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第1章 清朝末期における近代エリート養成教育の成立過程とその実態

1. 張之洞による「中体西用」論の確立と教育趣旨の制定

清朝政府の最後の 10 年間において、近代教育の確立のための理論的方向付けと具体化を 進めた中心的な人物は張之洞であった。

張(1837-1909 年)は 1863 年に進士に合格し、1884 年から両広総督の地位にあり、1889 年からの 17 年間にわたり、湖広総督としてその地域を統轄した。1907 年に軍機大臣に昇 任した張は清朝末期の大官僚でありながら、有名な政治家であった。「清仏戦争」(1884-

85 年)では強硬な主戦論を主張したが、敗戦後「富国強兵」策をとり、広東に造兵工場、

陸海軍兵士学校を創立し、さらに、鉄道の建設、炭鉱の開発、製鉄所の建設、さらに、製 糸、紡績などの近代工業を育成するなど洋務運動の後期を代表する人物でもあった。同時 に、彼は他の洋務派官僚と違って、また、「広雅書院」、「広雅書局」を開設し、中国の伝統 的学問教養教育と出版にも力を注いだことからうかがわれるように、教育の近代化に大き く貢献をした人物としても知られている。さらには、1898 年に彼は自らの洋務の実行に基 づいて、その思想的バック・ポーンとなる『勧学篇』を著し、その中で、これまでの洋務運 動と変法運動で取り上げられていた「中学」と「西学」との関係付けをめぐる様々な論調 をまとめ、他方、これからの教育改革に関して、「中学」と「西学」との方向付けをも行っ ている。それは、すなわち、「中体西用」(原文:「中学為体、西学為用」)という考え方で ある。このように実業を推進しながら、教育改革を行った張之洞について、近代教育史の 研究者である蘇雲峰は「変を求める実用主義と従前のものを守る伝統主義という2つの面 を持っている。なお、張は常にその両者の調和を求め、この2つの要素は彼の政治政策や 教育政策を左右してきた」54とその思想の特徴を分析している。また、彼の「中体西用」

論に関して、王朝体制を維持するためのイデオロギーであり、ドグマ視されてきたという 通説に反論し、中国近代思想史の研究者である溝口雄三は「それがより多く個人倫理の涵 養をいうものであって、(中略)いわゆる体制イデオローグたりうる面」があって、「あく まで中央集権的統一国家のかなめに擬せられたその護持すべきかなめへの忠誠である」55 と評価している。こうした先行研究による張之洞の思想への評価は正と負の両面にわたっ ているが、ここでは、彼の思想的帰結を凝縮した『勧学篇』を通して、「中体西用」という 論調の内実を分析しながら、それが近代の人材養成教育の目的・方針の制定にいかに影響

したのかを考えてみることにしたい。

『勧学篇』は四万字余りあり、「内篇」の九篇と「外篇」十五篇、全二十四篇からなって いる。張之洞は『勧学篇序』においてその内容の大要について、「内篇では、本をつとめて 人心を正し、外篇では通につとめて風気を開く」56と紹介している。つまり、「内篇」は主 に「中学」について論述しているが、「外篇」は「西学」、それに「中学」と「西学」との 関係を論述しているという趣旨である。この『勧学篇』のすべてがほとんど彼の約 40 年間 の政務体験に基づいてまとめたものである。すなわち、アヘン戦争の中で育ち、太平天国 をくぐり、中仏戦争から日清戦争を両広総督として実地に体験し、また各種の事業を手が けるなどの体験の中で、積まれていた対内対外の認識をまとめたものであると考えてよい。

張之洞は『勧学篇』外篇の「学堂設立」において、新たな人材養成教育の内容範囲につ いて、「中学」の「四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易、書、詩、春秋、礼記)、中 国の歴史・制度・地図」を定めたとともに、「西学」の範囲を「西政・西芸(西洋の技術)・

西史」と確定したのである。また、「中学」については、孔門の学を主に指していることを 明確にした。ここで指摘しなければならないことは張が政府の官僚であり ながら、政治家 として活躍した人物であって、思想家ではないことである。彼の儒学は主に清・廉・朴・

