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第1章 清朝末期における近代エリート養成教育の成立過程とその実態

3. 日本留学教育のまとめ

こうした日本での留学を終え、帰国した留学生の中で、清朝政府の「新軍」の高級将校 として活躍した人が多く見られる。その数は実にその三分の二も占めているのであった。

そのほか、様々な書籍の翻訳をし、新しい知識などを国内に紹介するなどの活動をしてい た。また、彼らは近代学校制度の発足にともない、教育事業に携わり、近代教育の普及に 貢献したことも事実である。

しかし、1906 年政府が設けた帰国留学生の登用試験において、最優秀者が欧米、ことに アメリカからの留学出身者により占められていて、日本からの留学出身者は中等の成績に すぎなかった。この登用試験は 1911 年まで毎年実施されたが、その結果はほぼ 1906 年度 の結果と同じく、欧米国からの留学生と比べると、日本から帰国した留学生はその成績が 著しく劣っていた96。それに、アメリカへの留学生の多くは大学で学位を取得していて、

速成教育が多く、中途退学も多かった日本留学とは対照的な結果となっている。こうした 留学生の質的低下問題の原因は多方面である。本論との関連で次の2点挙げられる。

1)「新政」を実施するに際して、「新軍」の整備や近代学校の開設などの新しい事業に は人材の必要性が急増したため、清朝政府は日本留学教育では長期養成と速成養成の二つ の就学方法を政策として出している。しかし、洋務運動時期に、欧米国へ留学生を派遣し た際に、厳しく設けられた選考条件や関連事項の規定は日本への派遣の場合には見られて いない。それに、政府の諸規定はすでに公布した政策の不備に対する補完としたもので、

留学に関する長期的な計画としたものは見られなかった。その結果、政府の奨励政策のも とで、官費・私費留学生が相次いで、日本に殺到したが、その中にまだ基本的な学力など が備えていない者も少なくない。無論、このような学習者が速成教育のみ受けて、清朝政 府が期待した「中学」の道徳教養を身についたうえ、洗練された「西学」を通暁する人材 となって、国のために力を尽くすことは実現できなかったといえよう。

2)一方、「新政」の実施にともない、いきなり拡大された就職の機会が現れたことによ って、新しいエリートとなる機会を掴みたい気持ちが留学生側に強かったと考えられる。

ことに、1905 年に科挙制度の廃止によって、留学の速成コースを通して肩書を持つことは

最短な方法であると判断したといえよう。このように、時流に乗ることを望んだ者がいた としても不思議ではない。

結局、日本への留学生の派遣は張之洞らが中心した政府の想定した目的と大きな差があ った。留学帰国者の中で、辛亥革命のときに、主要な指導者となり、清朝政府を打倒し、

中国社会の変革に大きな役割を果たした者は決して少なくない。例えば、「武昌起義」に素 早く応じた雲南陸軍の中堅幹部の 40 名のうち、31 名が日本から帰国した留学生であった。

「戊戌変法」以降、とりわけ清朝政府の「新政」期に展開されていた大規模な日本留学 教育は洋務運動期の欧米の留学派遣と比べれば、「夷の長技」の「西芸」のみ学んだ早期留 学成果より、「西政」まで内容を拡大し、社会の広い分野にわたる知識を学んだことから、

その意義が大きかった。しかも、その留学者数をいえば、初期のときより何十倍という膨 大な量であった。これらの留学生は、中国社会の変革に主導的な役割を果たしたことが何 より大きな貢献であるといわなければならない。

しかし一方、その結果は張之洞らが中心に構想した留学教育の方針と目的から遥かに違 う方向に向かっていた。その原因はとして、上述した内容のほかに、この時期の留学教育 の特徴として、また3点指摘することができる。

1)日本に留学派遣を決定する前に、政府は視察などを通して、周密な調査・確認を行 なったが、実際の留学教育が始まると、それらの調査結果に基づいて具体的な留学教育に 関わる計画の制定から具体化に至る適切な活動が見られていなかった。例えば、日本の教 育には儒教主義の道徳が保持されていながら、西洋から必要な知識をうまく導入して、自 分の教育システムの中に取り組んでいったと認識したものの、こうした特徴が留学生教育 の中にほとんど浸透されていなかったことが挙げられる。これは、1906 年まで留学生のお およそ9割が東京にある各種の中国人向けの速成学校で勉強していたことや、また、日常 勉強の仲間は中国人同士で、日本の教育制度・内容そのもの、とりわけ日本の「儒教主義 の道徳」に触れることがほとんどなかったと考えられよう。

2)このとき、日本に滞在する中国人の事情もが複雑であった。勉学のために日本に渡 った者もいた一方、政治亡命者、例えば変法維新を主張する康有為、梁啓超らの人物もい た。またこれには、孫文らの革命者も含めているので、各種の思想が狭い範囲で活動して いる留学生の間に伝達しやすいともいえよう。それらの思想の影響を受けて、新たな行動 をとる者が実際には少なくなかった。

