• 検索結果がありません。

第3章 基幹大学におけるエリート養成教育―「清華大学」の場合

4. 教育の成果と結論

「国学研究院」の卒業生は4年間で、合計 74 名の学生を受け入れた。そのうち、病気な どの原因で中退した 4 名と卒業後まもなく病気で死亡した 6 名を除けば、実際に近代中国 の社会で活躍できたのが 64 名の卒業生であった。うち、11 名が引続き、欧米、または日 本に留学している。留学から帰ってきた者と他の 53 名の者が全国の各大学で教育・研究活 動に携わっていたという説57もあるが、1982 年に出版された全 10 集からなっている『中国 現代社会科学家伝略』58と 1982 年から 1987 年にかけて、全 10 集の出版を完成された『中 国当代社会科学家』59の第1集と第2集を調べたところによると、卒業生のうち、26 名が 大学で教授として勤務し、6 名が研究組織の研究者となっていたことが明らかである。ま た、2 人が雑誌・新聞社に勤務していた。この数字に限っても、半数以上の卒業生が教育・

研究分野で活躍していたことが確認できる。その中には、陸侃如60、王力61、王静如62、姜 亮夫63などのように、中国の学術研究に大きく貢献していた優秀な教育・研究者も含まれ ている。現在では、研究院の卒業生は一人も生存していないが、彼らが残してきた教育・

研究に関わる業績は、極めて大きかったと判断することができる。

1928 年、清華学校の校長に新しく就任した羅家倫は国学以外の他の専攻の研究院の発足 を公布した。これはすでに 4 回の卒業生を送出した「国学研究院」の終焉を意味した。

「国学研究院」は 4 年間という短い期間だけ存在したに過ぎないが、近代中国の有為な 人材の養成教育史上には強烈なインパクトを残したと指摘できよう。その教育の特徴をま とめてみると、以下のようになる。

「国学研究院」の教育は、当時「新文化運動」により加速されていた中国の伝統的文化 への否定に直面しながら、伝統的学問教養と西洋の近代的学問知識の融合性を求めようと したものである。それはまず、中国の伝統的道徳教養の中に含まれている「私的」道徳と

「公的」道徳を人格育成の主要な内容として、「徳」に関わる教育に位置付けたといえる。

また、このような「徳」の教養と「中学」・「西学」の学問を深く研究している「才」を兼 備した教育者、または研究者の養成を教育の目的とした。そして、この教育を実施する際、

新しい西洋の学問知識と研究方法を運用して、伝統的学問知識を研究するという方法を採 用し、「徳才兼備」の一流の学者を教授として招聘することによって、彼らが持っている学 問知識を学生に教えただけでなく、イギリスの大学を模倣して、研究院に常住するなどの 方法によって、各教授の伝統的教養や言葉と身をもって学生に教えたのである。また、中 国の伝統的教育組織であった「書院」の教育形式を採用し、研究院の自由でありながら、

なおかつ充実した研究の雰囲気と環境を作ったことも、上述した教育目的を実現するのに 重要な条件となったことも評価できよう。

なお、「国学研究院」は、当時だけでなく、それ以後の中国における学術の発展に大いに 寄与したと考えられる。それは、1995 年 7 月、清華大学と北京大学は共同して「『清華国 学研究院』教育の七十年周年を記念する国際学術検討会」を開催して、研究院で教授を務 めていた当時の有名な学者を記念するとともに、研究院の教育・研究方法が現在の教育に 対して示唆した意義、さらに、人材の養成教育としてその成果についての分析・検討が行 われた64ことからも窺える、言い換えれば、「国学研究院」の教育は現在のエリート教育の 改革に示唆を与える1つの有力な試みであると見做してよい。

以上のとおり、「改革期」における「清華」の教育は主管部門より有力な改革の政策・規 定が出されていなかったため、校長が自らの理念・計画に基づいて、教育内容の充実や教 育施設の整備などの具体的な活動の展開が見られた。

「清華」の「改革期」に相当した時代は、「新文化運動」より、とりわけデューイが訪中 した後、自由・民主という教育思潮が盛んに謳歌され、伝統的文化教養に対する批判の声 が高まっていた。新しい教育精神とともに、新たな道徳の内容を築こうと提唱している蔡

元培が「北京大学」で行なった教育改革はその自由・民主という一面が世間から注目され、

教育改革のモデルとされていた。一方、「五・四運動」による反帝、反封建の主張が全社会 的な民族意識の高まりをみせる中で、教育の自主権や教育の独立はこの時代に新しく出現 した社会的ニーズとなっていた。こうした社会的要因を背景にしながら、「清華」のリーダ ーとした立場に立っていた曹雲祥は、「清華」の教育の「独立」を求め、留学生の派遣事業 が主要内容としていた清華学校を国家の高等教育機関の一員にするように、四年制大学へ の転換を教育内容の調整や運営資金の調達、また設備の充実などの活動を通してその実現 に全力を注いだ。

