概要
治安に関する詳しい状況については、関係者は歴史、治安部隊、非政府武装集団と附属文書B:
政治団体や他のグループと共に、このセクションに目を通すことを提言する。女性と一般的児 童の立場と治安状況の影響のそれぞれについては、これらのセクションを参照のこと。
8.01 2011年4月1日から2012年2月29日までの出来事を網羅している信教の自由米国国際委員会
(United States Commission on International Religious Freedom)の年次報告書(2012年3 月付)(2012年USCIRF報告書)は、アフガニスタンの治安状況を以下のように説明している。
治安状況に関しては、国の多くの地域で宗教の自由、人権問題が悪化しており、未だに深刻な 状態である。タリバーン政権時の主要なパートナーであったアルカイダの工作員の人数は、今 日では減少していると考えられるが、アフガニスタン政府と国際勢力はタリバーンや他の反政 府グループとの戦いを続けている。タリバーンに続く他の主要な反政府グループはハッカー ニ・ネットワーク(Haqqani network)である。ソ連に反対する米国出資ムジャヒディン戦闘員 ジャラルッディーン・ハッカーニ(Jalaluddin Haqqani)と、彼の息子セラジュッディン
(Sirajuddin)が率いている。ハッカーニ·ネットワークは、パキスタンの北ワジリスタン(North Waziristan)に安全な避難地を得ている。タリバーンの同盟であるが、従属関係にはない。
カルザイ大統領政権は、米国、及びNATO軍と20以上の部隊で構成されている国際治安支援部隊 の積極的な支援(ISAF)の提供にも関わらず、特にカブールや主要な州の中心以外の地域には 完全な支配を行使していない。タリバーンや他の武装勢力は、アフガニスタン国内で攻撃を仕 掛け続けており、国の安定性に対し脅威を与え続けている。攻撃には、2011年9月の在カブール 米国大使館の襲撃と、イスラムの宗教的な場所への爆撃が含まれている。 - 例としては、カブ ールのシーア派モスクが2011年12月に爆撃された。[40a] (p 285)
8.02 2011年10月から2012年3月までの期間を対象にした米国防省の「アフガニスタンにおける安
全と安定への発展」に関する報告書(2012年4月付)(2012年 USDD報告書)は、以下の情報を 提供している。
武装勢力に関連するグループの作戦の特定の領域は、それぞれ異なるが、武力勢力は一般的に パキスタンとの国境に沿った、とりわけ、アフガニスタン南部と東部のパシュトゥーン人が大 多数の場所、および北部のパシュトゥーン集落で活動する傾向がある。武装勢力の司令官と戦 闘員の大多数がそれぞれの自宅の地区或いはその近くで活動し、下級の戦闘員はしばしば地元 住民とうまく融合している。地元民ではない下級戦闘員は武装勢力の比較的小部分を構成して いる。[41a] (p 54-55)
8.03 2012年のUSDDの報告書は、次のようにも述べている。
タリバーン主導の武装勢力とそのアルカイダ関連勢力は、依然としてパキスタンの聖域から大 手を振って作戦をしかけている。武装勢力のパキスタン内の安全な避難所の存在だけでなく、
アフガニスタン政府の限られた能力は、治安向上を耐久性のある持続可能なアフガニスタンへ 変革させる手段とするプロセスに最大のリスクを残している。武装勢力は顕著な作戦能力と再 生する能力を有し、パキスタン内部の安全な避難所から利益を得る。武装勢力は、依然として 弾性のある決意を持った敵であり続け、恐らく失った土地を取り戻そうとし、暗殺、脅迫、あ からさまの攻撃や簡易爆弾(IED)の据え付けを通じて、この春と夏に影響を与える可能性があ
る。さらに、アフガニスタン政府は、広範囲に広がる腐敗に直面し続け、政府の有効性と正当 性が制限され、武装勢力のメッセージを強化するであろう。[41a] (p 1)
