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第3章 基幹大学におけるエリート養成教育―「清華大学」の場合

2. 教授の招聘と学生の募集

『研究院章程』では研究院の教授および講師の採用基準に関しては、以下のように規定 している。それは、「1)本研究院は深く幅広い専門的な学問を身に付けた学者を数名招聘 して、専任の教授として研究院に常住させ、教育と研究の指導に従事させる、2)特定の 学科について、平素から研究業績のある学者を随時に本研究院の特別講師として招聘する

ことができる」のとおりである。

準備委員長呉宓は開校式での演説において、教授などの資質についても、「国内の有名な 一流の学者を招聘する。それは、以下のような資格を有する者に限る、1)中国の学術文 化を通暁する者、2)正確かつ厳密な科学的方法で学問研究を行っている者、3)欧米、

日本の学者による東洋の言語および中国の文化に関する研究に詳しい者、4)熱心に学生 と交流し、学生に教育の機会を与え、短期間で多くの知識を習得させる者」と明確に表現 している。

当時、「新文化運動」で主張されたものをはじめ、教育分野では様々な思潮や論調が見ら れるが、上の文脈から、研究院は教授の採用基準についてその人が持っている思想や立場 にこだわりなく、学識、研究方法、教育への熱意を重視していたことがわかる。この基準 に基づいて、研究院は1925年に、王国維、梁啓超、陳寅恪、趙元任の4人を教授として、

また李済を専任の特別講師として採用した。

まず、王国維は清末の進士47であり、日本語、英語、ドイツ語を通暁していたため、1901-11 年の10年間、中国の近代教育に必要とされた教科書、教育の参考書を20数冊翻訳し、西 洋の教育制度と教育思想を国内に紹介した人物として知られている。また、彼は1906 年 に発表した「教育の目的」(原語:「論教育之宗旨」)という論文において、中国の近代教育 史上、初めて「美育」を道徳教育の一要素として教育の中に取り入れるべきと主張してい る。これは有為な人材養成教育における道徳教育に関して、新たな教育の要素を提起し、

それを取り入れる嚆矢となった。王は1911-16年には、日本において、中国の古代文字学 と古文献学の研究に専念し、大きな成果を上げている。

一方、梁啓超は近代中国で影響力の大きかった優秀な学者である。1895年、彼は康有為 とともに変法自強を唱え、戊戌新政を推進していた。また司法大臣、財政大臣という民初 政府の高官を歴任したことがあるが、1917年以降は、教育・研究活動に専念している。彼 は歴史学に関する造詣が深く、その分野に関しては「北斗」と呼ばれるほどの人材であっ た。そして、彼は有為な人材の養成にとりわけ関心を持ち、その教育内容・方法などにつ いて頻々講義や演説などを通して自身の考えを公にしている。例えば、1914年11月5日、

彼は「君子」というテーマで清華学校の学生に対して演説を行い、『易経』という経書にあ る言葉を引用しながら、「天の運行が順序正しいように、人も自彊して止まないようにすべ き、また、豊かな大地のように、人も深く厚い徳を積むべき」と説いて、新しい社会の発 展を担う人材の特質について、自ら積極的に学習に取り組み、深い道徳の教養と学問知識

を身につけているものと指摘している48。清華大学は梁のこの演説の内容をもとにして教 育理念を定めた49のである。

また、陳寅恪はベルリン大学、チューリッヒ大学、ハーバード大学などで研究を行った。

彼は英語、フランス語、ドイツ語、日本語はもちろん古代インド語、チベット語、アラビ ア語、トルコ系言語も堪能であり、歴史学の分野で世界的に名を馳せた人物であった。

他に、趙元任は 1910 年に清華学堂(清華学校の前身)のアメリカ留学試験を2番で合 格し、1918年にハーバード大学の哲学博士の学位を取得し、中国の現代言語学の基礎を築 いたことで知られている。これ以外に、李済も清華学校の出身で、1918年にアメリカ留学 し、1923年には、ハーバード大学の人類学の博士号を取得したのである。

以上のように、研究院の教授として採用された教員はすべて留学経験があり、西洋的学 問研究方法や専門分野に関する外国での研究状況に通じていた当時の第一級の人々であっ た。しかも、研究上の経歴から窺われるように、彼らは伝統的な学問・教養が身について いただけでなく、それぞれの研究分野でも大きな研究業績を上げ、国内外でも著名であっ たという共通点をもっていたといえる。

一方、研究院の学生募集は全国的に行われた。『研究院章程』によると、応募条件として、

1)国内外の大学卒業生、または同等の学力をもつ者、2)各教育機関の教員または学術 機構に勤務し、学識と研究経験の有する職員、3)経書、歴史、古代文字・音韻・訓詁学 の研究に能力を備えている者、4)これらの条件に加えて、清華学校の卒業生の場合、学 校と担当教授の推薦があれば、特別学生になることができるようになっていた。

なお、同『章程』において、試験問題の内容範囲、試験方法についても明示されている。

その内容は3つの段階から成っている。第1部は経書、歴史、古代文字・音韻・訓詁学に ついてであり、一般的な学識を重視し、問答式で行う、第2部は論文を作成する、第3部 は専門学科の試験であり、経書、歴史、古代文字・音韻・訓詁学、中国文学、中国哲学、

外国語(英語、ドイツ語、フランス語のうちから一科目選択)、自然科学(物理学、化学、

生物学から一科目選択)、普通言語学という8科目のうち、いずれか3つ選んで解答するこ とと規定されていた。初年度の試験によって、33 名の学生が合格している。なお、1926 年以後の試験の内容には、中国の伝統的学問に関わるものだけでなく、外国語、世界史、

西洋哲学、心理学などの試験科目も設けられているようになったことから窺われるように、

西洋の学問に対する知識も求められていた。このことから研究院の設置趣旨にも示されて

いたように、学生がそれらの知識を運用して、「中学」と「西学」の融合性のある学問を研 究する、または西洋の研究方法を用いて中国の伝統的学問を研究する能力が望まれていた と考えられる。「国学研究院」の他の3期の試験結果は、1926 年に 28 名、1927 年に 10 名、

1928 年に3名と、4年間合計して、74名の学生を合格させている50