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1911 年の「辛亥革命」によって清朝政権が打倒され、数千年の封建時代の歴史に終止符 を打つこととなった。しかし、革命の勝利はすぐにその理念に基づいて新しい中国社会の 建設に結ぶことができなかった。辛亥革命の不徹底な結果により、旧清朝政府の北洋軍の 支配者である袁世凱が大統領となった。政治的復古を企てた袁の支配および彼が死んだ後 の軍閥割拠という政治的・社会的不安定と経済的問題が続いていたこの時期は、1928 年蒋 介石を中心指導者とした「南京国民政府」が樹立されるまで民国初期といわれる。また、

政治上、1928 年以降の「南京政府」に対し、民国初期の政府が「北洋政府」と言われる。

一方、1928 年以降の蒋介石の政権は民国中期の始まりといわれている。このときに、政府 は様々な分野における改革を行いながら、一党支配の政治的独裁の政策を採っていた。し かし、この民国中期における政治的・社会的事情は民国初期と比べ、安定しながら、よい 方向に向かっていたとはいえない。具体的には、民国初期以来の財政難が続いた中、「南京 政府」は、対内的には、1921 年に発足した共産党との争い、対外的には、列強の中国での 治外法権などのような政治的・経済的特権をめぐる問題への対処や、日本の軍国主義の拡 張下で行われた対中国の侵略行為などへの対抗というような内外問題を抱えていたのであ る。

本章では、こうした民国時代の2つの時期、つまり、民国初期と日中戦争(1937-1945 年)までの民国中期に焦点を当てて、考察したいと思う。本論は民国初期まで論及の範囲 を限定せず、「南京国民政府」の 1927 年から 1937 年までの時代も考察の視野に入れること にしたのは、民国初期および 1937 年に始まった日中戦争の間に挟まれたこの時期は政治的、

社会的な状況が相対的に安定していたことによって、政府による教育に関する諸制度の制 定や諸法令の発布が相次いだからである。そのため、この時期が近代学校制度の定着期で あると見做してよい。この章では、すでに第1章では明らかにした清朝末期における人材 養成教育の特徴とその人材の特質が、民国時代に入って、どのように受け継がれていった のか、また、新たな展開が行なわれていたのか、さらに、以後の時代のためにどのような 基盤を築いたかを検討してみることにする。すなわち、清朝末期において、伝統的学問教 養は新たな時代に対応させるために、いかに近代的専門知識と融合し、その新しい位置付 け問題に関して、政府側および関係者の間では様々な議論や葛藤が展開されていた。中に は数多くの具現化した活動も見られていた。このように前の時代に始められた人材養成教 育における「中学」と「西学」のそれぞれの役割に関した特徴は、民国時代に入って、ど

のように受け止められ、それに、新しい民国社会に応じて、新たな特徴のある教育とその あり方を作り出したのかを中心に考えていきたい。とりわけ、新しい時代に政府が直面し た新たな課題とその課題の取り組み方、それに関わる政策・方針、法令などの制定を見て いくとともに、清朝末期に残されてきた人材養成教育における問題の解決状況とその解決 方法、また、新しい展開状況を考察していく。これによって、民国初期と日中戦争までの 民国中期において、人材養成教育における伝統的な学問教養はいかに西洋の近代的専門知 識と融合し、またそれが教育全体の中でどのように位置付けられたかを明らかにしていこ うと思う。

1節 「北洋政府」による人材養成教育の再編

周知のように、北洋軍閥は日清戦争後、動揺する清朝支配体制を補強する目的で設立さ れた近代的軍事勢力の北洋新軍に端を発する。やがてそれは義和団事件をへて、政治局面 も左右する一大政治軍事集団へと成長し、さらに、辛亥革命に乗じて清朝から国家権力を 奪取し、以後の国民党による「南京政府」が成立するまでの間、全国の支配権力を掌握す るにいたった。この 1912-1928 年の間を「北洋軍閥統治時期」或いは「北洋政府統治時期」

といわれている。ここにとりあげた「北洋政府」とは、この時期に登場した諸政権、つま り、袁世凱政権および以後北京を中心に興亡した軍閥の諸政権の総称である。

北洋政府は複雑な政治・社会事情に直面しながらスタートした。辛亥革命後、孫文は中 華民国大総統の地位をかつての清朝の北洋軍将軍の袁世凱に明け渡せざるを得なかった。

袁の指揮下の北洋軍がなお革命を鎮圧する力を持っていたことを考慮したためである。民 国政府の大統領となった袁はみずからの地位を固めていく中、帝制運動を進めて、1915 年 にはついにみずから皇帝と称するようにした。ただし、その帝制復活の企図は内外の反対 によって失敗に終わり、結局、袁はわずか 81 日間の皇帝になっただけであって、1916 年 に彼の死亡とともに、その帝制復活も終結したこととなった。混乱の中、清朝の遺臣を自 称する「張勲」という辮髪将軍が廃位となった宣統帝を復辟させたが、このときの王政復 古は袁より短くてわずか 12 日しか続かなかった。これより 1928 年に孫文の後継者である 蒋介石の「南京国民政府」が成立するまで、中国は軍閥割拠の時代に陥った。この間、中 央政府の弱体化と地方権力相対的な強大化、かつ、それに伴う様々な意味での政治的不安 定さが現れた。また、このとき実際には、2つの政府が存在していた。1つは北京に、も う1つは孫文の指導する「護憲運動」下の広州に存在した。しかし、双方ともそれほど広