8.04 同報告書は、以下を観察している。報告期間中[2011年10月1日から2012年3月31日]、アフ ガニスタン国家治安部隊(ANSF)-国際治安支援部隊(ISAF)の作戦は維持され、2011年の春と 夏の間に幅広い向上が達成できた。そして、武装勢力の結束と能力を低下し続けた。[41a] (p 55) 8.05 2011年に発生した事件を網羅する2011年テロに関する米国務省の国別報告書(2012年7月付)
は、以下を観察した。
アフガニスタンの主要な人口密集地では連合軍、国際及びアフガニスタン政府施設に対する調 整された、複雑な自殺攻撃が仕掛けられた。西洋人が集中するホテルや他の会場も標的とされ た。2011年には多数の著名なアフガニスタン政府高官が、特にカブール市とカンダハール州
(Kandahar)で暗殺された。タリバーン、 [ハッカーニ・ネットワーク、HQN] やその他の反乱 要素は、治安手順に適応し、それに応じて攻撃を計画する能力を実証した。過去のパターンと 同じく、夏の数か月にわたってかなり多数の攻撃が行われ、冬の季節が近づくとその数は着実 に減少した。依然としてヘルマンド州(Helmand)とカンダハール州(Kandahar)が連合軍にと って最も危険な州であった。[58g] (p129)
8.06 防衛&治安インテリジェンス&分析: IHSジェーンズ、アフガニスタン、(IHSジェーンズ)概
要(2012年10月15日更新)では、次のように述べている。
アフガニスタンはほぼ三十年間、激しい紛争に苦しんでいる。民族が分裂し、宗教が混在し、
異なる領域にパシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人及び小規模の少数民族が集 中しており、多数派であるスンニ派と少数派である20%のシーア派イスラム教徒が激しく対立 している。地域の族長が、民族の利益を保護し、大手を振って民兵を組織している一方で、NATO による指揮の下、複数の加盟国から構成される部隊(国際治安支援部隊、ISAF)が持ちこたえ る武装勢力に四苦八苦している。国際治安支援部隊(ISAF)は、28の全NATO加盟国を含む49か 国から構成され、5,000人から多い時で132,000人の規模まで拡大され、NATOの指揮外で活動す る米国主導の軍隊と並んで活動している。バラク・オバマ大統領は、部隊配置の拡大戦略を監 督し、2009年2月に17,000人の増兵、一か月後には特にアフガニスタン国軍育成のために更に 4,000人の増兵を誓約し、2009年12月には、2010年半ばまでにアフガニスタンに更に30,000人以 上の米軍を配置し、米軍の勢力をほぼ100,000人に仕立てた。これは、それ以来、逆転されてお り、2011年半ばに引上げを始めた増員兵が 2012年9月までに完全に撤退を完了し、アフガニス タンにはわずかに70,000兵を上回る米軍が残った。アフガン軍は、2011年7月から7つの地域の 治安を担当した。その後、外国軍が2014年末までにアフガニスタンから撤退する前に、権力の 移行の一環として、2011年11月と2012年5月にさらに多くの地域を管理するという発表をした。
2012年5月に、NATOは2013年半ばまでにアフガン軍に戦闘コマンドを引き渡す計画を承認した。
米国とアフガニスタン政府は2012年4月に、長期的な戦略的取決めを締結し国の米軍基地をそれ 以降も許可した。多くの新兵に支えられ、パキスタン国境の州で親タリバーン武装勢力の影響 力を拡大した前タリバーン政権のメンバーは、政府や外国軍やその職員への攻撃を続けている。
麻薬の大規模な貿易が経済的、政治的な安定に油を注いだ。政府は全国に令状を発行する能力 はないが、国際的な関心が国に留まる間は、転覆することはほとんどないであろう。[9b]
暴力の程度と性質については、サブセクション、治安関連事象の動向と統計を参照のこと。
現在の紛争の背景