3)儒教的思想に基づいて、国民の意識を統合したうえ、強力な統一国家の建設を実現 する張之洞の考えと異なり、多くの留学生は既成の国家に見切りを付け、新しい国家を展 望し始めていたので、彼らは中国を救う唯一の方法は今の支配体制を壊さなければならな いという革命観をもっているのであった。このような政府の基本的な方針と違った留学生 側の認識が日本留学教育の結果にも影響を及ぼしたと指摘できよう。

こうして、清朝の最末期の日本留学教育は、結局、王朝支配の滅びを加速したことがそ の最大な成果であるといえよう。

19 世紀の前半において、すでに様々な問題点が露呈していた「科挙取士」の人材養成教 育はアヘン戦争以後、その欠陥が一層明らかになってきた。しかし、それに対する反省お よび批判はあくまでも、「夷狄」の持っている「船堅砲利」を認めたところに止まったため、

西洋の専門技術のみの「西学」を従来の人材養成教育の中に新しい要素として加える必要 性が論じられるようになった。このような論調を政府の洋務派官僚により、具体的な「洋 務運動」を通して具現化されていた。彼らは外国語、軍事技術のような西洋の専門技術を 教育する機関の開設によって、外国の進んだ機械技術を導入しようとした洋務運動の一環 として近代の学校教育を始めた。それに、より進んでいる専門技術を習得する狙いを持っ て、1870 年代より、欧米国へ留学生を派遣する事業もスタートし、近代留学教育の幕を開 けた。

ところが、このような近代学校および留学教育を通した近代の人材養成は、すべて、中 国の伝統的学問教養を中心的なものとして、西洋の専門技術を受ける者はまず所定のレベ ルまで達すると規定されていたところがその特徴となっている。すなわち、洋務派が主導 した「富国兵強」の洋務運動における「西学」に対する認識は、「夷の長技を師として夷を 制する」という考えのもとで、「船堅砲利」だけ注目していたため、新しく設置された近代 学校、または留学の教育は、従来の人材養成教育の内容となす伝統的儒学教養が行なわれ ている「科挙」という官僚の選抜制度を頂点とされていた教育体制とは無関係であった。

洋務派の官僚によって散発的に設立された近代学校は、所詮、その事業の一環としたもの であり、新しく導入された「西学」は伝統的「中学」の人材養成教育における支配的な位 置付けに対して、ただある分野に限り、補助的なものであったといえる。しかし、これら の洋務派の事業に関連され、また、散発的に開設された近代学校の教育は、伝統的「中学」

が近代的「西学」からその教育における首座の奪取に直面する兆しとなっていたとも指摘

できる。

1894 年の日清戦争は中国側の敗北によって、すでにアヘン戦争以来列強に数多くの不平 等な条約を押し付けられて、略奪・分割されていく「国家の保全」問題が一層深刻となっ たのである。また、この戦争で小国と見られ、かつて中国から多大な影響を受けた日本が 勝利に終わりという事実は中国政府と国民に大きな衝撃を与えた。そればかりでなく、こ の敗戦は、洋務運動の限界とそれにともなった近代教育の導入策の挫折を表明する決定的 なものともなったのである。そこで、王朝体制に根本的にメスを加え、清朝を起死回生さ せようとし、欧米に習って立憲君主制、議会制の採用が不可欠な制度改革を唱え、西洋の 教育制度をはじめ、あらゆる教育内容の導入を唱えた康有為、梁啓超、譚嗣同、厳復など の「変法論」ないし「革命論」が相次いで現れてきた。

康有為はこれまでの論調を踏まえ、洋務運動を批判しながら、体制補強の改良策のため に変法運動を提起した。教育の改革に関して、「民智を開く」ことを主張し、科挙試験にお ける「八股文」の試験方法の廃止から「書院」を近代学校に組織的転換し、各種の専門学 校および「京師大学堂」の開設まで、全国の教育体制を近代的学校制度によって整備する ことを提起したのである。康が代表した変法論者が主張した教育改革は、「西学」の制度ま でその導入する内容の拡大が見られるが、それはあくまでも、「中学」との一種の千強付会 の論調によって成立されたところが特徴となっている。すなわち、変法論によれば、「西学」

にある制度・内容とも「中学」の中にもともとあったものであり、全く異質的なものでは ない。彼らは「中学」と「西学」の新たな関係付けを論証し、洋務運動より論議されてき た相互の対立関係論や包摂関係論と異なり、いわゆる相互の平等関係を築いたことがその 特徴となっている。なお、彼らによる打ち出した新たな教育改革の中には、「中学」の位置 づけは依然として主要的なものである。それに、このような教育を民衆まで普及する必要 があると考えられていたのである。こうした考えを持っている彼らは、新たな実行活動と して、洋務運動の教訓を吸収しながら、制度の整備と内容の充実を図り、より幅広い近代 的知識の内容を取り入れたものと中国の古い教育機関であった「書院」の教育組織・方法 を利用し、「民智」を開くために、「西学」の一般教養知識を教育の中に導入したものが見 られてきた。しかし、彼らが主張した変法の内容は「戊戌変法」の失敗とともに、ついに 水泡に帰した。

1900 年の義和団事件後、「新政」を余儀なくされた清朝政府は、かつての「戊戌変法」

で出された改革計画をほぼ全面に採用することとなった。1902 年、清朝政府は「欽定学堂