、日本人に対して原爆を使う可能性も ある」と合意していた622。1945年

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日、ドイツは降伏し、原爆の開発を進める必要 はなくなったように思われたが、その後もマンハッタン計画は続行されたのであった。そ して、

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億ドルもの高額な費用を費やしたこともあり、この出費のために、原爆の使用は 不可避となっていったとも考えられる。莫大な資金を費やした後で原爆が不発となれば、

連邦議会の議員たちから容赦なく詰問される可能性があったのである623。スティムソンは、

自身の論文の中で「原爆が完成し、戦争を終結させることができるマンハッタン計画が成 功したため、彼らは満足と安心を得た」と書いている624

ロスアラモス研究所では、所長であるロバート・オッペンハイマーと海軍大佐であるウ ィリアム・パーソンズが中心となり、原爆の設計と投下目標の議論が開始された625。原爆

617 Samuel Walker, Prompt and Utter Destruction: Truman and the Use of Atomic Bombs against Japan (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1997), p. 6.

618 Ibid, p. 24.

619 L・ギオワニティ、F・フリード『原爆投下決定』(東京:三陽社、1967年)、92

620 Nuclear Engineering Division, Argonne National Laboratory. The letter from Albert Einstein to President Franklin D. Roosevelt. (August 2, 1938).

621 Walker, p. 10.

622 ロナルド・タカキ『アメリカ-はなぜ日本に原爆を投下したのか』(東京:草思社、1995年)、30頁。

623 Walker, pp. 94-95.

624 Henry Stimson, “The decision to use the atomic bomb” Harper’s Magazine Vol. 194, No. 1161 (February 1947): 97-107

625 中沢志保『ヘンリー・スティムソンと「アメリカの世紀」(東京:国書刊行会、2007年)、142頁。

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を投下する地点を選定するにあたり、心理的要素が極めて重要とされ、目視で投下地点を 確認する必要があったため、天気も重視されることが明確にされた626。そして、①日本に 対して最大の心理的影響を与えること、②原爆使用が発表された時に、この武器の重 要性が国際的に十分認められるよう、最初の使用方法は際立ったものでなければなら ないということが確認された627。通常爆撃によって大きな破壊を受けていない都市と いう考慮の下、京都、広島が

AA、横浜と小倉が A

となり、AAの優先順位が

A

より 上位とされた628。その際、京都が優先目標になったが、それに対してはスティムソン 陸軍長官が異議を唱えた。彼は戦前、3 度に渡り京都を訪れ、京都が有する文化財の 存在を知っていた。彼は、京都は日本の文化の中心であり昔の首都であることから、

また、戦後の日米関係への憂慮からも、京都の破壊を快く思わなかったのである629。 さらにスティムソンは、精密爆撃の原則の遵守を求めた630。そして、原爆による終戦 の到来を確信するあまり、アメリカ軍は徐々にソ連の参戦をアメリカの勝利を邪魔す る行為だとみなすようになっていったのであった631

また、当時アメリカはドイツに対する脅威から原爆の製造を開始したが、アメリカ人は ドイツ人に対する敵意をはるかに超える嫌悪感を日本人に対して持っていた。その発端は、

1941

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日(現地時間

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日)に行われた日本軍による真珠湾への奇襲攻撃だった。

当時のハワイはまだ準州であり、その

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番目の州への昇格は

1959

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日のことで ある632。それでも、その日本の「奇襲攻撃」は領土への空襲を受けたことのなかったアメ リカにとって、自尊心を傷つける行為であった。その感覚は

2001

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日にアメリカ の世界貿易センタービルや国防総省が攻撃された際に、この同時多発テロが「第二の真珠 湾」と言われたことからも読み取れる633。また、真珠湾攻撃以外にも、アメリカ人が日本 人を残忍な存在だと思うようになっていた理由があった。それは、日本の帝国陸軍がアジ ア大陸で行った残虐行為である。ドイツ軍が行ったホロコーストは、ナチスが降伏した後 に世界に知れ渡るようになっていたのであり、戦争当時はまだ知られていなかった。その ような中で、日中戦争中の日本軍による民間人への攻撃、民間人への強姦、拷問、殺戮が 繰り返された

1937

年の「南京虐殺」、そして、日本軍の香港における尼僧の強姦や殺害、

マラヤにおける英国人の手足の切断や絞首、斬首などの残虐行為が報告され、アメリカ人

626 Barton J. Bernstein, “The Atomic Bombings Reconsidered” Foreign Affairs Vol. 74, No. 1 (January 1995), pp. 135-152.

627 荒井『原爆投下への道』(東京:東京大学出版会、1985年)、202頁。

628 The Decision to Drop the Atomic Bomb on Japan (Bethesda, Maryland: University Publications of America, 1995), Vertical File – “Yale U. Documents” Summary of Target Committee Meetings on 10 and 11 May 1945., Leslie R. Groves. Now it can be Told: the Story of the Manhattan Project (New York: Da Capo Press, 1962), pp. 227-232.、中沢、155-156頁。

629 L・ギオワニティ、F・フリード『原爆投下決定』(東京:三陽社、1967年)40頁、Shaffer, pp. 143-144.

630 Stimson.

631 国立国会図書館 憲政図書館 Henry Lewis Stimson Diaries, May 13, 16, and June 6, 1945.

632 National Archives. 1898 JOINT RESOLUTION to Provide for Annexing the Hawaiian Islands to the United States.

633 USA TODAY. Dec. 7 and Sept. 11: Generations apart, forever linked; On Pearl Harbor’s 60th, survivors reflect on a new day of infamy. (December 7, 2001: A01)

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