正を主眼に置いた個人の「道徳」であった。また、彼の重い体験に裏付けられた列強侵略 への絶対的危機感から国家統一を強く意識するに至ったのである。換言すれば、自らも既 成の国家体制の重要な担い手の一人として、それを守り支えることが国を守ることでもあ った官僚的な国家感覚に基づいて、人材の養成教育における中国民族の伝統的道徳観念、

民族の精神、民族的気概というものを儒学が中心に、「体」として備えることを求めたと考 えられる。それは、「国を保ち、儒学を保ち、民族を保つことは同じ道理であることを明ら かにする。手足がきけば頭目はすこやかで、血気が盛んなら精神は堅固で、賢才が多けれ ば国勢はおのずと盛んである」57という考えを示したように、儒学という伝統的学問教養 による国民の思想の一致を求め、民族を保つ、国を保つ、なおかつ、国勢を盛んにするこ とを狙って、儒学を学ぶ必要性を唱えたと見られる。また、儒学について、「礼によって集 約し、天地とならんで、万物の性をつくすもの」であり、「孔門の政治は尊ぶべきを尊び、

親しむべきを親しみ、民の生活を先ず豊かにして、しかるのちに教え導き、文明であって、

しかも武を備え、時に応じてそれにかなった制度を整えるものである」58と「中学」の根 幹となる儒学の特徴を挙げた。また、このような「中学」を学ぶ重要性に関して、「今日、

学問をするものは、必ずや先ず経書に通じて、わが中国の先聖先師たちが教えを立てた主

旨を明らかにし、史書を考察し、わが中国の歴代の治乱、天下の風俗を知り、子・集(諸 子百家の書と詩文集)を渉猟して、わが中国の学術、文章に通じなければならない。そう してのち、西学の中で、われわれの欠けたる所を補いうるものを択んで、これを取り入れ、

西政の中でわが国の病弊を手当しうるものを採用するようにすれば、それこそ益あって害 はないのである」59と説いた。さらに、「中国の士人であって、中国の学に通じなければ、

それはちょうど自分の姓を知らない人間(中略)のようなものである。そういう人間は、

西学を学ぶことが深ければ深いほど、中国を憎悪することもいよいよ甚だしくなる。博識 多才の士であったとしても、これでは、国家も、どうして(このような人を)用いること ができようか」60という言葉で示したように、国家にとって、役に立つ人材となるなら、

西洋の近代的・専門的知識より「倫理涵養」の内容を含めた長い歴史の中で築かれてきた 文化・教養・学問という総合的な「中学」をまず通暁しなければならないと主張していた ことが窺われる。この文脈より、張之洞における「中学」の提唱とは、「保守的」という彼 に対した通説とは違い、むしろ国力の劣弱と国家の分裂を自覚した者としての危機意識の 表明であったというべきであろう。なお、上の文脈からも彼のこうした意識に基づいて定 めた学問における「中学」と「西学」との優先順位が明らかであるとも考えられよう。

一方、張之洞は「西学」にある「政」と「芸」の2つの要素に関して、「学制、地理、財 政、税制、軍事、法律、工業政策、商業政策は西政であり、数学、製図、鉱業、医術、音 響学、光学、化学、電気学は西芸である」と述べていた。それに、新たな学堂の方針には、

上に述べた意味における「中学」と「西学」とも合わせて学び、その一方を廃止してしま ってはならないと主張した61。この内容から、洋務派を中心に展開してきたこれまでの西 洋の技術の以外はすべて中国が優れているという論調と違い、張之洞はそのような偏狭な 排他的国粋主義や固陋な保守主義と異なり、「西学」から導入すべきものはただ「西芸」の みならず、広く「西政」も包摂しなければならないと主張したことが窺える。また、張の これらの主張は、理念において、保守派から徹底的に離反する一方、『進化論』に基づいて、

制度・政府・国家を新たにするよりも、民を新たにすることが根本であるという考えから 出発し、四書五経の義理よりも西洋的な公理を基準化にし、西洋から新思想を移植し、民 権・自由を問わなければならない「新民」を作る教育を提唱する革命派62とも対決してい るとも理解することができよう。張にとって、西洋の優越は明らかな現実であり、「各国の 物産、商状、公法、律令」の摂取やそのための外国語の習得は「自強」のための急務であ った。それだけに西洋の圧倒的に優越と自覚された文明に対する摂取側の主体の喪失への