8.07 国連難民高等弁務官(UNHCR)の法律及び保護政策研究シリーズのために制作されたキングスカ
レッジロンドンの戦争研究学科のテオファレル(Theo Farrell)とオリヴィエ·シュミット
(Olivier Schmitt)の論文、「1990年から2010年の武力紛争の原因、性格と行動、そして民間 人への影響」(2012年4月)は、1970年代後半から2010年までの治安状況についての説明を提 供している。
アフガニスタンは1978年以来、ほぼ連続的な武力紛争に耐えてきた。それまでの四十年間は、
国は平和と安定を享受していた。 1978年から1979年には、新たなマルクス主義政府の社会改革 や土地改革に対する農村暴動が一般的であった。1979年にソ連はより信頼性の高い体制を配置 するために侵攻し、活発なイスラム武装勢力に対し、10年に及ぶ紛争の引き金になった。ソ連 軍の撤退後もカブールはソ連が崩壊する1991年12月までソ連の援助を受け続けた。その直後に、
アフガン従属国政権が続いた。不安なムジャヒディン同盟が決裂し、ライバルのパシュトゥー ン、タジク、ウズベクとハザラの軍閥が土地と権力のために互いに戦う中、悪質な内戦が1992 年に始まった。イスラム過激派であり、ほとんどがパシュトゥーン人の運動であるタリバーン が、混沌、腐敗とムジャヒディン内戦の残忍さに応答し、1994年に出現した。南部のカンダハ ール州から始まり、タリバーンは立て続けに主要な軍閥を倒し、西部の街、ヘラート州(Heart)
と、東部の街ジャララバード州(Jalalabad)を陥落し、最後に1996年にカブール、1997年に北 部の街マザリシャリフ(Mazar-i-Sharif)を手中に収めた。1998年までに、タリバーンはアフ ガニスタンのほとんどの地域の支配を確立していた。タリバーン戦争はタジク人、ハザラ人の 緩い北部同盟と、北部及び北東部の山の中に立てこもったライバル、パシュトゥーン民兵と闘 争を繰り広げた。
2001年10月の米国主導の侵攻は、タリバーンの急速な敗北と、北部同盟及び元ムジャヒディン 軍閥から成る新しい暫定政府の任命につながった。 2002年から2005年のつかの間であったが、
アフガニスタン紛争が休止した。残ったタリバーンはパキスタンに後退していたが、国際的な 存在がライバル軍閥間の権力争いが大きな紛争に発展するのを回避した。2003年、北大西洋条 約機構が国際治安支援部隊(ISAF)を指揮し、カブールから比較的寛容な北部や西部に国際治 安支援部隊(ISAF)を拡大し始めた。南部と東部の州に国際治安支援部隊(ISAF)が拡大され るにつれ、2005年から2006年には、紛争が再燃した。2009年には、米国は、新たに選出された 大統領のバラク·オバマの下でアフガニスタン戦争へのコミットメントを倍加し、その結果とし て、米軍の増員と資金のさらなる拠出を行った。また、国際治安支援部隊(ISAF)の新司令官、
米軍スタンレー・マックリスタル将軍(Stanley McChrystal)は、新たな熱意と軍事作戦への 方向性をもたらした。2009-2011年は軍事作戦の激化が見られた。南部と東部での国際治安支援 部隊(ISAF)の主要なる攻勢(より安定した北部と西部にタリバーンの活動の一部が移動した)、 タリバーンの指導者を殺害・捕捉するための特殊部隊による襲撃、アフガン治安部隊の発展の ための取り組みが加速した。[53b](p14)
8.08 同紙が以下を説明している。
アフガニスタンの[内部武力紛争] には複数の原因があった。多くは1979年から1989年までのソ 連軍に対するジハードのように、2001年以降の紛争は、不信心な侵略者に対する現在東部の他 の二つの主要な反政府グループ(ハッカーニ・ネットワークとヘクマティヤールのHIG)と同盟 にあるタリバーン率いるイスラムの反乱である。現在の紛争もまた内戦である。一部のものは ギルザイパシュトゥーン人(タリバーンの中核を形成している民族)と勝利を誇る北部同盟(ド