他方、「買弁学校」という世間からの批判の声を配慮して、曹の教育改革では「清華」

の教育に伝統的学問教養に関わる知識内容を取り組んでいた。「国学研究院」の教育はい かに伝統的学問教養を教育の中に取り入れたのかの典型的な例となっている。彼の具体的 な活動によって、「清華」の教育における伝統的学問教養教育を充実し、強化しただけで なく、「新文化運動」以来、伝統的学問教養に反対し、自由・民主の実用主義教育に偏っ ている思潮への是正ともなったと考えられよう。それに、当時の社会では国家・社会に貢 献する、いわゆる[公的」道徳の教育が大いに論じられている中に、「私的」道徳を育成す る伝統的教養教育の必要性とその効果を再び検証したともいえよう。さらに、彼が主張し ている学問上の「中学」と「西学」の融合によって、新しい学術体系を作ることは、当時 では斬新であったと指摘できよう。その他、「国学研究院」の教育に取り組んだ「書院」

の教育精神・形式・方法は、同じ時期に、「書院」などの従来の教育を再評価し、新たな 教育改革の中にそれを取り入れようとした蔡元培らの教育者の考えを具体化したものと考 えられ、極めて大きな意義があった。

この時期の教育改革をとおして、「清華」の人材養成教育における伝統的学問教養は、主 に「私的」道徳の機能を強調され、またそれを教育の中で位置付けていったことが見られ る。これは大学へ制度的転換された後の教育に重要な布石を打ったと指摘できよう。

3節 「発展期」の教育

曹雲祥が辞任した 1928 年には、国民党の南方勢力の中心人物であった蒋介石がリーダー となって北伐革命を行い、全国の支配を統一したことによって、民国「南京政府(1928-1949 年)」時代が始まった。これで、民国政権以来、長期間にわたった政治的動乱が一旦収まる ようになった。このとき、国を振興するために、外国勢力の影響から教育を独立させるこ

とが民国初頭のときから引き続いて政府の教育改革の目標と成していた。これについて、

外国勢力の影響を感情的に排斥する一方、政党の政治目標に基づいて定められた教育方針 のもとで、教育内容・形式を中国社会に適合させる模索がみられてきた。このとき、政府 は「北洋政権」以来、教育の目的を明確に定められていなかったことから、改めて孫文の

「三民主義」という革命理念に基づいて教育の目的・方針を規定した。「清華」もこのとき 制度上、正式に四年制の総合大学として「国立清華大学」となり、教育部の管轄の下に置 かれるようになったため、「三民主義」の政党理念が教育目的・方針として定められたこと となったことより、「清華」の教育にも関わるようになったと考えられよう。

この時期に「清華」の校長を務め、かつその教育活動に貢献したのは羅家倫と梅貽琦の 2人である。羅は 1928 年 8 月に「清華」の8代目の校長として就任し、1930 年に辞任し たが、梅は羅の後任が「清華」の教授会と学生側との衝突で、わずか9ヶ月で辞任した後、

1931 年 12 月に「教務長」(教頭に相当する)から昇任している。梅は 1948 年 12 月まで校 長の職にあった。彼は歴代の「清華」の校長の最も長い任期であった。この2人の時代は、

「清華」の「発展期」という歴史段階に入っているといわれている。以下は、2人の教育 活動に焦点を当てながら、「南京政府」の「三民主義」の政党理念に基づいて定めた教育方 針のもとで、「清華」の教育はどのような教育活動を展開していたのかを検討する。なお、

上述した政局の変動にともない、「清華」の政府による主管部門も変わられたため、「国立 清華大学」となった「清華」の教育に関して、教育部はどのような法令・規定を定めたの か、また、これらの法令・規定は実際の教育活動にどのように実行されていたのかを確認 したい。

(1) 「国立清華大学」に関する条例・規程

1928 年 9 月に「国立清華大学」という名称で、「清華」は正式に四年制大学となったと ともに、政府は新たに『国立清華大学条例』を制定した。この条例には「清華大学の教育 は中華民国の教育部が定めた宗旨に基づいて、中華民族の学術上の独立を求め、新しい中 国を建設する使命の達成を目的とする」と記している。ところが、『条例』に規定されてい る「中華民国の教育部が定めた宗旨」に関する具体的な内容は明らかにされていなかった。

これについて、翌年の 1929 年 4 月 26 日に公布された『中華民国教育宗旨とその実施方針』

65と同年の 7 月 26 日の『大学組織法』66、さらに、8 月 10 日に制定された『大学規程』67で は、教育部が全国の大学への組織・企画権限を持つことと定めたとともに、大学の目標を「学