大な地域を支配したわけではなかった。また、孫の北京政府に反対した「護法戦争」、軍閥 の間の「直皖戦争」が行われ、さらにこの間には「五・四運動」という北京の学生が中心 に起った反帝・反封建を掲げた政府への抗議・対抗活動など、正しく動きの激しい時代で あった。

このような政治的な局面が現れた一方、新政権は極度の財政難も抱えていた。民国政府 は前代から空き国庫を引き継いだのである。それまでの財源としての土地税は役所の維持 にのみ割り当てられてきた。他の収入となるものは外国借款と戦争の賠償金の担保になっ ていた。さらに、国内向けの公債に出資とする者もいなかった。これだけでなく、軍閥の 専制支配、支配権の維持と拡大のため、帝国主義列強の軍事的・財政的援助を仰ぐほかに、

支配地域に対して極端な経済的収奪を行ない、強大な軍事力の維持を図った。次に挙げる 図1と図2は政府による軍事費の支出状況を示したものである。

図 2-1 1910-1925 年の政府の軍事費支出状況

102 131 153 203

600

0 200 400 600 800

1910年 1911年 1916年 1918年 1925年 軍事費(百万元)

(出典:中国科学院経済研究所編『中国近代農業史資料(第2輯)』、1968 年、p.603 より作成。)

図 2-2 1912-1923 年、政府の総支出に占める軍事費の割合

33.9 26.9 38.1 33.8 41.7

64

0 20 40 60 80

1912年 1913年 1914年 1916年 1919年 1923年 軍事費の割合(%)

(出典:同前、p.608 より作成。)

このような軍事費の激増の結果として、すでに極度の財政難に陥った資金問題に一層拍 車をかけた。

以上のとおり、民国初期の政府は政治的不安定な状況と極度の財政難問題を抱えてスタ ートしたことがわかった。この節において、上述した背景の中で、民国「北洋政府」はど のような新しい教育政策・方針、改革案を定めたのか、とりわけ、新しい民国社会の発展 を担う人材の養成教育に関する内容の規定は清朝末期のものと比べて、どのような新たな 発展が見られるのか、その中で、伝統的な学問教養は新しい時代で活躍できる有為な人材 養成の教育の中にどのように取り組まれ、近代的専門知識との関係において、どんな位置 付けが定められたのかという問題意識のもので、考察していく。

(1) 民国初頭の関係法令の発布と新たな教育方針の確立

1911 年辛亥革命の結果、清朝の支配体制が倒れ、初めて民主、共和の中華民国が成立し た。言うまでもなく、それは結局社会的変革を伴わず、不徹底な政治上の変革にとどまら ざるを得なかったとはいえるものの、やはり、この革命による2千年以来の封建的専制支 配の体制を打破した歴史的意義は大きいといわなければならない。こうした政治制度の根 本的な変革が教育面にも反映し、それに関わる政策・方針および教育制度・内容の制定に 大きな変化がもたらされた。

まず、新政権が直面している課題は、教育事業の全般を整え、新たな時代に適合する教 育の目的・制度を確立し、それを全国に普及させたことなどが挙げられる。1912 年 1 月の 民国初頭、中華民国臨時政府の初代の教育総長に就任した蔡元培は、直ちに『普通教育暫 行弁法通令』、『普通教育暫行課程標準』を発布し、初等教育と師範教育に関する教育内容 の改革案を出して、民国教育の基本方針を設定した。また、これらの法令が発布されてま もなく、蔡のもとで構想され、高等教育の改革に関する法令として、1912 年 10 月に『大 学令』が制定され、1913 年 1 月にまた『大学規定』と『私立大学規程』が発布された。こ れらの法令において、高等教育に関する新たな教育方針と内容が定められていた。こうし た民国初頭における数々の教育改革法令の制定は中国の近代教育史上では画期的な意義の あるものであった。ここでは、この民国初頭に規定されていた教育の諸法令の中に、新た な有為な人材の養成教育に関わる内容について、どのような新しい内容が規定されていて、

また、それらの内容は清朝末期のものと比べると、どのように変化が見られるのかを検討 することによって、民国政府の社会発展に寄与できる人材教育に関する教育方針の大筋を 把握してみる。

まず、全 22 条の総項目から構成されていた『大学令』は、その第1条において、「大学